畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

立川のデパ上で。

2012-08-19 04:44:00 | 日記
午後休みとって、妻と2人で立川のデパ上の回らない寿司屋へ。

寿司は高いけど、ランチは意外と安い。


回らない寿司屋のカウンターってちょっと憧れる(笑)



私が頼んだ「づけ穴子丼」
カツオの漬けと穴子がたっぷり。ご飯大盛りにしています。



妻が頼んだ「海鮮丼」

これに青のり汁とデザートの白玉がついて900円弱。安い。

妻は105円プラスで茶碗蒸し付に。茶碗蒸しにカニ汁が乗っていて「かき回してくださいね」とのこと。いいサービスだな~。


 最近子ども連れで回る寿司屋ばかりでした。先日浜松で友人がおいしい回らない寿司屋のランチに連れてってくれたので、また行っちゃいました(笑)。

浜松城探訪

2012-08-18 04:44:00 | 旅行・観光
今回は静岡県の西部にある政令指定都市・浜松市にある浜松城を紹介します。

 浜松市は前述の通り政令指定都市で、その市役所のすぐ隣に浜松城があります。そのため、浜松城は市街地の真っただ中にあると言えます。それだけに駐車場は有料であることを覚悟したのですが…なんと無料でした。市街地の活性化のためでしょうか?


 浜松城の前身である曳馬城が1467(応仁元)年ごろ築かれました。その位置は今の浜松城から少し北東に位置するところで、現在では東照宮があります。築城者は不明ですが、その後今川家臣の飯尾氏が城主となっています。
 そして、1570(元亀元)年に徳川家康が現在の場所に浜松城が築城したといわれますその徳川家康も1590(天正18)年に天下を統一した豊臣秀吉によって関東移封を命じられ江戸時に向かうと、浜松城には豊臣家臣の堀尾吉晴が入城し、天守閣や今に残る石垣を築いたと言われます。その後、浜松城は家康が居住したという歴史的背景から徳川譜代の家臣の城となります。そのため、領主は点々としています。有名な城主に天保の改革を進めた老中となった水野忠邦がいます。



 浜松市の中心市街地にもかからわず、この辺は小中学校(しかも小学校の名前は元城小学校!)、市役所、美術館などなど多くの公共地があり結構緑が残っています。

 やはり城だったという事情で官有地だったことが影響しているのでしょう。「安政年間古図」によるとこのあたり一帯がほとんど城だったようです。



 浜松城公園の園路は「家康の散歩道」という名称で売り出し中(笑)浜松城は家康が天下を取ったし、江戸時代は譜代の大名が次々と出世したことから出世城と呼ばれています。中でもやはり天下人の家康を売り出したいのでしょうね。



 浜松城公園は本当に緑豊かです。しかしそのせいで石垣の外観などを見ることができず景観を損ねているという論もあります。

現在は浜松市役所と浜松市中区役所がある建物のあたりが、浜松城二の丸でした。

 二の丸には「表御殿」と「奥御殿」があり、特に表御殿では年寄り詰所や勘定所など浜松藩の藩政の中枢となる場所でした。
 ここでちょっと不思議に思いませんか?なぜ「二の丸」に御殿があるのか…と。その理由は浜松城で購入した資料を読むことで理由がわかりました。本丸には「御成御殿」(おなりごてん)という将軍家専用の御殿があったようです。江戸幕府の初代将軍が一時期居城とした城ですし、2代目の堀尾吉晴が豊臣系の大名であったため、江戸時代になって徳川家康を神格化するために、あくまで「浜松城は徳川家康のもの」というのを表したのかもしれませんね。この御成御殿は江戸初期しか使われなかったようで、本丸は象徴的な意味しかなさなくなり、二の丸の御殿が浜松藩の政治の中枢となったようです。その二の丸があった場所が現在は浜松市役所となり、70万人政令指定都市浜松市の行政の中心というのもなんかちょっといいですね…(まあ遺構がなくなった残念ですが…)。



 二の丸御殿の説明板から80mほど行った市役所別館の端に「鎧掛松」があります。1572(元亀3)年の三方原の合戦で武田信玄軍に敗れ命からがら浜松城に帰ってきた徳川家康が鎧を脱いで掛けたことからこうよばれたらしいです。しかし、400万年前の松ならもっと大きいはず…。と思っていたところ、これは3代目の鎧掛松とのこと。しかも当時の位置とはだいぶ離れているようで、浜松城の整備と共に移転するようです。



 鎧掛松から二の丸に戻って、そこから登って本丸に行きます。現代の石垣風コンクリートと傾斜スロープでちょっと雰囲気がでていませんね。



ここが本丸の曲輪です…といっても広いと思えないほど木が繁殖しています。

本丸部から天守曲輪にかけては往時の石垣が残されています…がここも木が邪魔してなかなか見えません。この本丸も周囲は石垣で囲まれ、北に大手門である「鉄門」、南に富士見櫓、南東の隅に二重の菱櫓があったといわれますが、詳しい本丸内部の様子は発掘調査が行われていないようで不明のようです。



 2012(平成24)年度から始まる「浜松市制100周年記念事業 浜松城公園歴史ゾーン整備」で本格的に天守門とその塀が2015(平成26)年度までに復元予定。さらに2016(平成27)年度から本丸の一部の2020(平成31)年度までに富士見櫓と塀が復元される予定だと言います。そのために石垣の崩壊を促している大きな根を張る木や、石垣の景観を損なっている木を伐採する予定のようです。(浜松市のサイトより)この計画を見ると、このあたりの木はバッサバッサ切られるようですね。http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/lifeindex/enjoy/park/zone/index.htm)いいなあ政令指定都市や県庁所在地は…復元工事がバンバン進んで…七尾城も早く復元工事せんかい!一応能登地方の中心都市なんだから…。



本丸跡には浜松城イチオシの徳川家康の像があります。



 いよいよ天守曲輪に登ります。この石垣は往時のものです。この石垣は「野面積み」と呼ばれる戦国期の積み方です。浜松城の天守台石垣は安土桃山時代に築かれたため、江戸時代のような大柄なものでなく、このようなちょっと粗い積み方になるんです。



 天守曲輪に上がると復興天守閣が見えてきました。こちらはまったくの模擬天守閣で復元ではありません。

 天守曲輪の入口には天守門がありました。石垣の形でそれがわかります。ここが今年度から3年間かけて復元される予定の場所です。今年度基礎工事を行っているのか、一部立ち入り禁止になっています。



では天守台に上がり復興天守閣に入ります。

天守閣の入口はグッズショップになっています。「出世大名家康くん」のマスコットのグッズがいっぱいありました(笑)

 本もそこそこありました。安いので買った『浜松城と城下をめぐる』(300円)という本は、意外にも2009(平成21)年の発掘調査の内容など詳しく載っており結構楽しめました。お買い得かも。息子は最近、「今夜はヒストリー」(メイン司会関口宏)という番組のおかげで、めきめきと戦国好きに(笑)織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人を取り上げた回の中でどうも徳川家康が好きらしい。地味な私の息子らしい人選で、親子共通です(笑)息子のために戦国武将のクリアファイル(250円)を購入。娘もせがむので家康くんのキーホルダー
(530円)も購入。



 左側の具足は「金蛇美具足」と言われ、桶狭間の戦い(1560年)で松平元康(後の徳川家康)が着けていたという伝承がある具足です。ですが、説明板にも書いてありましたが、あくまで伝承であり具足としては後世の作と考えられているようです。



 おお!赤備えが!これは家康の家臣井伊直政のものですね。2010(平成22)年に「井の国千年祭」に家康くんも出陣したらしく「ひこにゃん」とのツーショットも(笑)
はんせい


 浜松城下の模型がありました。これを見ると二の丸の御殿がよくわかりますが…本丸に天守閣がない!なぜ??……と思っていましたが、後で購入した資料を読むと理由がわかりました。江戸初期の絵図ではもうすでに天守閣は描かれておらず、天守台しかないようで、ここから江戸初期にはもう天守閣はなかったという見解のようです。その後結局江戸時代を通じて天守閣が再建されることはなかったようで、絵図などの資料がまったくないからこそ天守閣は復元できず、模擬天守閣しか作れないと言えます。浜松藩は天守閣がない浜松城の代わりに天守門が象徴的な建物になっていたようです。



 復興天守閣最上階からの景色です。金網で景観が悪いのが残念です。この点は浜松市の浜松城公園整備計画でも問題点として挙げられていたので、今後改善する可能性があります。



 天守台には西部分に張り出しが見られます。またこの部分はなんなんでしょうね?説明がないからよくわからないなぁ。あるいは天守閣が続いていたのかな?復興天守閣はこれ以上あまり手を加えないみたいで…無念。ん?張り出し部分に何か木碑が!ズームしてみると…「大切にしましょう三角点」……。なんだこれ…(笑)



浜松城天守閣から見る浜松市街の景色です。大きなビルがいっぱい。肌色の大きなビルは浜松駅前の超高層ビルアクトタワーです。こんな都心にある公園は緑豊かでいいですねぇ!



 浜松城天守閣地下には井戸があります。飲料水の確保としてよく見れらる例です。その一角に「センゴク」の原画が飾ってありました。ここに飾る??もっと目立つところに飾れば…。


さて、復興天守閣を降りて美術館側へとなっている埋門があった方面へ

こちらも天守台の石垣がよくわかる部分です。

説明板で浜松城の野面積みについて詳しく説明してありました。



 「八幡台 ここは天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高い。(中略)浜松城のなかで最も高い所(411.9m)である。城を守る神社(たぶん八幡大菩薩)をおまつりした所だといわれる。(後略)」と説明板にある。なるほどあの天守台の西にあり三角点があった場所は天守閣が連続した場所ではなく、神社があった場所なのですね。八幡宮が城を守るために天守閣の上位に位置づけられるって面白いですね。確かに日本人の思想の中に神社や仏閣が上位に位置づけられていたということを表している好例でだと思います。



 これは本丸曲輪の埋門跡ですね。かなりくっきりと残っていますが、こちらは大手門ではないので残念ながら今回の復元計画から漏れています…無念。



本丸曲輪というか天守台の北の斜面です。かなりの高低差があります。



この北側は主要な発掘調査なども進んでいないようで、回遊式の庭園になっています。

 ここに池があるのは偶然でもわざわざ作ったものでも無いようです。庭園の説明文によるとこうあります。「この庭園は、浜松城天守閣と作左山の谷間を利用し深山渓谷を表現した廻遊式の庭園です。」天守閣の北に作左曲輪とありましたが、表記が大まか過ぎてよくわかりませんでしたが、こちらは天守より低い山なんですね。なるほど。そしてこの池。おそらく浜松城の空堀と思われます。山と山の谷間を利用して空堀にしたんですね。さすが徳川家康。そんなことを考えながらめぐると、歴史的遺構ではない庭園もなんとなく趣が出てきます(笑)


 浜松市は私が6年間住んだ第二の故郷です。だから近くでもありなかなか行かなかったところですが、改めてみるとなかなか見どころがあるような気がしました。
 そして、2020(平成31)年度には天守門と富士見櫓が復元され新たな浜松城に生まれ変わります。その前に現在の浜松城を見ておきたいと思い訪城しました。今度はすべての復元整備が終わった8年後にまた来たいと思います。浜松は私の大好きな街ですから年に何回か必ず訪れる街です、だから訪問チャンスはいくらでもあります。8年後の整備を楽しみに…。


<浜松城天守閣>(情報はすべて2012年8月現在)
◇開館時間   午前8時半~午後4時半
◇休館日    年末(12月29日~12月31日)
◇入館料     一般150円、中学生以下無料

掛川城探訪

2012-08-17 04:44:00 | 旅行・観光
今回は1994(平成6)年に天守閣が木像再建された掛川城を訪問です。

 掛川城を車で訪問すると、駐車場がその名も「大手門駐車場」。なかなか雰囲気のある名前で、雰囲気だけでなく外観もそれらしく仕上げられていました。

 その周辺も街並みもきれいに揃えられており、掛川市が街ごと歴史に取り組んでいる姿がよくわかります。



 これが大手門です。こちらは復元です。1854(安政元)年の嘉永の地震(1854)で倒壊し、1858(安政5)年に再建されましたが、明治維新と共に払い下げられ火災に遭い焼失したとここと。1993(平成5)年の区画整理事業に伴う発掘調査で遺構が発見されたが、そのままの位置では道路や家屋に影響ありということで、やむ追えなく50m北側に移して復元したとのことです。

 これは掛川城大手門の番所(門を警備する役人の詰所)です。これは復元かと思いきや現存のようです。というのも明治維新によって払い下げられ移築して残されていたようです。1978(昭和53)年に民間から市に譲り受け市の文化財に指定。さらに、大手門の復元により、1995(平成7)年にこの地に再び移築されたとのことです。なので、これは現存する大手門番所ということになり、数奇な運命で再び役目を与えられたということなんですね。


 大手門駐車場から大手門まで徒歩1分。そこから天守閣まで徒歩5分ほど。川沿いの整備された道を歩けるので雰囲気あります。そんな中にこんなものが。

 一瞬物見やぐら?って思いましたが、消防団の見張り物台のようです。こんなところにもこだわっているところがちょっと素敵です。この素敵さ…伝わりますかね…(笑)



 川の向こうに天守閣が見えます!ステキ!でもその手前に変な天守閣が見える…あれなんだろう…雰囲気壊されるなあ…。

橋を渡って掛川城公園へ。橋すら趣のあるものになっています。

現在位置はこんな感じです。この辺りは先ほどの川である逆川がこの掛川城の城山に当たり深い溝となることから「懸河」と呼んだことが「掛川」の名前の由来になっているといいます。


 本丸広場に行く間にある「四足門」です。残念ながら門の遺構はみつかならかったようですが、正保城絵図を基に復元したものだそうです。


門を上がると掛川城主要部になります。城の全体模型がありました。

これを見ると全体図がよくわかりますね。

 掛川城の歴史を表す総合案内板もあります。これによると、掛川城は文明年間(1469~1486)に今の位置から東に500m行ったところに掛川古城と呼ばれる城を作ったのが今川家家臣の朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)と言われています(パンフレットによると、掛川古城の築城年は1497年~1501年の間となっている)。その後、今川氏の勢力拡大に伴い掛川古城では手狭になったことから、1512(永正9)年~1513(永正10)年の間に現在の地に朝比奈泰能(あさひなやすひろ)が掛川城を築いたといわれています。
 掛川城が堅固な城であったことを証明する出来事があります。周知のごとく桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が打ち取られ、今川氏真が家督を継いで武田信玄に駿河を追われ、朝比奈泰朝(あさひなやすとも)を頼って掛川城に逃げ込んだ時です。徳川家康が1569(永禄12)年に掛川城に長期にわたり攻め込んでもなかなか陥落させることができなかったといわれており、最後は和睦による開城となりました。
 その後、徳川が掛川城を領有するようになり、石川家成、松平定勝などが城主となります。有名な土佐藩主・山内一豊は関ヶ原の戦いの前は掛川城の城主で、関ヶ原の功により土佐を与えられて転封されました。この復元された天守閣も山内一豊が建立したものだといわれています。



これは本丸を囲む十露盤堀(そろばんぼり)です。

こちらが本丸門です。ここから本丸域ですが、これもスゴイ石垣なのでできれば復元してもらいたかったなあ…。

本丸跡は花広場となっています。藩主の住んでいる本丸御殿があった場所だと伝えられます。しかし、発掘調査では柱穴や礎石は見つかるも建物後は確認できずこのような整備になったと思われます。



では、いよいよ天守丸に登りましょう。

 天守丸へ階段を登るとすばらしい景色が広がります。この辺りは腰櫓台跡と呼ばれ、敵の侵入に備え広く見渡せる櫓があったといわれています。今は掛川城を夜にライトアップするライトの置き場になっています。それともう一つ、写真下に見える側溝。これは発掘調査で確認されたものです。

本物が生かされているというのは、すばらしいですね。



 いよいよ天守丸に到着。天守丸の入口に簡素な冠木門がありますが、本来の姿は天守下門と言って二層の櫓門があったようで、基壇も見つかっています。よく見ると写真左側にありますね。



 天守丸にある「霧吹き井戸」です。1569(永禄12)年に徳川家康が今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた時、この井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康の攻撃から守ったという伝説があります。井戸くらいで城を包むほどの霧が立ち込めるわけなく、伝承の一種なんでしょうね。



天守閣には鉄のでっぱりが張り巡らされており、敵の侵入を防いでいます。こんなところまで再現されているんですね。



 昭和時代に全国に作られた復興天守閣とは全然違う。昭和期の復興天守閣はほとんど考証も行わないままコンクリートで作られる例が多いが、この掛川城の例はしっかりと発掘調査を行いその中で写真資料などを考証した結果のもの。しかも作りは木造です。だからこそ、内部にもこだわっているようで、内部の階段は松本城など現存天守閣と同様に急階段となっていました。



 天守閣となりの御殿で白ヘビが出たようです。普通なら警戒するのに、ここでは金運・幸運をもたらすって!前向きな姿勢が昔の日本人的な感覚でいいですね。



 天守閣頂上からみた本丸部です。腰櫓台跡のところにライトアップとソーラーパネルがあるのがみえますか?一応景観に配慮し板張りにしてライトアップ機器を見せないようにしているんですね。細かい配慮がいいですね。



 天守閣頂上には忍者が居ました(笑)ただ観光のための忍者ではなく、最初は窓の外に居て出迎えてくれました。びっくりした。その写真を撮って置けばよかった。子どもたちと記念写真を撮ってくれました。



掛川城ライトアップの写真がこちら。東名高速から見えるほどきれいです。



本丸部のわき道を通って掛川城御殿に向かいます。



御殿側から天守閣を撮ると塀なども収まりカッコイイですね。ここは写真お勧めスポットです。

御殿は横から見るとこんな感じです。この感じ…どこかに似てません?

では掛川城御殿に入ります。

掛川城の御殿は二の丸に江戸後期に建てられたもので、かなりの広さを持ちます。

御殿の入口です。ちょっと見ると京都の等持院のようですが、中はもっと広いです。

 この感じ…お気づきの人います?これ、京都の二条城に似ていませんか?それもその筈、日本に現存する4つの本丸御殿に掛川城御殿も二条城御殿も入るのです。

掛川城御殿の庭はこんな感じです。まるで銀閣の庭のようですね。



 御殿の内部の展示は2006(平成18)年のNHK大河ドラマ「功名が辻」(主演・仲間由紀恵、上川隆也)の内容でいっぱいでした(笑)このドラマの時は結構撮影舞台となっていたみたいです。2002(平成14年)年の「利家とまつ」以来戦国などの女性ものの大河ドラマが多くなっていますね。来年の2013(平成25)年も「八重の桜」で女性ものですし。



 最後は掛川城付近にあるお土産物屋でソフトクリームを食べて帰宅。静岡名産のお茶もいいけど…高いんだよね…。


<掛川城天守閣・御殿>
◇開館時間   午前9時~午後5時(入城は16時半まで)
◇休館日    年末年始(12月29日~1月1日)
◇入館料     一般400円、小中学生150円

2度目の新東名。

2012-08-16 04:44:00 | 政治・経済
 妻の実家が静岡県内なので、夏休みの帰省へ。せっかくなので、また新東名高速道路乗ってきました。

御殿場JCTで東名から新東名に分岐するところです。

 新清水JCTまで3.2kmという距離の地点です。東名よりカーブも緩いし、道路も広いし、走りやすいです。ただ、走りやすいので、結構な速度で走っても追い越し車線でかなり追い越されます。走行車線で走っても追いつけないほど…(汗)東名高速道路なら結構追い越し車線で抜いちゃう速度なんですが…新東名の速度規制の見直しをぜひしてもらいたいですね。理想は制限140km/hくらいかな?あるい完全3車線化になれば制限速度も上がるかもね。

 新東名は登坂車線はないのですが、時々3車線になります。そのため、3車線区間でかなり空くので渋滞もあまりないです。トンネルもすべて3車線構造になっているので、全部3車線化整備しちゃえばいいのにって思います。神奈川県区間(特に蛯名SA~秦野中井PA)と、愛知県区間(尾張一宮近辺)も特に渋滞するので、早く新東名の整備が進めばなあって思います。

終戦記念日

2012-08-15 04:44:00 | 歴史
2012(平成24)年8月15日は67回目の終戦記念日。


1941(昭和16)年12月8日にハワイの真珠湾攻撃を行って始まった太平洋戦争。


それが終了したのが1945(昭和20)年8月15日。


2発の原爆や、ソ連侵攻などボロボロになって終わった戦争。


あの戦争が終わってから、もう67年も経ったのか…。


私自身が戦争を経験したわけじゃないけど、日本が終戦によってどれほど貧しい生活をしていたかはよくわかっているつもり。


この戦争を肯定(美化)する右翼にも、否定(自虐)する左翼にも、どちらにも共感できない。


しかし、今の日本にはどうも違和感を感じる。


私利私欲を欲する政治家たち…
消費税を上げて国の歳入を増やすことばかり考える官僚…
視聴率をただ追い求めセンセーショナルや快楽ばかり求めるテレビ番組…
政局部分をしきりに取り上げ正義面する報道関係…
平気で派遣を切り捨て派遣社員の人生も切り捨てる企業…
即戦力ばかり求め自前で社員を育てる努力をしない企業…
その時の気分で投票しなんの深い考えも持たない国民…

日本国全体が、いつの間にか「木を見て森を見ず」の視野が狭くなっている。


昔の日本が上記とまったく違うか…とは昔の日本を経験していないのでわからないです。


 しかし、欧米に追い付け追い越せ…という明確な目標があり近代化していく「他国の目標があった明治大正昭和初期と比べ、現代の日本は明確な目標がなく、どこにも目標とする国がなく、前人未到の高齢社会が進展する状況で「自らの中で豊かさを実現していく」という難しさがある。先進のモデルがいないというのは、日本にとってこうも苦しいのか…。そしてこれから日本はどこに行くんだろうか…。