ワキ「なかなかの事草木国土。悉皆成仏の法華経なれば。女人の助かりたる所をも語つて聞かせ候べし。
シテからなお重ねての説教を懇願されたワキは法華経の中に説かれた女人成仏について語ります。これが長大なクリ・サシ・クセで、この間シテは正中に座しています。いわゆる「居グセ」なのですが、『現在七面』の居グセは、かなりほかの曲と違っています。すなわち、クリ・サシ・クセの中で語られるのはワキによる説法なのであって、シテはこの場面では沈黙してひたすら聞き役にまわっているのです。
先日 ぬえが勤めた『殺生石』も居グセでしたし、また『井筒』でも『野宮』でも、居グセというものは 長い物語をするのはシテであることが普通です。さればこそ それに続くロンギで、あまりに詳しい物語に不審を抱いたワキからの問いかけとなり、そうしてシテは、ただ今語られたその物語の主人公こそ自分なのだ、と明かして、本当の自分の姿を見せよう、と言い捨てたシテは姿を消して中入となる。。いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能では常套的でパターン化された脚本の形式で、いうなれば前場にある居グセは、シテの中入までの一連の流れを構成する合理的で確立された手法なのです。
ところが『現在七面』ではクリ・サシ・クセの物語を語る人物はワキの日蓮なのであって(実際にはそのほとんどの部分は地謡によって代弁されて謡われる)、所々に挟まれる役者の謡は、すべてシテではなくワキの担当となっているのです。
これは。。難しい脚本設定だと思います。
シテはこの物語の間ほとんど正面に向いて座っているのですけれども、やはり ただ座っているだけではダメでして、説明が難しいですが、正面に向かって、なんというか強く気を放出する、というのか、あるいはクセは地謡が謡っているけれども、同時に自分自身が謡っているつもりで座っていないとならないのです。そうでないと、居グセのシテは本当に「腑抜け」に見えてしまいますね。有名な話ですが、あるシテ方の名人が居グセで座っているのを見て、その背中を見ながら打った囃子方が「あいつは本当にクセで語られる物語の通りに座っている」と感心されたそうですが。。
ぬえの場合は正中に座って、さて面の眼の穴から見えるお客さまのお一人を選んで。。「ゴメンなさい!」と思いながら、ずうっとそのお一人の方を睨みつけるようにしています。。不謹慎かもしれませんが、面白いもので、その ぬえのターゲットになった方は、ずうっと睨みつけていますと。。その方の目が。。下がりますね。何か伝わっているのかなあ。。ゴメンなさい。
でも、言うなれば居グセは正面に向くシテから何物かが発散されてこそ、動かない演技というものが成立するのだと思うのです。その点『現在七面』ではシテは聞き役ですから、シテの方から何か主導的なことはしてはならないはずで、そうなると。。どうしても舞台面の緊張感が保ちにくいのです。もちろん地謡の力で緊張感が持続されなければならないでしょうし、またそれにも増してワキが「主張」して頂けることが重要なのでしょう。今回のおワキは若いけれどとっても信頼できるNくんで、期待はしているのですが、やはりおワキは正面ではなく横に向いておられるので、その点は不利かも、ですが。
シテからなお重ねての説教を懇願されたワキは法華経の中に説かれた女人成仏について語ります。これが長大なクリ・サシ・クセで、この間シテは正中に座しています。いわゆる「居グセ」なのですが、『現在七面』の居グセは、かなりほかの曲と違っています。すなわち、クリ・サシ・クセの中で語られるのはワキによる説法なのであって、シテはこの場面では沈黙してひたすら聞き役にまわっているのです。
先日 ぬえが勤めた『殺生石』も居グセでしたし、また『井筒』でも『野宮』でも、居グセというものは 長い物語をするのはシテであることが普通です。さればこそ それに続くロンギで、あまりに詳しい物語に不審を抱いたワキからの問いかけとなり、そうしてシテは、ただ今語られたその物語の主人公こそ自分なのだ、と明かして、本当の自分の姿を見せよう、と言い捨てたシテは姿を消して中入となる。。いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能では常套的でパターン化された脚本の形式で、いうなれば前場にある居グセは、シテの中入までの一連の流れを構成する合理的で確立された手法なのです。
ところが『現在七面』ではクリ・サシ・クセの物語を語る人物はワキの日蓮なのであって(実際にはそのほとんどの部分は地謡によって代弁されて謡われる)、所々に挟まれる役者の謡は、すべてシテではなくワキの担当となっているのです。
これは。。難しい脚本設定だと思います。
シテはこの物語の間ほとんど正面に向いて座っているのですけれども、やはり ただ座っているだけではダメでして、説明が難しいですが、正面に向かって、なんというか強く気を放出する、というのか、あるいはクセは地謡が謡っているけれども、同時に自分自身が謡っているつもりで座っていないとならないのです。そうでないと、居グセのシテは本当に「腑抜け」に見えてしまいますね。有名な話ですが、あるシテ方の名人が居グセで座っているのを見て、その背中を見ながら打った囃子方が「あいつは本当にクセで語られる物語の通りに座っている」と感心されたそうですが。。
ぬえの場合は正中に座って、さて面の眼の穴から見えるお客さまのお一人を選んで。。「ゴメンなさい!」と思いながら、ずうっとそのお一人の方を睨みつけるようにしています。。不謹慎かもしれませんが、面白いもので、その ぬえのターゲットになった方は、ずうっと睨みつけていますと。。その方の目が。。下がりますね。何か伝わっているのかなあ。。ゴメンなさい。
でも、言うなれば居グセは正面に向くシテから何物かが発散されてこそ、動かない演技というものが成立するのだと思うのです。その点『現在七面』ではシテは聞き役ですから、シテの方から何か主導的なことはしてはならないはずで、そうなると。。どうしても舞台面の緊張感が保ちにくいのです。もちろん地謡の力で緊張感が持続されなければならないでしょうし、またそれにも増してワキが「主張」して頂けることが重要なのでしょう。今回のおワキは若いけれどとっても信頼できるNくんで、期待はしているのですが、やはりおワキは正面ではなく横に向いておられるので、その点は不利かも、ですが。