ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その17)

2009-08-12 23:47:48 | 能楽
このとき前シテは走り込まずに、常座で留めてから静かに幕に歩み入り、さて間狂言が登場して「大白波木井の何某にて候」と名乗ります。彼はさすがにこの地の里人らしく日蓮の信奉者で、「我らも毎日参詣致し高座近く参り。御経を聴聞仕り候」と言います。ところが彼のほかに日蓮の聴聞に預かりたいと思う不思議な女性がいる、と言い、それは説法が終わり参詣の人々が帰っても後に残り、日蓮に質問をするというのです。その女性は「人間とは見え申さず。ただ天人の天下れるか。さては天魔の人間と化し。仏法に障化をなさんと来たれるか。近頃不思議なる女」であるので、この里人はある日 日蓮に詳細を聞こうと思い立ち、身延山に登り始めます。

突然、目指す山頂から雷が起き、里人は驚いて頭を抱え、しきりに題目を唱えます。すると唐突に空は晴天に戻り、これも法華経の功徳かと思いながら日蓮の庵に到着した里人はかの女性の素性を尋ねます。ワキは「ご不審尤も」と応じて、さきほど舞台上で起こった事件について語ります。里人は驚き、七面の池に大蛇が棲むとは聞いていたが、いまだ見た人はいない、と言い、その女性こそが文殊の教えにて生を変えずに即身成仏した龍女の例にならって成仏したいと思い、日蓮の説法を受けに来たのであろう、と判じます。

これを拝見していた ぬえは面白いことに気づきました。

この間狂言は時間を逆行して登場しているのですね~。すなわち身延山の麓に住む里人は、日蓮が読経する際に必ず現れる不思議な女性が気になり、いつも説法が終わっても居残って日蓮に親しく質問をする様子から、日蓮がその素性を知っているであろう、と考えて山に登りはじめるのです。すると突然 日蓮の草庵とおぼしき山頂の方から雷が響き渡ります。。つまりこれは前シテが中入するときに地謡が謡う文句「夕風も烈しく。立つや黒雲の。行方も早き雨の脚。踏み轟かし鳴神の。稲光して冷ましき。音にまぎれて失せにけり」そのままなのであり、この雷雨の中に前シテは姿を消したのです。

。。ということは、舞台上では前シテが中入りしてから現れる間狂言ではありますが、この里人が「これから日蓮のもとを訪れて女性の素性について尋ねよう」と言うときには、その目的地である山上の草庵ではまだ前シテがいて、日蓮から女人成仏の謂われを説かれているはずなのです。そして里人が山に上り始めると突然の雷鳴。ここで女性は「自分は七面の池に住む蛇身」と明かして姿を消したはずで、その後日蓮の草庵にたどり着いた里人は彼から、たった今起きた事件について聞かされるのでした。実際の舞台では間狂言が一人でその時間経過を表現するわけですが、こうして前シテによってすでに引き起こされた事件を、あとから登場した間狂言が時間を遡って体験する、というのも ちょっと間狂言の手法としては珍しいのではないかと思います。

さて間狂言が舞台に登場している間にシテは扮装を改めます。。というわけでようやく後シテの装束および面の話題になりました。この曲、お客さまの期待や興味も、すべてこの点につきると思います。

まずは後シテの性格ですが、この後シテは観世流の大成版謡本では「龍女」と書かれてあります。が、実際には前シテの言葉によれば正しくは「大蛇」ですね。そして懺悔のために本性を現した大蛇は、日蓮の高座の周囲にまとわりつくと頭を下げて礼拝し、これを見た日蓮が法華経を高らかに読誦すると、たちまちに大蛇は姿を変じて「天女」になるわけです。

そのために『現在七面』では後シテは大蛇の扮装と、そして変身後の天女の扮装とを合わせて身にまとわなければなりません。それにはもちろん変身後の天女の装束をまず着付けてから、それからその上に変身前の大蛇の装束をかぶせるように重ねて着け、下の天女の扮装を隠すのです。つまり二人分の装束を一気に中入で着付けるわけで、普段の倍の手数が掛かる、ということになってしまいます。後見にとっては本当に大変な仕事。

そして、装束だけではなく、ここが眼目! の、掟破りの能面二重掛けがあるのが『現在七面』なのですよね~。。次回は面の話。乞うご期待!

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その16)

2009-08-12 01:36:27 | 能楽
前シテが中入すると間狂言が登場します。この間狂言には里人と能力のふたつの演じ方があるようで、また前シテの中入の型の違い(前述のように常座で留めて静かに幕へ引く場合と、謡のうちに幕の中へ走り込む場合)によって間狂言の登場のしかたも少々違いがあるようです。

能力の場合の詞章は『謡曲大観』には次のように示されています

狂言能力、能力頭巾・着附縞熨斗目・水衣・括袴・脚半の装束にて名乗座に出で、
狂言「かやうに候者は。身延山日蓮上人に仕へ申す能力にて候。唯今是へ出づる事餘の儀にあらず。誠に當御山と申すは。天竺にては霊鷲山。漢土にては四明の洞。我朝にてはわが立つ杣と詠じけん。比叡山にも勝る霊地なり。然る處に。上人忝くも一切衆生を引導せんと。釋尊成道の御時。初めて悟り行じ給ひし。妙法華經を説き給ふ。然れども一切衆生是を無益せられば。上人寂寞無人の窓の内に閉ぢ籠もり。この御經を怠り給はず。心を澄ましおはします折節。いづくともなく女性一人。毎日樒閼伽の水を運び。上人を禮拝し。ありがたや願はくは女人成佛の縁を示し給へと乞ふ。その時上人。女は外面菩薩と見えて内心夜叉なれば。なかなか成佛得難しと宣ふ。然れどもなんぼう限りなき世界のありがたき事を示し給へば。その時女人悟りを得て。ありがたや今は何をか包むべき。われ誠はこの七面の池に住む大蛇なるが。唯今上人の示しによりて成佛せんこと疑ひなし。いでいで懺悔の為眞の姿を現すべしといふかと思へば。雨の脚雲にかき紛れ姿は失せて候。上人彌々御經を怠り給はず。御示しあらうずるとの御事なり。皆々罷り出で御拝み候べし。ヒツカリ。ヒツカリ。ありやありや心あるは心あるは。南無妙法蓮華經。南無妙法蓮華經。
 といひて狂言は引く。


底本は知りませんが、正直に言わせて頂いて、この文言の短さではとても楽屋で後シテの装束は着かないでしょう。。

なんせ中入の楽屋は戦場。後見は殺気立ってシテの装束を着けます。まあ、そうして装束が着いてシテが鏡の間に移動し、面を着ける、という段階になると、意外や時間の余裕はあるものなのですが。。それでも鏡の間に移動する前、装束を着ける段階では後シテの登場が間に合うかどうかの瀬戸際ですから、どうしても楽屋に殺伐とした空気は流れます。入門したての内弟子さんが怒鳴られるのも大概この場面。(^◇^;) ぬえもよく叱られましたっけ~

ところが『現在七面』の中入は常の能よりもさらに楽屋は大変です。なんせこの曲の眼目である 大蛇→天女への変身のために、装束を二重に着込まなければならないのです。そのため、間狂言が語る文章の長短は、この曲の場合 死活問題なのですよね~。

ちなみに先日 中森貫太氏がこの曲を勤められた際、間狂言は大蔵流・山本家の遠藤博義さんでした(遠藤さんは、じつは ぬえとは同じ大学・同じ能楽研究会出身の先輩なのです。ぬえは能楽研究会に所属していたときに謡・仕舞を教えて頂いた今の師匠に師事することになり、方や遠藤さんは学生時代は同じく ぬえの師匠に観世流の稽古を受けておられましたが、山本東次郎師を尊敬して、ついにその門を叩くことになったのです)。

このときの間狂言は能力ではなく里人でしたので、その違いも 大まかに記しておこうと思います。