ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その12)

2009-08-03 02:08:16 | 能楽
ついでながら、居グセは、シテとしてはただ正面に向いて座っているだけなのですが、それでも型がまったく無いのかというとそうではなくて、定型としてわずかにサシの終わり、クセ中の上羽の直前、クセの終わり。。またクセの中に打切がある場合はその打切の直前。。要するに「区切り」となる箇所でワキに向きます。このときはワキも必ずシテに向いてくださるので、二人が向き合う形になります。つまりシテによる長い物語の間、シテはお客さまからそっぽを向くわけにもいかないので正面の方に向いていますが、心はワキに向いてずうっと語りかけているわけで、その所々で向き合うことによってシテが物語をする対象=ワキということが明確になりますし、また舞台効果としてはワキが所々で相づちを打っているようにも見える。。こういうように作られているのですが、これまたよく練られた型だと思います。

ところでこのように 常の居グセであれば、シテは定型として決められた箇所でワキと向き合うのですが、おワキとしてはシテ方の定型にお付き合いする。。というよりは、むしろ黙って座っている間もずっとシテの動きに注意を払ってくださっていて、シテがワキの方へ向き始めたのを察知すると、それに応えてシテに向き合ってくださっているのだと思います。

というのも、ここでいう定型とは主役たるシテの流儀の定めによるわけで、シテ方の流儀によって定型にも違いがあるでしょうし、また曲によって例外もあるからで、シテ方五流をお相手をするおワキとしてはシテ方の定型を現行曲すべてについて覚えるのは事実上不可能。また一方 シテがワキに向く。。つまり「話しかけてくる」場面で知らん顔をするわけにはいかず、そこでシテ方の動作に気を配って それにお付き合いをしてくださっているのです。

ワキ方(を含め三役)は、それぞれのお流儀の定めも主張し、またシテ方の流儀の主張にもお付き合いしてひとつの統一された舞台を構成なさってくださいます。また同じ意味でシテ方も主役としての主張をするばかりでなく三役のお流儀の主張にお付き合いすることも しばしばありまして、そのためにすべての出演者は申合などを通じてこのように臨機応変にお互いの主張をすり合わせる作業をして、そうして統一されたひとつの成果を目指すのです。能が古典の再生芸術という範疇に収まり切れない、ある種の現代劇だと ぬえが常々思うのは、こんなところにも理由があります。

で、今回の『現在七面』のクリ・サシ・クセでは、もちろん観世流の定型として、シテは上記の通りサシの終わりや上羽の前でワキに向くのですが、この曲の場合、ほかの曲とは違って「シテが向いたからワキがそれに応えて向き合う」のでは困る、ということもあります。

というのも、繰り返しになりますが『現在七面』のクリ・サシ・クセはワキである日蓮の説教の場面なのであって、シテはその聞き役に徹しているからなのです。ようするに「相づちを打つ」のはワキではなくシテでなければならない。つまりこの曲の場合、ワキから先にシテに向いて頂いて、シテはそれを受けてワキの方へ向いて「相づち」を打つべきはずなのです。今回おワキとして ぬえのお相手をしてくださるNくんとは楽屋で会うたびに何度となく打ち合わせをしているのですが、この向き合うタイミングについても、Nくんから先に ぬえの方へ向いて頂くようお願いしておきました。

それも文句を指定して、「この文句でこちらに向いてくれる? そうしたらこちらは少しタイミングを遅らせて、ここであなたの方へ向くから」というようにお願いしました。だって、シテは面を掛けていますから、どんなに注意を払っても、おワキがこちらに向き始めたのは見えないので。。これは向き合う文句をあらかじめ打ち合わせておかなければならないのですね~。。