ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その26)

2009-08-22 20:28:56 | 能楽
今日は師家で『望月』の稽古がありました。1週間に2番のシテを舞うのは ぬえ、初めてかもしれません。こう忙しくても、まあ文句の間違いだけはないように以前から準備はしておりましたので、昨日の『現在七面』の申合も、今日の『望月』の稽古も、ミスはほぼなかったので安心しました~。ただ、明日の公演に向けて気分を切り替えるのが難しい。今から大蛇モードになっておかなくちゃ。

さて後場ですが、今回の ぬえの上演の一番大きな挑戦がここにあります。すなわち、前述した「物着のイロエ」を省略するのです。

これは近来は様々な演者によって しばしば試みられている工夫です。と言いますのも、この場面でシテが後見座にクツロイで物着をすることが、早変わりはしにくい能では仕方のない事ではありますが、「たちまち蛇身変じつつ」という地謡の文句が意味する「瞬時の変身」とは かけ離れた様子になってしまうのです。やはり何らかの工夫をすることで、少しでも「瞬時」に近づけたい、というのがこの曲のシテを勤めた事のある者の共通した願いではありましょう。

その意味で「イロエ」の演奏の中で物着をすることは、古来その演じ方で上演されてきたとはいえ、最初から時間を掛けて物着をすることが前提になってしまいますし、また支度が出来上がってシテが立ち上がったところから、それを見た囃子方が「イロエ」を終了させるための手組を打たれることで、ここでまた若干のタイムラグも生まれてしまう。。『現在七面』でしか演奏されない「物着のイロエ」ですから、シテとしてもこの珍しい曲を上演する機会にいっぺん経験しておきたい、という気持ちも もちろん一方にはあるのですが、そのために生まれてしまう演技の「中断」も、これまた悩みの種でもあるのです。

で、イロエを省略してどう物着をするのかというと、これはイロエを入れた場合とまったく同じく、シテは後見座にクツロイで物着をするのです。そうして地謡が謡い続けている間に手早く物着を済ませて立ち上がる。。作業としてはまったく変化はないのですが、これは後見にとっては大問題です。この手際はシテにはどうすることもできず、ただただ後見の手腕によって決まるのですから。。

今回の後見はお二人とも ぬえの先輩。この「イロエ」を省略する工夫を相談したときは、やはり先輩も顔をしかめて ぬえに尋ねました。
「それで。。物着にはどれくらいの時間の余裕があるの?」
「ええと。。地謡のこの文句では立ち上がりたいので。。2分です」
「!!!!!!!!!!!!」

まあ、この先輩ならば大丈夫、信頼できると考えたからこそ ぬえもこの重大な工夫をお願いしたのです。そうして稽古能の際には当日とまったく同じく装束・面を着けて、実際に地謡が謡う中で物着を試みて頂きました。

その結果は。。

おお、なんと! ぬえが予想していたよりも遙かに早く物着が完成しました。「はい出来た!立って!」と後見に言われた ぬえは、そこで立てるとは予想していなかったので、一瞬。。はて、そこで舞台に出て演じる型を見失いかけたほど。あとでその稽古能のビデオを見たのですが、シテが後見座に着座して、さて物着が済んで立ち上がるまでの所要時間は なんと! 1分30秒! たぶん世界新記録です。まあ当日も同じ条件が揃うかはわからないので同じタイムになるかはわかりませんが、もちろんシテである ぬえも後シテの装束の着付けには工夫を凝らしてあって、物着がしやすいようには考えていますので、これより大幅なタイムロスはないでしょう。これぐらいならば「瞬時」に少しは近づけたかもしれません。

この物着については本当に長い間いろいろと考えていました。いっそのこと後見座にクツロがないで堂々と舞台の真ん中で行ったらどうか。。? ところが物着で脱ぐ大蛇の装束が膨大な量なので、これを舞台上に散らかすわけにはいかない。。これはダメです。天冠を着けるのに最も長い時間と手間が掛かるので、細い紐を駆使してパッと頭に載せる工夫はできないか。。? 鬘ではなく黒垂を下に着けたらどうか。。? 結果的にはどれもいろいろと問題があって、正攻法で物着を行うのが最適ということがわかりました。やはり後見の手腕頼りですが、それが成功したのだと思います。

それと今回は「神楽」を二段だけでやめて。。要するに「神舞」となる部分を演じずに「神楽」の部分だけで終わる「神楽留」という演じ方にすることにしました。急調の「神舞」は、その後に続くこの曲のキリのゆったりとした型と合いにくいことと、やはり『現在七面』の後シテは女神とは言いにくいのですよね。この曲の「神楽」が「序ナシ」と決められて略式に扱われているのも、神道に基づく、日本古来の神楽とは別に考えられているからだと思います。

それでは後シテは誰なのか。ここは ぬえは本地垂迹した仏。。というか菩薩の一人なのだと考えています。キリに描かれた文言もそれを雄弁に主張しています。そして、ぬえはこの曲のここに一番感心したのですが、ヨワ吟で謡われるキリの中で、最後の言葉「虚空に上がらせ給ひけり」だけがツヨ吟に節付けがされているのですよね。この後シテは決して『羽衣』や『吉野天人』のような、飛天の類の「カワイイ」天女ではありません。上演時間の長大にこだわらずに短く軽快な「天女之舞」ではなく「神楽」をシテに舞わせた『現在七面』の作者。キリもメロディアスなヨワ吟で終止することを潔しとせず、あえてツヨ吟で終曲することで、作者はこの後シテから「権威」を守ろうとしたのではないか、と ぬえは考えました。

さてこそ後シテは高らかに宣言します。「垂跡示現してこの山の鎮守となつて、火難水難もろもろの難を除き。七福則生の願ひを満てしめ。代々を重ねて衆生を広く済度せんと約諾かたく申しつゝ」

このブログの最初の方でも申しましたが、この後シテは日蓮の、そうして法華宗全体の守護神であるのです。その「強さ」、盤石の存在感が舞台に実現されることこそが『現在七面』という曲の意味であろうと思います。

変身の面白さ、だけではこの曲の魅力や意味はわからないのだ、という事を今回は強く感じました。そしてこの菩薩。。だと思うのですが、ぬえにはこの後シテは、自分を「上行菩薩の再誕」と確信していた日蓮自身とも重ね合わされて感じられてきて、なんというか、特定の信仰を持っていない ぬえにも、信じることの「強さ」と「美しさ」というものを実感させたのでした。

とりあえず今回の考察はこれで了とさせて頂きます。最後は駆け足になってしまいまして申し訳ありません。明日ご来場頂ける皆様には改めまして感謝申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その25)

2009-08-22 00:06:45 | 能楽
さて今回の『現在七面』の上演につきましては、いろいろと考えるところもあり、師匠や先輩、そしておワキや囃子方、お狂言方に至るまで、共演して頂く演者の方々と ぬえの工夫について相談し、ご協力を頂けることになりました。またその課程で各お流儀のいろいろな決マリ事などについても知ることができ、思わぬ勉強の機会となりました。今回はそのへんについてお話ししてみたいと思います。

まずこの『現在七面』の稽古を始めて最初に気がついたのは、この曲が意外にも かなり長大な曲であること。なんと平均上演所要時間は1時間40分です! これは予想外でした。。地謡は2度謡ったことがあるけれど、さすがに上演頻度が少ない曲ですので、上演時間までは記憶も曖昧で。。しかも今回の公演(梅若研能会8月公演)は能が3番も上演される日でして、『現在七面』はトメ。。というのですが、その日の最後の上演曲です。う~ん、お出でになるお客さまにとって、3番の能の最後の曲が1時間40分掛かるのでは少々お疲れになってしまいますよねえ。。 それだけが理由ではないのですが、今回の上演については上演時間の短縮を目指すこととすることに致しました。曲のエッセンスは損なわずに、もう少しコンパクトに上演する方がこの曲の良いところが引き立つとも考えまして。。

師匠に相談申し上げましたところ、演出の工夫で時間の短縮を図るのはよいが、詞章を省略してはならない、と仰せられ、その方向で工夫を試みることに致し、また他の演者の方の上演の成果も参考にさせて頂いて演出の工夫を致しました。

前シテは、これはシテよりもむしろワキの説法が中心となった場面なので あまりシテの工夫は凝らせないのですが、次第で前シテが登場する際に舞台の中の常座ではなく橋掛リ一之松として、シテの上歌のところで謡いながら舞台に入ることにしました。日蓮の草庵に歩みを運ぶ心です。それと前述の通りクセの中でワキに向いて合掌する点、そして中入で謡のうちに幕に走り込むところ。。この3点が主な工夫になります。

ところで今回 ぬえのお相手をしてくださるおワキは下掛宝生流のNくんなのですが、どうも下掛宝生流では『現在七面』の詞章には ひと通りではなくいくつかのやり方が伝わっているようです。じつは先日『現在七面』が上演されたのを拝見したのですが、そのときのおワキが謡っておられた詞章は観世流の本文とほぼ同一のものでした。独自本文を持つ下掛宝生流としては異例に感じた ぬえでしたが、このたびNくんとご一緒した稽古能や申合ではNくんが謡う詞章はそれとはあまりに違っている、やはり独特な本文でビックリ。伺ってみると、Nくんのお家には古い台本が伝わっているのだそうです。やはり上演が稀な曲であるうえに観世流と金剛流にしかレパートリーとして伝わっていない曲ですから、お相手の流儀の中にも このようにいくつかの伝承が伝わっているということもあるのでしょう。

次に間狂言のことですが、これも演者に伺ってみました。と言いますのも、『現在七面』についてあちこちの能楽師に聞いていたところ、シテの中入の演出によって間狂言の演技が替わってくるらしい、と仄聞したからです。それならば、と前シテは幕に走り込む演出を採りました。じつは ぬえの師家にこの型はありませんのですが。。 ところが狂言方に伺ってみたところ、今回お相手してくださるお流儀では『現在七面』の間狂言の型は、前シテが幕に走り込むことが前提となって作られていて、それ以外の演出はないのだそうです。ということは ぬえの師家の本来の型と、このお流儀の間狂言の型は合わないということになってしまう。。もしもどちらの流儀もそれぞれの型の主張を曲げなければ、まあ上演が続行不能とまではならないでしょうが、とても ちぐはぐな舞台になってしまいます。

近世まで能は「座」と呼ばれる演能グループで活動していまして、シテ方の大夫を中心として、お相手をするおワキ・囃子方・狂言方もほぼ専属で決まっていました。近代になって「座」というものは解消されて、各役は自由にお相手をするようになったのですが、それぞれのお流儀が共演する実演上の必要として、各お流儀の宗家の話し合いで演出や演技、演奏の齟齬がある点についてすり合わせが行われたのです。このすり合わせを「申し合せ」と言い、「シテ方○○流相手のときはこう囃す」「太鼓方○○流の場合はこう舞う」というように決められたのですが、ところが能の膨大な曲目についてすべてのお流儀同士で完全に申合を行うのには気の遠くなるような時間が必要なわけで、珍しい演目や難しい小書については現代に至ってもいまだ申合が整っていない場合もあるのです。『現在七面』で ぬえは長い能の歴史の中でこのように演出が未整理の点がまだ残っている場面に遭遇して、なんだか感慨を覚えました。