ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その14)

2009-08-08 02:18:31 | 能楽
『現在七面』のクセはワキ・日蓮による説教ですから、この間シテはひと言も発せず、ひたすら聞き役に徹します。通例であればシテが謡う上羽謡も、この曲ではワキが謡うことになります。

ワキ「然るにこの法華経は。
地謡「仏七十余歳にて。始めて説かせ給ひしに。そよや一味の法の雨。ひとしく濺ぐ潤ひに。敗種の二乗闡提も。皆々同じ悟を得。殊に文殊の教へにて。龍女は須臾に法を得て。この世ながらの身を捨てず本の覚りの故郷に。立ち帰る有様や。錦の袂なるらん。


<現代語訳>
ところがこの法華経は釈尊が七十歳を越えてから初めてお説きになったのであるが、その法の教えは雨のように等しく衆生を潤し、声聞・縁覚・闡提までも等しく悟りを得るとされたのである。わけても文殊の教えにより娑竭羅龍王の八歳の娘の龍女が瞬時に即身成仏した姿は、本来のもの、故郷に帰ることであって、彼女にとっては故郷に錦を飾る風情であったろう。

<語釈>
一味の法の雨=雨が草木を隔てなく潤すように仏の教えがあまねく広まる喩え(薬草喩品)
敗種の二乗闡提=敗種の二乗は「声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)」と呼ばれる独善的な修行者を大乗の立場から蔑んで言う語。闡提(せんだい)は仏法を信じず誹謗する者。ともに成仏できないとされた。
文殊の教へ=海中の娑竭羅龍宮に赴いて法華経を説いて無数の衆生を教化し菩薩の位になした。(提婆達多品)
龍女は須臾に法を得て。この世ながらの身を捨てず=須臾(しゅゆ)は暫時、転じて刹那の間。文殊は頓証菩提を証するために娑竭羅龍王の八歳の娘龍女を賛嘆し、その本人も即身成仏の姿を現し見せた。(提婆達多品)
本の覚りの故郷に立ち帰る=本覚は一切の衆生に本来的に備わっている仏性。従って成仏は自らの本性を自覚することで、それを故郷に帰ることに喩えた。

ん~、どちらかというと ぬえには物足りない説教かな、とも思うのですが。。ここにあるのは法華経の賛嘆ではあっても、教化の言葉ではないように思います。法華経の女人成仏の証左を示しているのではなく、その知識を前提にしたような。能は舞台芸術であって教則本や布教テキストではないので、案外それで良いのかもしれませんが。

ところで、繰り返しになりますが『現在七面』のクリ・サシ・クセはワキの説法の場面で、シテはひたすら聞き役にまわります。これが。。なんというかお客さまに対して緊張感を持続して見て頂けるのか、演者にとって不安材料ではあるのです。

前述のように、シテがワキに対して物語る設定の居グセであれば シテは微動だにもせず座っていても、気合いを正面に集中させる。。という言葉が正しいかわかりませんが、やはりシテは語りかけているつもりで座るべきで、そうすれば ある程度の緊張感は保てると思うのです。ところがワキの語りをシテが聞く設定であると、自分から何物かを主張することはできないのです。つまりシテは正面に向いていながら、その場面の中に埋没していなければならないことになり。。これは結果的に正面席に対しての、ある種の弛緩となって現れるはずで。。もちろん地謡が強烈な表現力をもって謡ってくだされば、これもまた違う結果を生むでしょうけれども。

悩んだ ぬえは、サシの終わりと、同じくクセの終わりで、おワキに向かって合掌してみることを考えつきました。