ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その29)

2009-08-26 02:45:47 | 能楽
これら『現在~』と名のつく能。。というか謡曲の数々を見てみますと、一見して気がつかれると思いますが、現行曲の曲名の前に『現在』を冠した曲の多いこと。そうしてもう一つには、それら現行曲のほとんどは いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる、前シテは化身であって、後シテとなってその本当の姿を幽霊などの形として現す能であることです。

タネ明かしを先にしてしまいますと、『現在~』という名前が付けられた曲は、物語の中で起きる事件が現在進行形で、時系列のままで進行する曲なのです。これに対して、前述のようないわゆる複式夢幻能またはそれに準ずる形式の謡曲に付けられた名前というものもありまして、それはそのものズバリの『幽霊~』というもの。この名称はさすがに居心地が悪いのか現行曲には1曲もありませんが、前述の『未刊謡曲集』によれば次のような曲が過去にあったことが知られます。

幽霊大江山・幽霊清重・幽霊楠・幽霊熊坂・幽霊小町・幽霊重衡・幽霊信夫・幽霊酒呑・幽霊酒呑童子・幽霊曽我・幽霊経政・幽霊童子・幽霊時宗・幽霊鵺・幽霊松風・幽霊光季・幽霊横笛。

これらの曲の中には、さきほど挙げました『現在~』と共通の題材を扱ったと思われる曲がいくつも重複するように現れて来ていることにもお気づきになるかと思います。つまり同じ題材。。具体的には同じ主人公を扱う曲が複数存在した場合、それらを区別するために、その曲の中で描かれる物語が現在進行形で事件の展開を追う形式の曲を『現在~』、また事件の後日談として後世に幽霊として現れた主人公がワキ僧などに懐旧談を物語る形式の曲を『幽霊~』として区別したものなのです。

すると、『現在~』『幽霊~』という曲名は、作者自身が名付けたのではなく、同じ題材を扱った複数の曲目を面前にした後世の人がその区別のために原曲の題名に勝手に付与したのか? というと、多くはその通りであったとしても、必ずしもそればかりとは言い切れないようです。ある題材を扱った曲がすでにあった場合、それでも同じ題材を扱う新曲が作られる場合もあるわけで、その場合現在物の先行曲があれば、新曲は目先を変えて複式夢幻能形式で作られ、これを『幽霊~』と作者自身が名付けて先行曲との区別を図る場合もあったでしょうし。

さらに言えば同じ題材でありながら曲のタイプが違う曲が、まったく別々の題名になっている曲もあります。じつはこの事実は有名で、牛若丸が盗賊・熊坂長範を退治した同じ物語を脚色した二つの現行曲のうち、現在進行形の物語、すなわち生きている牛若丸と熊坂が斬り合う曲『烏帽子折』がかつて『現在熊坂』と異称され、また退治された熊坂が幽霊となってワキ僧に回向を頼む『熊坂』もかつて『幽霊熊坂』とも呼ばれていました。

『現在熊坂』がなぜ『烏帽子折』と呼ばれるようになったかと言えば、それはこの曲では前半と後半がまったく脈絡ない展開をする。。つまり二つの事件を同時に扱っているからで、この曲の前半では盗賊・熊坂はまったく登場せず、牛若丸の元服。。「烏帽子着」を扱った場面で構成されているからで、そこに着目して『幽霊熊坂』と区別して『現在熊坂』ではなく『烏帽子折』を曲名としたのでしょう。こうなると『幽霊熊坂』が先行曲で、それに遠慮して新作が『烏帽子折』と名付けられたようにも思えるし、はたまた、それでは先行曲であるはずの『熊坂』が『幽霊熊坂』と呼ばれたのは別の曲を意識しての名称にほかならないわけで、疑問は尽きないです。世阿弥の伝書を見ても室町前期頃はまだ曲名の固定はあまり重視されていなかった様子ですし、同じ題材の複数の曲の成立過程を検証するのは簡単ではないようです。

ちなみに前述の『現在~』『幽霊~』の曲のうち、今なお名を変えて現行曲として上演されている曲の例を挙げてみても、以下のように複雑です。

現在忠度=現行曲にはナシ。ただし現行『忠度』『俊成忠度』はどちらも忠度の幽霊が登場するから関係は複雑。
現在張良=現行『張良』の異称。ただしこれに対する『幽霊張良』に該当する曲が伝わらない。
幽霊松風=現行『松風』とは別曲の『夢想松風』の異称
現在道成寺=現行『道成寺』の原曲とされる古曲『鐘巻』の異称。ということは現行『道成寺』と『鐘巻』が並存していたことを示す。
現在錦木=シテが幽霊として登場する現行『錦木』のほか、これと別曲も存在。