15日(土)~16日(日)の2日間、伊豆の子どもたちのお稽古に行ってきました。自称「合宿」と名付けた稽古で、遅れに遅れて春から始まった稽古、しかも新作の初演という悪条件の重なった今年の「子ども創作能」の稽古の総決算であり、この機会に舞台の完成を目指したのです。
初日の稽古はいわゆる「立ち方」だけを集めての稽古で、もう謡から型から、修正やら洗練を徹底的に行いました。正直に言って ぬえが怒鳴る場面もあったし、またほめるところもあり。。稽古時間は4時間を超えて、おそらくこれまでで一番長い稽古だったのではないかと思います。結果は。。まあ、ぬえが要求するところまで みんな応えてくれたかな。彼らは翌日の稽古にも参加させましたので、一緒に宿泊したわけではないけれど、まさに合宿状態の稽古でした。
翌日は朝から市内にある「守山八幡宮」にみんなで参詣に行きました。
伊豆の国市にある守山八幡宮は非常に古い神社で、さらには源頼朝が崇敬していた社です。平治の乱に負けて伊豆に流罪になった頼朝ですが、よく言われるのは「蛭ヶ小島」に流された、という説。蛭ヶ小島は市内・韮山に史跡公園として整備されていますが、実際にはここで行われた発掘調査では平安期の遺物は出土せず、頼朝がここに居たとは考えにくいのです。頼朝が流された地が「蛭ヶ小島」とされたのは後世のことのようで、実際には頼朝は姻戚関係を結んだ北條氏の居館(こちらは市内から遺構が出土)に寓居していたと考えられます。
当地を見て廻ると、南条、中条という地名が残っていて、それから考えると北条氏というのは本当に小さい地域の地名を元にした名字だという実感があります。当時北条氏は平氏を称していましたが、おそらく地方の中流豪族のひとつであった北条氏が平家全盛の時流の影響で平氏を名乗ったものでしょう。平氏を名乗ったため当時の当主・時政は流罪となった頼朝の監視役とされたのでしょうし、それは自称平氏の北条氏にとって清和源氏の御曹司である頼朝というはじめて由緒正しい家と結びつくチャンスであったのが実情だろうと思います。政子と頼朝の結びつきも『吾妻鏡』等の資料によれば頼朝が略奪婚のようなことをして結ばれた、とか政子が婚儀の夜に頼朝のもとへ出奔したような事も記されているわけですが、実際には時政の意向も強かったと ぬえは考えています。
そしてその北条館の裏山にあたるのが守山で、その頂に八幡宮があるわけです。これは頼朝がこの地に来るずっと前から鎮座していました。もともと源氏の氏神が八幡神で、都では石上八幡宮を崇敬していた頼朝は、おそらく当地で(監視ではなく)自分を庇護してくれた北条氏の、その鎮守のような存在に自分の氏神がなっている事に感激したでしょうね~。こういうこともあって頼朝と北条氏は急速に接近したのではないかしら。
後に頼朝は平家打倒のために北条氏の関係による手勢を率いて挙兵するのですが、これまた頼朝の確固たる意志に基づいたものではありません。以仁王が叛乱を起こした際に諸国の源氏に挙兵を促す令司を送り、この乱を鎮圧した清盛がこれを知って、後顧の憂いを払拭するために源氏の根絶やしを計って諸国へ軍勢を送ったため、頼朝は生き残るために一か八かの選択を迫られてついに挙兵したもののようです。
ともあれ、その挙兵の際に頼朝は伊豆山神社や三島社に並んでこの守山八幡に戦勝祈願をしています。この後頼朝は兄弟である範頼・義経を指揮して最後には壇ノ浦に平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を開きました。頼朝の八幡信仰はここで花開いて鶴岡八幡宮という形となったのであり、いうなれば幕末にまで670年余りに渡る武家政治の原点はこの地にあるといえるのだし、鶴岡八幡宮の壮麗な社殿もこの質素な守山八幡の昇華した形なのですね~。