母に抱かれているわたしを思い出そうとするのだが、思い出せない。それはそうだろう。親が子を抱くのは物覚えがつく前のことだろうからだ。小学校にあがって、もしも優しく愛しく抱いてくれようとしたら、わたしは羞恥心を覚えて、そこら中を逃げ回ったことだろう。弟の兄にあるまじき振る舞いとして、わたしみずからによって排斥されたことだろう。父から男に成る教育を受けていたのだ。
四つ下の弟は、そのくせ、しょっちゅう母に甘えて、胸のおっぱいにむしゃぶりついていたのだった。母の膝の上に兄のわたしの居場所はなかったのである。母だって、それくらいの男らしい気概を、この世に早く生まれた兄のわたしに見出すことで安堵を覚えていたはずだ。わたしは甘えたくてもそれが出来ない位置に下がって、あるいは下げさせられて、ただただ母と子の呼吸を計っていたのである。
勿論その後に於いても同じで、わたしが母に抱かれることはついぞなかった。なかっのだから、思い出しようがないのである。でももういいだろう。いい年を取ったのである。羞恥心ももうかなぐり捨ててもいいだろう。若い母に思い切り抱かれてみたい。そういう思い出の中のわたしを描いて、差ししまったわたしの最後の時間までのひとときをとろとろ眠っていたい。