クロアチアも負けてはいない。シュートを決めて1対1となった。シュートの数では2倍だ。若いイングランド選手とベテラン勢の揃うクロアチアの対戦。先制点を奪ったのはイングランドだった。行き詰まる熱戦を観戦している。サッカーワールドカップ、ロシア大会も大詰めまで来た。世界中が沸きに沸いている。残り10分を切った。さあ、どんな結末になるのだろう。
元気のいいでかい飛蝗がするするすると降りてきた、僕の書斎の座り机の上に。びっくりした。冷房を効かすために締め切っている部屋である。朝方室内の空気を入れ換えるために窓を開け放つ。その時に、恐らく入り込んできたものなのだろう。あっちへこっちへ跳ね回るのを辛抱強く待ち受けて、後ろ足の日本を指に捕まえて、窓から放ってやった。庭の草の茂みに消えていった。昼間長いこと水分補給ができずに、恐らく喉が渇いていたことだろう。よかった。くたばる前に救助作業ができて。
昼間、近くに出来たコインランドリー店に行って来た。初めての経験である。他には客はいない。興味津々。冬場に使っていた厚手の毛布3枚を洗う。乾燥まで含めての代金1600円をちゃりんちゃりんと挿入した。ぐるぐるぐるぐる回り出した。物珍しくて、それをしばらく見ていた。冷房がちゃんと効かしてあったが、出来上がるまで凡そ70分間掛かるので、じっとしているのも退屈なので、暫くその場を離れた。無人のショップ。いたずらをする人はいないのだろうか。店の中は小綺麗にしていた。
夕立、まだ6時にもならない時間に、早々と夕食。豚肉のたっぷり載った焼きビーフンだった。焼酎を水割りにして飲んだ。少しで酔ってしまう。酔うとご飯が要らなくなる。ビーフンも半分は残してしまった。夏場は食欲も減退する。でも、冷えた完熟トマトのスライスがおいしかった。これはパクパク食べた。
もういつ寝てしまってもいいが、まだ7時を過ぎたばかり。そうはいかない。一人になると人が恋しい。どうしよう。わたしに繋がってくれる人などはいない。
ぶらっと出掛けて、南へ南へ車を走らせ、とうとう有明海沿岸堤防の見える白石町新拓まで行って来た。干拓地である。一面のだだっ広い農地が広がっていた。農家の周りには、夏真っ盛りの稲田が続いていて、遙かな遠くまで、青々としていた。稲田ではないところもあった。大型トラクターが動いていた。青鷺が降りてきていた。そこから引き返した。初めて走るところだった。小さな道の駅ふうなところに立ち寄った。ここは蓮根の産地。早取りの幼い蓮根を買って来た。ほんの少しだけ。
仏教擬(もど)きのブログを書いていても読者には飽きられてしまう。
たいていの男と女がする愛だとか恋だとかを題材にしたものだと、共通性があって読みやすいだろうが、書くわたしに実体験が甚だ乏しい。
さあ、困った。
出掛ける。ふらりと。気晴らしに。何処まで行こうか。
利益衆生 りやくしゅじょう もっぱら仏は衆生を利益す 仏教経典「舎利礼文」より
衆生とはこの世に生きるすべての生命体のことである。人も南瓜も猫も西瓜も。虫も魚も、鳥も獣も。空も山も、砂も石も。地球も太陽も。皆が互いに関わり合いつつ、この宇宙生命総合体を構成している。それがそうできるようにしている働きがある。それを「利益(りやく)する」と表現している。
自利利他という。自利を完成させて利他に向かう。自利の完成は悟りである。利他は悟りの実践である。これはわれわれ仏道修行をする側の側面描写である。
自利=利他ともいう。利他=自利ともいう。それは分轄が出来ないのかもしれない。
ここまで進むともう「おれがした」「してやった」「おれがおまえの幸福の立役者だ」などとは言わない。
衆生を利益(りやく)しているのは仏である。わたしではない。利益衆生はもっぱら仏さまのなさることである。
以仏神力 いぶつじんりき ひたすら仏の神力を以てして 同じ仏教経典より
神力というときの「神」は形容詞で「卓越した」の意味である。仏が発揮される力のことである。
だからわたしの力の有無は計算に入れなくともいいのである。ひたすらひたすらここは仏の神力が働いて動いている世界である。わたしはただひたすら仏のなされる神力のさまを眺めていればいいのである。
南瓜が花をつけた、西瓜が実ったなどと。空が夏の青空になった、山が紅葉をして季節が秋を迎えた、などと。
一つ前のブログから続く。
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仏加持故 ぶっかじこ 仏が(我を)加持したまうが故に
同じ仏教経典より
仏さまがわたしをお守りになるのが「加」。その加をしっかり持(たも)っているわたしの安定した信が「持」に当たる。こうしてこうしてわたしはいつも、何処に居ても、どうなろうとも、仏に見守られている。安定をして、涅槃(ニルバーナ)に遊んでいる。それができるように仕向けられている。システム化できている。このシステムを享受できていられるという摩訶不思議。
摩訶不思議界を平気ですらすらと生きているのである。わたしはわたしの摩訶不思議を眺めて嘆息する。
一つ前のブログから続く。
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我証菩提。がしょうぼだい。 同じ仏教経典より
こうしてわたしはただ仏の菩提をこの身で証明しているばかり。遊んでいるばかり。わたしにお入りになるのも仏さまの配慮、わたしを仏さまの世界に迎え入れて下さるのも仏さまのご配慮。わたしは、上限いっぱいの小賢しさと、それから派生する恐怖心を抜き去って、無心になって、そこで遊んでいればいいのだ。
菩提とはサンスクリット語のボデイーサットバー。仏さまの悟りを指す。無上正等正覚(アノクタラサンミャクサンボダイ)と訳する。死後の平安をも意味するようになった。