滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思(も)はなくに 弓削皇子 万葉集巻の3
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弓削皇子は天武天皇の第6皇子。吉野に遊ばれたときの歌。
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滝の上の三船山には雲が懸かっている。滝から落ちる水が霧となって、空に昇って行き、雲となる。それが常に、このように勢いよく懸かっている。それに引き替え、わたしはどうだ。わたしを思ってみると、常にこうして勢いを増した雲のようにしてはいられないようだ。
弓削の皇子は政争に敗れた人物。文武天皇3年に崩御されている。
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人の命は、雲ではない。雲も、生まれて消えて、儚いが、途絶えることがない。滝に水が流れていれば、滝水が霧になって上昇する。そして雲として山に懸かる。弓削の皇子は一人しか居ないから、雲のようには行かない。雲には名前がないのだ。だからわたしという一人を主張することがないのだ。自然界は姿を変えて連続して行く。人間といっても、自然界の一部だから、姿を変えて連続していることに違いはないのだが、人間は名を持つ。個体を尊重する。「わたし」を持つ。そこに憂いがある。感激もあるが憂いもある。
悲劇の皇子の歌を掲げる万葉集を読みながら、僕は、そんなことを考えてしまった。脱輪である。