<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日は、墓掃除に行ったよ

2019年11月12日 18時33分22秒 | Weblog
僕の家のお墓は野原の真ん中にある。お寺の境内にあるのではない。此処は戦国時代から江戸時代初期まで、可成り大きな城下町だった。いまは遺跡だけが残っているだけである。此処には城原衆という武士団が活躍をしていた。武士団といっても、いつもはお百姓をしていたのだと思う。戦の時に武士に早変わりするのだ。お城の下に、お寺がある。そこにお殿様を初めとした直属の重要な家臣団の墓が連なっている。それ以外の家臣団の墓は、この原っぱの中のあるのだろう。
 
父が若い頃にご先祖様を敬って、石碑を建てた。立派な墓になっている。でもその後、檀家寺に位牌を納める納骨堂が建って、多くの人が墓仕舞いをして、そちらに移ったので、原っぱの中の墓は、空き地が増えてしまった。そこに雑草や蔓草や笹や竹類が生えている。つまり、我が家の墓の周囲は雑草だらけなのだ。今日、家内と一緒にそこの掃除に行ってきた。周囲の雑草や蔓草や笹の類を切って、根を掘り起こす作業をした。たっぷり2時間は掛かってしまった。腕が強張ってしまった。
 
 
途中だけど、寝ます。続きは後でまた。
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会津八一の歌の独自解釈 蟹の鋏にも秋の風が吹いて来る

2019年11月12日 17時58分14秒 | Weblog
ゆふ され ば きし の はにふ に よる かに の あかき はさみ に あき の かぜ ふく     秋艸道人 会津八一

夕去れば岸の埴生に寄る蟹の赤き鋏に秋の風吹く


会津八一は1881年に生まれている。そして生きて、活動をして、1956年に、75歳で他界している。新潟の人。雅号は秋艸道人。東洋美術、仏教芸術に深く傾倒、早稲田大学で教鞭を執った。同じ新潟の人である良寛禅師に心酔した。そして禅師の後を継いで、歌と書と仏教とによろこびを見出した。一生独身を通した。


「夕去れば」は、「夕方が来たので」と取ってみた。埴生の埴(はに)は、ねばねばした粘土質の泥土。赤土。埴生は粘土質の土があるところ、か。川蟹は普通は、岸辺の奥まった岩穴の中のようなところで棲息している。夕方になると、食事をしようとして、そろりそろりと埴生の入り口まで這い出して来る。津蟹の毛むくじゃらの鋏はそれほどに赤くはない。津蟹ではないのかもしれない。ザリガニのような蟹かもしれない。
作者は小川に掛かる橋の上から見ていたのだろうか。水草が茂っているから、容易に、小さな生き物の蟹の姿を捕らえるのは難しいだろうが、長く一心に眺め下ろしていたのかもしれない。

秋。秋が夕暮れになって、幾分か冷たい風が吹いて来た。橋の上のわたしという人間にも秋の風が吹いているが、風は平等不可分に小さな生き物の赤い鋏にも吹いて来ている。それを目敏く見つけ出せたのだ。仏の教えを聞く彼は、そこで幾許かの軽い安堵を覚えたのだ。生きている寂しさがふっと消えたのだ。


歌人が歌を歌うのは寂しいからだ。ふつふつと寂しいのだ。押し寄せて来るこの寂しさを、しばらく癒したいがためだ。わたしはそういうふうに思っている。そうでないことだってあるに違いないのだが、わたしは歌に寂しさを嗅いでしまう。
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自問と自答 何故僕はこのブログを書いているんだろう?

2019年11月12日 17時31分20秒 | Weblog
わたしは何故このブログを書いているのだろう?


そりゃ、書きたいからだよ、たぶん。たぶんね。そうすることで、生きていると言うことを確認しようとしているのかもしれない。

書く楽しみを、そこに見出そうとしているからだよ。書くのはクリエイトすることだからだよ。そうするとそこに楽しみが誕生するんだよ。

そんなに簡単?

ううん、簡単じゃないね。いつもそうなるとは言えない。

藻掻いている。藻掻いて藻掻いている。そうすることで、何かを掴もうとしている。

空を切りながらも、何かを掴もうとしている。

空虚の中に、空虚ではないものを探索しようとしている。

深い息をしたい。

もしも試行錯誤の後で、我にもなく、ふと、ふわっと、いい作品がクリエイトされたら、そこで静かな深い息ができそうな期待がある。

でも、それは期待。いつもは深い霧の中にいる。迷い迷いしている。何処へ行ったらいいか分からずにいる。何を書いていいか分からないでいる。

それでいい加減なつまらないことばかりになっている。

結局のところ、ちっとも役立てていない。読んで下さっている方に、役立てていない。

お詫びばかりをいいたくなる。そうすると苦痛になる。苦痛ばかりでは、書きたくなくなる。

やっぱり少しだけ、書く楽しみを味わいたい。書いた後で、カンフォットに辿り着きたい。


いったい何を書いたらいいんだろう?

でもこれは自発であって、強制ではない。

書きたいことが見つかったら、そのときに書けばいいのだ。

無目的でいいのだ。

何故書くのかなんて理由づけに捕縛されなくてもいいことなんだ、これは。


書きたくなければ書かないでいればいいんだ。うん。
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畑のホウレン草が

2019年11月12日 12時39分42秒 | Weblog

畑のホウレン草がここまで大きく育って来ました。色も濃い。

ホウレン草のおひたしが好きだなあ。おいしい。

 

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会津八一の歌に走り込む 清き川瀬に遊びて行かな

2019年11月12日 09時41分10秒 | Weblog
たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて きよき かわせ に あそびて ゆかな       会津八一

滝坂の岸の梢に衣掛けて清き川瀬に遊びて行かな


滝坂の道に沿って谷川が流れている。音を立てて誘って来る。誘いに乗らぬほど忙しいのでもない。上着は岸辺に伸びた雑木の梢に掛けておいて、川瀬にとんとんと下りて行く。白い砂が光を跳ねている。谷水が岩の間を滑って下る。ものみなが清らかさに浸っている。しばらくここにいることにする。

寂しいというのは濁ったこころの激流。わたしの寂しさは、そう。静かにしていよ。しばらく静かにしていよ。さらさらと流れる清流になっていよ。
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悪いことばかしがあるものか いいこともあるはず

2019年11月12日 09時29分54秒 | Weblog
悪いことばっかしあるものか。いいこともあるはず。
いいことばっかしの人もいるように見えるが、もしかしたら、そうではないのかもしれない。案外、片っ方でもの思いして悩んでいるのかもしれない。

悪いことばっかしがあるものか。いいことも訪れて来るはず。川底の淀みに沈んでばかりいるな。淀みの底にも洩れてくる光の筋。きらきらを見詰めてみる。

それがそう見えているだけで、悪いも悪くないもないのかもしれない。色即是空で、本体などというものがなく、みな影法師なのではないか。

朝の光のきらきらを見詰めてみる。そろそろ外に出よう。野良着に着替えて外に出よう。何でも忘れるんだ。却下するのだ。ないものにしてしまうんだ。
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なんだこの虚しさは 牧水の歌を身勝手に鑑賞する

2019年11月12日 09時15分13秒 | Weblog
椎のはな栗の木の花 はつ夏の木の花賞づるひとのほつれ毛   若山牧水


牧水は九州宮崎県の人。記念館を訪ねたこともある。今日はその人の歌を取り上げてみる。わたしなりの解釈を施してみる。いい加減だが。

牧水はおんなの人といっしょに居るようだ。山には椎の花が、山を埋めるように咲いている。畑には栗の木の花も咲いている。どちらも白い花だ。どちらも匂う。性の匂いがする。花は呼び寄せる性なのだ。

おんなの人は、少し離れたところで木の花を見ている。窓から夏の風が吹き入れて来る。その人に近づけないわたしは、ただその人の首の後ろの、ほつれ毛がやわらかく風に戦ぐのを見ている。

じりじりと日が強くなる。汗ばんでくる。おんなの人は、木の花を美しいと言って愛でているだけで、わたしの関心を誘う素振りもない。つれない。なんだこの虚しさは。この寂しさは。
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唸り損だったということになる

2019年11月12日 09時11分32秒 | Weblog
今朝のS新聞には県の文学賞の受賞者の作品の発表が載っていた。顔写真と人となりとも載せてあった。賞を与えた側の選者の評も。わたしの落選は今年に限ったことではない。もう幾十年と続いているから、余程よほど賞から遠い位置にいるのだろう。山の裾野の、その低い麓なのかもしれない。

受賞者を褒めていればすむことなのだが。

小説こそ書かなかったが、後の部門にはすべて投稿した。随筆部門、詩部門、短歌部門、俳句部門、川柳部門に。締め切りの夏の8月をうんうん唸っていた。すべて落選した。唸り損だったということになる。
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行きたくない 行かない

2019年11月12日 09時09分46秒 | Weblog
今日は俗称高齢者大学の、講習がある日だが、行きたくない。行かない。あまり人に会いたくない。家にいることにする。ヒヨドリが庭先に来てけたたましく鳴いている。どんな発見があったのだろう。朝日がやわらかく畑の土に差している。爽やかな秋の日和になるだろう。


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腹が減っていたというのは勘違いだった

2019年11月12日 08時51分56秒 | Weblog
腹が減っていたというのは勘違いだったようだ。いざ、卓について、朝ご飯の茶碗を取り上げたが、食が進まなかった。諦めて、途中で打っちゃった。こんなこともある。無理して喰うこともあるまい。刻んだ葱入りの卵焼きを一切れ、喉に押し込んだ。


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