<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

元気を湧かすには旅もいいかなあと思って。

2019年11月20日 18時10分21秒 | Weblog

元気を湧かすには旅もいかなあと思って、旅に出ました。4時間掛けてゆっくり此処まで来ました。

 

これから夕食です。夕食がすんだ後の夜が長いです。12時までお風呂に入れますから、これで時間を潰します。

 

合間合間は読書をします。本は、カバンの中に何冊か入れて来ました。

寂しくなくなるように酒も飲みます。といっても、僅かですけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寂しいので旅に出ました。

2019年11月20日 17時57分53秒 | Weblog

寂しいので旅に出ました。赤くなった山々を見て回りました。熱い湯の温泉に浸かりました。宿の部屋から海が見渡せます。日没の海は神秘的です。寂しいなら大勢がいいかも知れませんが、一人です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11時を過ぎました。外は光が溢れています。

2019年11月20日 11時04分26秒 | Weblog
11時を過ぎました。光が溢れて来ています。もういいでしょう。炬燵から出ましょう。着替えをします。明るい外に出ます。日当たりに出れば、ほんわかあたたまれるでしょう。

今日はわたし一人です。留守番です。お昼は何を食べたらいいでしょうね。作るのは面倒です。近くのおうどん屋さんに行きましょうか。牛蒡天うどん一杯420円です。

ミニサイクルに乗ってサイクリングしたらよさそうですが、風がありそうです。体力回復が不十分ですから、これじゃ風邪を引きそうです。無理をすることはありません。

これだけ寒さが加わって来たら、もう冬野菜の種蒔きもできそうにありません。出芽しない可能性があります。出芽しても成長しないかもしれません。畑に空き地があります。放置しておくのはもったいないのですが。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さっきのブログの蛇足

2019年11月20日 10時59分45秒 | Weblog
さっきのブログの蛇足ですが、このわたしの解釈は、十一面観世音菩薩の陀羅尼経を読んでいるうちに、ふんわりと授けられた解釈です。陀羅尼のなしたまふところです。わたしが解釈できるはずがありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が如くにして異なることなし。十一面観世音菩薩陀羅尼経を読む。

2019年11月20日 10時02分42秒 | Weblog
若(も)しよく至心に呪(しゅ)を誦(じゅ)し我を念ぜば現身に飛行自在(ひぎょうじざい)神通変化(じんつうへんか)を獲得して我如(わがごとく)にして異なることならん。
          「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より

「呪」とは、「神呪」つまり陀羅尼のことである。真言とも真言マントラとも言う。此処では十一面観世音菩薩の陀羅尼である「オンマカキャロニキャソワカ」を指している。これで波長を合わせることができる。すると交流の扉が開く。

「我」とは、十一面観世音菩薩のことである。「我を念じる」とは観世音菩薩の御名を唱えて交流の扉を開くことである。南無することである。帰依することである。波長を合わせることである。成り切ってしまうことである。

「現身に」とは、「この身このままで」「時間を経過しないで、空間を移動させないで、即身に」ということである。つまり、成り切ってしまうのである。観世音菩薩と一体化してしまうということである。

「飛行自在」とは、自在な思惟力や行動力が具わるということである。成り切ってしまっているのだから、自由自在になる。「此処に居るわたしは観世音菩薩である」という意識上の変身を遂げるのである。観世音菩薩としてこの地に生きているという認識に立てばそうなるのだろう。

「神通変化」とは、観世音菩薩の神通力、つまり功徳によって、わたしが変化をしてしまうということである。観世音菩薩に成り切ってしまうことである。これで「生き生きと生きているわたし」「守られているわたし」「観世音菩薩として出現しているわたし」を体得するのだ。

「我如くにして異なることなし」にならしめられるのだ。観世音菩薩と一体化してしまうのである。そうやって自由自在に生きているわたしを体験体得するのである。「守って下さい」「わたしを助けてください」の請求をするのではなくて、「守られているわたし」「助けられているわたし」を汲み取って、一切の恵みを領収するのである。

これで立たされている足場の転換、立脚地点の転換が起きるのである。頼み事をする自分ではなくて、そこを踏み越えて、頼み事を聞く力が具わったわたしへと、一挙に進化を遂げてしまうのである。

陀羅尼を通して、意識の変換が起きてしまうのである。「飛行自在、神通変化したわたし」へと転換されてしまうのである。「自由自在に生きられている」「思い通りに生きている」という幸福感、充実感に入り込んでしまうのである。

10
「観音菩薩とわたし」という対立概念ではなく、同化してしまう。成り切ってしまう。それが「異なることなし」に収束されて来る。波長が合ったということである。人は、菩薩を生きているのである。餓鬼地獄畜生修羅を苦しんでいるのではなく、菩薩を生きていることができるのである。

そういう解釈を試みてみました。これはわたし一解釈ですから、普遍性はありません。我が儘な受け取りに過ぎません。

わたしはこの経典のこの箇所を読み進めているとふっと体が浮いてしまって軽くなれた感覚を味わいます。なにしろ「(観世音菩薩と)異なることなし」を宣告されているのですからね。あがくのが、ここでふっと止まって、静かになってしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それを思うと嬉しくなる

2019年11月20日 08時38分14秒 | Weblog
午前8時半の気温が14度。炬燵に足を延べているけど、上半身が寒いなあ。雨は降っていない。でも、光の降る量が少ない。霜は下りていない。風もない。一日一日、冬が深くなっていくなあ。

こうなると、畑の野菜たちが凍り付くのを防ぐために、自助努力をすることになる。つまり、糖度を増して、甘くなる。人間がそれを歓迎しておいしいおいしいをいうようになる。うまくしたもんだね、ここらあたりは。

部屋の中に居るのに、手の指がかじかむ。で、ときどきパソコン入力の手を休めて、ふうふうと息を吹き掛ける。

いまは石蕗(つわぶき)の黄金の輝きが一番に美しいころ。庭のあちこちに株分けしていたのが、旺盛に成長して栄華を誇っている。近くへ来ると、それがみなうっすら化粧を施したおんなの人になって、匂う。それを慕ってくる虫たちが周辺を飛び回る。

光が届いて来るというのは、いいねえ。届いて来なかったら? 暗黒の中では生きていられなかったねえ。冷たくて。太陽さまさまだ。光が届いているということは? うん、守られているってことだよね。ここで生きてくださいってことだよね。明るくして生きていいよってことだよね。それを思うと嬉しくなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それを思うと嬉しくなる

2019年11月20日 08時38分14秒 | Weblog
午前8時半の気温が14度。炬燵に足を延べているけど、上半身が寒いなあ。雨は降っていない。でも、光の降る量が少ない。霜は下りていない。風もない。一日一日、冬が深くなっていくなあ。

こうなると、畑の野菜たちが凍り付くのを防ぐために、自助努力をすることになる。つまり、糖度を増して、甘くなる。人間がそれを歓迎しておいしいおいしいをいうようになる。うまくしたもんだね、ここらあたりは。

部屋の中に居るのに、手の指がかじかむ。で、ときどきパソコン入力の手を休めて、ふうふうと息を吹き掛ける。

いまは石蕗(つわぶき)の黄金の輝きが一番に美しいころ。庭のあちこちに株分けしていたのが、旺盛に成長して栄華を誇っている。近くへ来ると、それがみなうっすら化粧を施したおんなの人になって、匂う。それを慕ってくる虫たちが周辺を飛び回る。

光が届いて来るというのは、いいねえ。届いて来なかったら? 暗黒の中では生きていられなかったねえ。冷たくて。太陽さまさまだ。光が届いているということは? うん、守られているってことだよね。ここで生きてくださいってことだよね。明るくして生きていいよってことだよね。それを思うと嬉しくなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする