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若(も)しよく至心に呪(しゅ)を誦(じゅ)し我を念ぜば現身に飛行自在(ひぎょうじざい)神通変化(じんつうへんか)を獲得して我如(わがごとく)にして異なることならん。
「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より
2
「呪」とは、「神呪」つまり陀羅尼のことである。真言とも真言マントラとも言う。此処では十一面観世音菩薩の陀羅尼である「オンマカキャロニキャソワカ」を指している。これで波長を合わせることができる。すると交流の扉が開く。
3
「我」とは、十一面観世音菩薩のことである。「我を念じる」とは観世音菩薩の御名を唱えて交流の扉を開くことである。南無することである。帰依することである。波長を合わせることである。成り切ってしまうことである。
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「現身に」とは、「この身このままで」「時間を経過しないで、空間を移動させないで、即身に」ということである。つまり、成り切ってしまうのである。観世音菩薩と一体化してしまうということである。
5
「飛行自在」とは、自在な思惟力や行動力が具わるということである。成り切ってしまっているのだから、自由自在になる。「此処に居るわたしは観世音菩薩である」という意識上の変身を遂げるのである。観世音菩薩としてこの地に生きているという認識に立てばそうなるのだろう。
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「神通変化」とは、観世音菩薩の神通力、つまり功徳によって、わたしが変化をしてしまうということである。観世音菩薩に成り切ってしまうことである。これで「生き生きと生きているわたし」「守られているわたし」「観世音菩薩として出現しているわたし」を体得するのだ。
7
「我如くにして異なることなし」にならしめられるのだ。観世音菩薩と一体化してしまうのである。そうやって自由自在に生きているわたしを体験体得するのである。「守って下さい」「わたしを助けてください」の請求をするのではなくて、「守られているわたし」「助けられているわたし」を汲み取って、一切の恵みを領収するのである。
8
これで立たされている足場の転換、立脚地点の転換が起きるのである。頼み事をする自分ではなくて、そこを踏み越えて、頼み事を聞く力が具わったわたしへと、一挙に進化を遂げてしまうのである。
9
陀羅尼を通して、意識の変換が起きてしまうのである。「飛行自在、神通変化したわたし」へと転換されてしまうのである。「自由自在に生きられている」「思い通りに生きている」という幸福感、充実感に入り込んでしまうのである。
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「観音菩薩とわたし」という対立概念ではなく、同化してしまう。成り切ってしまう。それが「異なることなし」に収束されて来る。波長が合ったということである。人は、菩薩を生きているのである。餓鬼地獄畜生修羅を苦しんでいるのではなく、菩薩を生きていることができるのである。
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そういう解釈を試みてみました。これはわたし一解釈ですから、普遍性はありません。我が儘な受け取りに過ぎません。
わたしはこの経典のこの箇所を読み進めているとふっと体が浮いてしまって軽くなれた感覚を味わいます。なにしろ「(観世音菩薩と)異なることなし」を宣告されているのですからね。あがくのが、ここでふっと止まって、静かになってしまいます。