<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「小鳥に説教するフランチェスコ」というフレスコ画を、写真で見た

2019年11月11日 14時27分31秒 | Weblog
「小鳥に説教するフランチェスコ」というフレスコ画がある。アッシジのフランチェスコ聖堂に。14世紀に描かれたものらしい。作者はジョットという絵描きさん。フランチェスコは、兎や小鳥や狼たちにも語りかけることができた聖人である。自らは貧しくして過ごし、病む人のお世話をもしたらしい。

フレスコ画の写真を見ると、小鳥たちが聖人の教えを聞いて集まって来ている。小鳥にも話しかけられる人がいたのだ。

ということは? 小鳥たちは聖人の言葉を理解したということになる。そんなことがあるんだろうかね。

あってもいいように思う。万物には心がある。心が受け止める。喜んで聞いている小鳥たちの様子を想像してみた。
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人は死んでこの世を去って行く、とされているのだが

2019年11月11日 14時02分54秒 | Weblog
今日の天気はころころ変わる。日が射していたかと思うと雨が降る、風が吹く。落ち着かない。

暫く外に出て農具を手にして遊んでいたけれども、いきなり寒くなって、家の中に避難をした。

風邪を引いちゃ元も子もないからね。セーターを着込んでその上にジャンパーを羽織った。

昼ご飯を食べて、炬燵の中に足を延ばして、YouTubeで心を癒す音楽を聞いているところ。

昨夜、ご近所の方が亡くなった。今晩が通夜。いっしょにお習字教室でお習字の稽古をした人。

わたしより3才最年長だった。病気をなさっていた。悲しいけれど、人は死んでいかねばならない。

わたしもそうなる。この世を去って行くことになる。去って行くのだとすれば、何処へ向かうのだろう。

去らないで、非物質化して、ただ楽しく楽しく、ただ嬉しく嬉しく、此処に軽々と存在しているかもしれない。

苦しいのは物質でいる間だけのことなのかもしれない。重たい物質でいる間だけのことかもしれない。

10
形があって見えるのは、わたしたちが物質だから。非物質になれば、形もなくなってもう見えないけれど。
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人は死んでこの世を去って行く、とされているのだが

2019年11月11日 14時02分54秒 | Weblog
今日の天気はころころ変わる。日が射していたかと思うと雨が降る、風が吹く。落ち着かない。

暫く外に出て農具を手にして遊んでいたけれども、いきなり寒くなって、家の中に避難をした。

風邪を引いちゃ元も子もないからね。セーターを着込んでその上にジャンパーを羽織った。

昼ご飯を食べて、炬燵の中に足を延ばして、YouTubeで心を癒す音楽を聞いているところ。

昨夜、ご近所の方が亡くなった。今晩が通夜。いっしょにお習字教室でお習字の稽古をした人。

わたしより3才最年長だった。病気をなさっていた。悲しいけれど、人は死んでいかねばならない。

わたしもそうなる。この世を去って行くことになる。去って行くのだとすれば、何処へ向かうのだろう。

去らないで、非物質化して、ただ楽しく楽しく、ただ嬉しく嬉しく、此処に軽々と存在しているかもしれない。

苦しいのは物質でいる間だけのことなのかもしれない。重たい物質でいる間だけのことかもしれない。

10
形があって見えるのは、わたしたちが物質だから。非物質になれば、形もなくなってもう見えないけれど。
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会津八一の歌へ駈け込んでくる その10 手毬つく子の声のさやけさ

2019年11月11日 10時49分48秒 | Weblog
あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ       会津八一

雨籠もる宿の庇に一人来て手毬つく娘の声のさやけさ

手毬をついて遊ぶのは女の子だろうから、「娘」の漢字にしてみたが、「子」がよかったのだろうか。

作者は旅に出ている。奈良へ来て寺を回っている。雨が降って今日は外に出ていけない。宿にいると、お昼頃、宿に突き出た庇の下へ来て、おんなの子が手毬を突きだした。まだ幼い娘のようだ。手毬歌が聞こえて来る。なんという初々しい爽やかな声なのだろう。人の世の寂しさを知らないでいる声。声を聞いていると、老いの寂しさが瞬間消えて行ってしまった。

およそ会津八一の歌は寂しい。寂しい歌だから、寂しいわたしが此処へ来て同調を試みようとする。共鳴をしたくなる。でも、会津八一の寂しさは高級なそれであるから、下種(げす)のわたしの寂しさが弾かれてしまう。弾かれたわたしは、もんどり打って倒れ込むばかり。
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会津八一の歌へ駈け込んでくる その10 手毬つく子の声のさやけさ

2019年11月11日 10時49分48秒 | Weblog
あまごもる やど の ひさし に ひとり きて てまり つく こ の こゑ の さやけさ       会津八一

雨籠もる宿の庇に一人来て手毬つく娘の声のさやけさ

手毬をついて遊ぶのは女の子だろうから、「娘」の漢字にしてみたが、「子」がよかったのだろうか。

作者は旅に出ている。奈良へ来て寺を回っている。雨が降って今日は外に出ていけない。宿にいると、お昼頃、宿に突き出た庇の下へ来て、おんなの子が手毬を突きだした。まだ幼い娘のようだ。手毬歌が聞こえて来る。なんという初々しい爽やかな声なのだろう。人の世の寂しさを知らないでいる声。声を聞いていると、老いの寂しさが瞬間消えて行ってしまった。

およそ会津八一の歌は寂しい。寂しい歌だから、寂しいわたしが此処へ来て同調を試みようとする。共鳴をしたくなる。でも、会津八一の寂しさは高級なそれであるから、下種(げす)のわたしの寂しさが弾かれてしまう。弾かれたわたしは、もんどり打って倒れ込むばかり。
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会津八一の歌に駈け込んでくる その9 誰かが夜のみ寺の鐘を撞いている

2019年11月11日 10時30分10秒 | Weblog
幾つか会津八一の歌に触れているが、寂しさは寂しさ。
愚か者のわたしの寂しさは、依然として寂しさ。雲を作って浮かんでいる。

ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけ て ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ       会津八一

潜み来て誰(た)が打つ鐘ぞ 小夜更けて仏も夢に入りたまふ頃

夜が更けた。わたしはもう寝所にいる。そこへ鐘の音が響いて来た。遠くから小さく。寂しくて眠られない誰かが、ひっそりと鐘撞き堂に上って来ているのだろうか。いや、人ではなくて御仏かもしれぬ。衆生救済の法座の鐘かもしれぬ。もしかしたら、行き所のないわたしの魂かも知れぬ。
ひたすらに夜が更けて行く。さあ、寝よう。寝たら夢に御仏が現れて来て下さるかも知れぬ。

季節は冬なのだろうか。小夜更けるとあるから、まだ宵のうちかもしれぬ。冬は早々と日が暮れる。後は夜明けまで寂しさを相手にしていることになる。日中に尋ねていったお寺の仏さまが、夢に現れてくださるのなら、こんなに嬉しいこともあるまい。

鐘は、禅寺の鐘で、夜の法座が終わった合図なのかもしれぬ。法座では老師が人の道を説いたことだろう。寂しさを抜け出る方策を教えたことだろう。 
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おんなの人に抱かれたらよかろう

2019年11月11日 10時00分08秒 | Weblog
ああ、寂しい。あたたかいおんなの人に抱かれたらよかろう。抱かれたらよかろう。

そんな答しか浮かばないのか。

へ。智慧がない愚か者でございますから、そこへ流されて行ってしまいます。藁の屑のように、流されて行ってしまいます。

藁の屑わたしはこんな藁の屑 おんなの人の小川へ流る    山鳩暮風

春の日を流れる小川やさしくてわたしの藁の流れて下る    山鳩暮風

そんなに寂しいか。
へ、寂しいばかりで。

実現ができないことを言うな。
あたたかい女の人がお前を抱いてくれることなどはない。あり得ない。それよりも酒でも飲んだらどうだ。

へ、糖尿病患者は酒が禁じられています。

いいではないか。禁を犯して死んでもいいではないか。いずれみな死ぬのだ。早い遅いの違いだけなのだ。

へ、ではそういたします。それでも寂しさが消えないときには、どういたしましょう?

寂しさはわたしの無明 億兆の煩悩灯る冬の夜の酒    山鳩暮風
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会津八一の歌に触れる その8 新薬師寺の薬師如来を仰ぎ見る

2019年11月11日 09時29分22秒 | Weblog
ちかづき て あふぎ みれ ども み ほとけ の みそなはす とも あらぬ さびしさ     秋艸道人 会津八一
近づきて仰ぎ見れども御仏のみそなわすともあらぬ寂しさ
☆ 
「新薬師寺にて」の添え書きがあるから、この御仏は薬師如来なのだろうか、ご本尊の。「みそなはす」は「見る」の尊敬語。「ご覧になる」の意。薬師如来は東方の浄瑠璃光浄土におられる御仏。左手に、衆生の病苦を救う薬壺を持つ。
寂しい。寂しいので作者は御仏を仰ぎ見ている。癒されたくて仰ぎ見ている。近くに寄って仰ぎ見ている。近くに寄れば寄るほどに、御仏の見ている視座から遠退いて行ってしまう。なにしろ、御仏は宇宙中の生きとし生ける衆生を救おうというのだから、作者一人の御仏ではないのである。そこで、「ああ、御仏はわたしをご覧になっていてはくださらないのか」という恨み言に、瞬間ふっと、変わり果てる。ではどうすれば、寂しさから逃れられるか。<わたしをみそなわして下さっている>という受け止めに依るしかない。此処はだから反語なのだろう。
寂しさも、人間の病む病苦の一つである。こころの病である。無明の病である。煩悩を宿す者の病苦である。猛毒だが、薬にもなる。薬を求めて御仏に会いに来ることができる。御仏を仰ぎ見ることができる。解決法を授けられようとして、御仏の世界に近づいて来ることができる。
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会津八一の歌に触れる その7 山鳩の声

2019年11月11日 09時04分59秒 | Weblog
秋艸道人、会津八一は大好きな歌人だ。秋艸が茂っている新潟の山里の小径を作者は行き交っていた。新潟には良寛禅師がおられた。彼は良寛禅師に心酔していた。禅師の歌と書を愛していた。もちろんその背景にある仏教をも。仏教芸術をも。
あひしれる ひと なき さと に やみ ふし て いくひ きき けむ やまばと の こゑ
合い知れる人なき里に病み伏して幾日聞きけむ山鳩の声
山鳩が下りて来るところに数日滞在したのだろう。静かな山里である。静けさはいいが、寂しい。人も来ない。そこらを歩いても、挨拶できる人もいない。体調がどうも芳しくない。不活発になる。寝たり起きたりして過ごしている。寝所に進むと、余計に山鳩の声が、はっきりして、澄んで聞こえて来てしまう。
合い知る人がいてくれると寂しくないか。そんなことはない。会っていても寂しさが消えるわけではない。万に一つ、美しい天女が舞い降りて来て、羽衣を敷いて抱き合ったところで、その場凌ぎにしかならない。却って、その後に憂愁の火が燃え盛るだろう。
秋艸道人は、その寂しさを、歌にして慰めた。歌を詠むと慰められたのだろう。そうか、歌は慰撫なのか。そこを越えられないのか。
山鳩のぼふうぼほうの鳴き声のそのあたたかさ聞ける山里     薬王華蔵
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会津八一の短歌を読む その6 囲炉裏の火は寂しい

2019年11月11日 08時25分37秒 | Weblog
秋艸道人、会津八一の歌にあたたまる。歌は冬の夜の囲炉裏火、とおろり榾火(ほだび)。手を差し延べる。
いづく に か したたる みず の きこえ きて ゐろり は さびし ゆきて はや ねむ
いづくにか滴る水の聞こえ来て囲炉裏は寂し 行きて早や寝む
昔の日本の住宅には囲炉裏があった。榾(ほた)を燃やしていた。紫色の微かな煙が部屋を流れていた。何処からか谷水の音がしている。苔根を滴って落ちる水音が聞こえて来る。夜が更ける。冬の夜は星が冷える。万物が冷えて来る。寂しさが深くなる。榾火が消えてしまわないうちに、あたたまったところで、寝所に行って、さあ、もう寝よう。
囲炉裏が寂しいのでもない。榾火が寂しいのでもない。人間、生きている内は、寂しいのである。何処からか水が流れて来て水音がしている。それでその寂びしさの奥の蔵の、扉が開いてしまったのだろう。
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