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広尾駅(その1)

2015-01-31 00:17:48 | 2014小幌・日高本線・幾寅

 奥に見えるクルマがなければ、今にでも汽車が来そうな雰囲気。ラッチ(改札)もまだ新しく、これでも廃駅とは信じられない風景。

 首都圏のJR駅に自動改札機が導入される前の有人改札はこのタイプが多かったような気がします。駅員さんがここで切符に鋏を入れたり、汽車から降りたお客さんの切符を回収。2つもあるなんて、昔は相当な利用者がいたに違いない。

 レールのあった場所は駐車場に変わってしまいました。

 これは手動分岐器。今の時代、レールの切替は信号に合わせ、自動でやってくれますが、昔はどのレールに入線させるかレバーを引いていました。広尾駅は終着駅。今の駐車場を見て判断できるとおり、昔は構内にレールをたくさん敷いていたかも知れない。今はなき山口県の美祢線大嶺駅も昔は石炭を積むためのレールを何本も敷いていました。駅舎の中にうどん屋もあったほど栄えていたらしい。閉山後は急激に人口が減り、支線は廃線に追いやられてしまいました。

 ここでも臨時改札口。今はなき江差駅もメインの改札口の横にもう1つありました。島根県の大社駅(平成2年廃駅)も、木製ラッチがずらり。せっかく立派な設備を作っているのに、クルマが普及し、人に見捨てられるとこんな運命に・・・。

 なんと!到着時刻表が廃線当時のまま残されていました。

 改札口の真上。

 駅舎をそのまま広尾線鉄道記念館に生まれ変わっているので、駅長室や駅務室の跡地に往年の資料がたくさん展示されています。

 民営化前は「北海道・広尾」の消印なのに、今は「帯広」。

 広尾線の歴史コーナー。広尾駅開業は昭和7(1932)年。現在の動労基準法第5条「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」が出来る前なので、囚人を使って、食事もろくに与えず過酷な環境で長時間も労働をさせていました。特に有名なのは現在も使われているJR石北本線の常紋トンネル。国鉄時代からあそこを通るたびに人影が見えたなど幽霊話が相次いでいました。昭和43(1968)年の十勝沖地震で壁面が損傷し、中から立ったままの人骨が何体か発見されました。そのため、金華駅の近くに常紋トンネル殉職者追悼碑が建っています。

 広尾駅発行の常備補充券。運賃を調べ、手書きで発行。わが故郷の小さな駅も有人駅だったころも同じようなものがありました。ほぼ100キロ以内の近距離ならあらかじめ運賃が印刷された硬券、遠いところは手書き。博多、広島市内、大阪市内、東京都区内などの主要駅はあらかじめ運賃表に載っているので、計算しなくてもいいが、変な駅行きは手作業で計算するのでかなり大変。

 1番上は指定席の常備補充券。みどりの窓口のある駅まで電話をして、指定席を確保したと応答があれば、手書きで座席番号を記入。C席をE席と聞き間違えないようにCはCHINAのチャイナ席、Eはイングランド席と発音していたようです。

 廃駅直前の時刻表もそのまま保管。広尾線は1日6本っ!!でした。現在も広尾線が十勝バスに引継ぎ、時刻表を見ると1日14本以上も出ているので、昔に比べると少しは便利になったかな。学校が休みになる土日祝は4本減り、10本運行。

 南からは広尾線で帯広、そこから北に向けての士幌線も初めて聞きました。これも廃線になってしまいました。
 広尾駅の話はまだまだ続きます。
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