米子駅
中学生によるがいな太鼓演奏
米子へ。鳥取県立米子東高校の同期生会出席と他にも目的があった。行きは夜行バスで10時間、帰りはANAで1.5時間。同期生会では恩師のお隣の席、中学生の「がいな太鼓」演奏もあり盛り上った。挨拶の順が回って来た。「アメリカに20年住み、学び、大学で教えました。平和教育、グローバル教育、多文化教育が専門です。今日は皆さまに呼びかけたいことがあります。私たちのバックボーンに米子東高がありますね。人生の荒波を乗り越えてきたエネルギーの源も米子東高校でしょう。その東高に少しでもお返しが出来るかと、若い後輩高校生たちのために海外短期留学支援プロジェクトを立ち上げます。海外で学ぶことは実に大きな自信を齎します。ご興味のあるお方はお声をかけてください」と。母校も訪問し、後輩でうら若い校長先生に会った。母校は60年前と同じ佇まいだった。(彩の渦輪) 米子鬼太郎空港
キャプション:Forgive but not Forget!(2)トゥクトゥクで巡ったカンチャナブリ ミャンマーに近い終点ナムトック行きの列車が遅れに遅れ夜遅く到着、ホテルの予約もなく未知の街に夜遅く着いたのは久し振りだった。。だが1台の合い乗りタクシーが待っており、フィリピンからの女性教師3人と共にホテル探しをした。翌日も助け合い効率的に動けた。彼女たち曰く、「タイには英語を話す人が少ないので英語教師の需要がある。俸給は米国人、英国人等のネイティヴの半額だが物価が安いので快適だ」と。彼女たちは我々の「地球千鳥足人生」に感動し、今後「働いては旅をし、若いうちから世界を見たい」と語った。特筆すべきはトゥクトゥクの運ちゃんラチだ。カンチャナブリでJEATH戦争博物館、泰緬鉄道博物館、連合軍共同墓地、クワイ川鉄橋等を半日かけて回ったが、3日目、ナムトックからの帰路宿泊したこの街で筆者を見つけ、満面の笑みで追っかけて来た。ご縁を感じ日本のお土産をあげ再々会を約して別れた。70年前の日本軍捕虜たちに心掴まれたカンチャナブリは黄色い藤の花と火炎樹が咲き乱れていた。
(3)カンチャナブリ戦争博物館(JEATH War Museum)
JEATH War MuseumのJEATHにDeathを想像するが、確かにDeath Museumでは余りに残酷な印象を与えるからと置き換えられた言葉だそうで、泰緬鉄道敷設の当事国日本のJ、捕虜兵の国E(England)、A(America & Australia)、T(Thailand)、H(Holland)の頭文字をとったものだ(博物館のパンフレットより)。当時日本軍によって写真等の記録行為は禁止されたのだが、生き残り捕虜経験者の絵画が生々しく当時の捕虜生活を伝えており、見るも辛い。アジア人強制労働者たちは今も密林深く眠ったままだそうだ。過去を忘れず平和な地球実現のために努力することが最重要課題だと肝に銘じた。(彩の渦輪)
写真キャプション:3.トゥクトゥクの運ちゃんラチ 4.ふんどしだけまとった捕虜(JEATH MUSEUM)3.火炎樹咲き誇るクワイ川岸辺
(1)バッタと道連れ死の鉄道(Death Railway)
映画「戦場にかける橋」を覚えている人はもう少ないだろうが、近く公開される映画「レイルウェイ 運命の旅路」もここ、旧泰緬鉄道が舞台だ。第2次世界大戦中に日本軍はタイとミャンマーを結ぶ軍需物資輸送路として15か月余という驚くべき速さで鉄道を開通したが、その際約3万人の連合軍捕虜兵士の約半数、約10万人のアジア強制労働者のほぼ全てがジャングルの疫病、医薬品不足や拷問等で果てた。よってこの鉄道は「死の鉄道」とも呼ばれ、Death Railwayと書いたTシャツも売られている。現在カンチャナブリ-ナムトック間がタイ国営で運行され、タイ人は乗車無料、外国人は一回一律100バーツだ。鉄道沿線は風光明媚ゆえ海外からバックパッカーが訪れ始めた。汽車は70年前同様、窓から風を入れ、ポーと汽笛一声、「ガッタン・ゴットン・ガッタン」と激しく揺れながら進む。クワイ川鉄橋や窓から手が触れそうに近い岩壁、等が呼びもの。単線ゆえ列車のすれ違い場所で無限に待ち、始発も当然遅れる。筆者の乗車2回とも2時間半遅れだったが、行きにバッタ君が飛び込み終点まで同席、別れる時に「死の鉄道で死んじゃ駄目よ」と外に放した。クワイ川鉄橋は歩いて対岸まで2往復したが、下は淡緑色のクワイ川、対岸近くの枕木が古く、過酷な体験を強いられた往時の捕虜の呻き声が聞こえた気がした。(彩の渦輪)写真キャプション1.2.泰緬鉄道 3.トゥクトゥクで活動 4.捕虜たちはこの状態でも強制労働させられた (JEATH Museum)。
東京地方に雪がこんなに降るなんて40年振り?かき集めた雪が凍って氷河のように青光りしていましたネ。やりました! 駄目事(ダメッジ)です。夫、自悠人、氷塊ではないが棒杭に車をこすり、一瞬にして35万円の事故、1週間はかかると言われた。筆者は4年振りのぎっくり腰で4日間全く動けなかった。食べ物など節約しても無意味だけれど車無し、腰痛ではね。で、熊本で買って美味しかった胡麻太鼓-黒ゴマとアーモンドをギッチリ丸く固めたお煎餅-を思いだした。空袋があったので電話した。「もしもし、ぎっくり腰で蒲団からお電話してます。黒いもののほうが栄養があるので黒ゴマだけお願いよ!」「黒ゴマと白ゴマのセットが原則ですけど、はい、お見舞いですから黒だけにしますよ!」。というわけで先日の誕生日に熊本から胡麻太鼓煎餅到着。ちょっとにっこり。「ちょっと」の意味は……昨年は「誕生日おめでとう」をFace bookから14人頂いたのに今年は9人、もう私は忘れられたんだなあ、と。ところが、である。翌21日未明からアメリカやオマーンやスウェーデンから続々と計23人から「おめでとう!」が届いた。時差があったんです。Cincinnatiは14時間、シカゴは15時間の時差、懐かしい友人のメッセージは去年より結局多かった。その上車の修理は予定より2日早く出来た。胡麻太鼓と「おめでとう!」の声に景気づけられダメッジ(駄目事)からリカバリー(リカー飲んでバリバリに回復)致しました。お粗末でしたね)(彩の渦輪)
庭の数本の牡丹の間に緑の若木を最近見つけた。何の木だろうと抜いてみたら根元に大きな丸い玉、その割れ目から木が飛び出していたのだ。根っこをよく見たらアボガドだった。アボガドは栄養抜群で週に2回食べれば脳梗塞が防げると新聞で読んだことがある。ピーナツ・バターと相性がいいのでワイフは一緒にパンに付けて食べる。メキシコではアボガドは常食で何にでも入れる。10年ぐらい前、チリのカラマからランド・クルーザーでワイフとアタカマ砂漠越えをし、ボリビアのウユニ大塩湖へ往復4泊の旅をした。その時ドライバーのカルロスがアボガドとトマトのサンドイッチを作ってくれ、とても美味しかった。それ以来アボガドは病みつきだが、種を1つポンと庭に放っておいたのを忘れていた。カルロスは愛車が砂漠で故障し、嫌になったのかウユニ大塩湖に到着したら消えたので別の運転手を雇ったこと、懐かしく思い出した。
このアボガドの木、東京で実を付けるだろうか?寒い冬がやって来る。ビニール・ハウスを作りたいけど猫の額ほどの庭だ。筆者も寒いところには弱い。この若木と一緒に石垣島へでも移住しようか。(自悠人)