いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 青森 がっぱらもち

2023-12-19 07:16:45 | 郷土料理

 「がっぱらもち」

 主な伝承地域 津軽地方

 主な使用食材 ごはん、小麦粉、黒砂糖、黒ごま

 歴史・由来・関連行事
 昔、家庭でアイロンがけをする際、パリッとさせるために布に塗ったのが「米糊」で、水に浸した米をすりつぶしてつくっていた。この時うまくすりつぶせずに米のかすが残ったものを「糊かす」と呼び、これを無駄にしないよう黒砂糖をまぜて生地にし、フライパンで香ばしく焼いておやつにした。材料を焼き鍋に「がぱっ」と一気に移して焼くことから「がっぱらもち」と呼ばれるという。青森県の中では比較的暖かい気候に恵まれ、稲作が盛んだった津軽地方らしく、また食べ物を粗末にしない文化が生み出した郷土のおやつである。「のりかす餅」とも呼ばれる。

 食習の機会や時季
 子どものために、おばあちゃんが家庭でつくるおやつ。もちもちした食感で、たっぷり入ったごまがアクセントになっている。

 飲食方法
 もともとは水で浸した米をすりつぶしてつくったものだが、現在では米粉や冷ごはんを使って手軽につくることが多い。砂糖と塩、黒ごまを混ぜて水を加えてのばし、油をひいたフライパンいっぱいに流し入れ、両面を焼く。小豆や金時豆、くるみなどを入れるアレンジもできる。厚みのある円形をピザのように放射状に切り分ける。道の駅や物産館などでは1切れずつ包んで販売されているが、地域外の人には珍しいおやつである。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 津軽出身者にとってはふるさとの懐かしい味だが、手軽な食品が出回る昨今ではなかなか見られなくなっている。地元の道の駅やイベントなどで販売されたり、食育イベントで子育て中の母親に料理教室が開かれたりする。若い世代向けにはクレープのように果物やクリーム、あんこを巻いて食べるアレンジも紹介されている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/gappara_mochi_aomori.html より

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<おせち> 群馬 干し大根のなます

2023-12-19 07:13:48 | おせち

 「干し大根のなます」

 材料:4人分
 大根100g(3cm厚さ)にんじん50g(約1/4本)柚子1個(A) 酢大さじ6   砂糖大さじ4   塩少々
 作り方
 1.大根は皮をむき2mm厚さの輪切りにして、半日、天日干しする。
 2.にんじんは皮をむいて、大根の直径に長さを合わせてせん切りにする。柚子は皮をせん切りにし、果肉をしぼる。
 3.2を1で巻き、密閉容器に並べる。
 4.鍋にAを入れて沸騰させて冷まし、柚子果汁を1/2個分混ぜる。
 5.4を3に注ぎ、2~3日、冷蔵庫で寝かせて漬け込む。
 レシピ制作者とコメント
 ヘルシーピット関東支部 須田涼子さん
 「天日干しにした輪切りの大根で具材を巻き、酢漬けにします。ほかに、生姜、昆布、干し柿などを具材にすることもあります。」

*https://www.kibun.co.jp/knowledge/shogatsu/database/2010local/index.html より

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イッピンNHK 「維新のふるさと 志を受け継いで~山口 工芸品と菓子~」

2023-12-19 07:07:54 | イッピンNHK

 第240回 2019年12月17日 「維新のふるさと 志を受け継いで~山口 工芸品と菓子~」リサーチャー: 生方ななえ

 番組内容
 山口県萩市は、幕末・明治維新の時代、新しい日本を切り開いた人々のふるさとだ。今も、新しいものを生み出そうとする精神が、工芸や菓子作りに息づいている。萩焼では、それまでなかった香炉。幕末の長州藩士が作ろうとしてできなかった、硬くて熱にも強いグラス。そして、維新後、萩が活気を取り戻すきっかけになった夏みかんを、その形のまま和菓子に仕上げたもの。職人たちの繊細微妙な技と、萩の歴史への熱い思いに迫る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201912171930001301000 より

 山口県萩市は、幕末・明治維新の時代、新しい日本を切り開いた人々の故郷です。
 新しいものを生み出そうとする精神は、今も工芸や菓子作りに息づいています。

 

 1.萩焼「本郷窯」(萩焼作家・廣澤洋海さん)
 
 「萩焼」とは、山口県萩市を中心に作られている陶器です。
 慶長年間に渡来した、朝鮮人陶工の李勺光(山村家)、李敬(坂家)の兄弟が慶長9(1604)年に藩主・毛利輝元の命で、城下で御用窯として開窯し、高麗風の茶陶を制作したことに始まります。
 以来今日まで、この伝統は400年以上の歴史とともに受け継がれ、育まれています。

 そして古来より茶人の間で「一楽、二萩、三唐津」と賞され、数ある茶陶の中でも深く愛されてきました。
 
 茶道の世界では、古くから茶人の抹茶茶碗の好みの順位、もしくは格付けとして「 一 楽・ 二 萩・ 三唐津 」(いちらく・にはぎ・さんからつ)と言われてきました。
 
 これは、
 1位: 楽 焼(京都)
 2位: 萩 焼(山口県萩市)
 3位: 唐津焼(佐賀県唐津市) を意味します。

 「萩焼」の特徴のひとつは焼き締まりの少ない「柔らかな土味」です。
 そしてもうひとつは、高い「吸水性」です。
 「吸水性」が高いことから、長年使っていくうちに器の表面にある細かなヒビ「貫入」(かんにゅう)から
茶が滲み込んで茶碗の趣が変わり、茶人の間では「茶馴れ」とか「萩の七化け(ななばけ)」と言って珍重されています。
 
 戦後の高度成長も「萩焼」は発展を続け、昭和32(1957)年に「選択無形文化財」に選ばれました。
 また昭和45(1970)年)には三輪休和(十代三輪休雪)が、昭和58(1983)年には三輪壽雪(十一代三輪休雪)が「人間国宝」に認定され、平成14(2002)年には「伝統的工芸品」の指定を受けています。

 廣澤洋海(ひろさわひろみ)さんは、「萩焼」の伝統的な色合いの生地に繊細な透彫を施した香炉や花瓶などの作品を製作して、数多くの賞を受賞。
 明治神宮にも奉納されています。

  
 2.萩ガラス工房

 「萩硝子」を制作している「萩ガラス工房」は、幕末に長州藩士の科学者であった「中嶋治平」(なかしまじへい)が興した硝子工房をルーツとしています。

 1823(文政6)年に、萩で朝鮮通詞を務める家に生まれた中嶋は、安政3(1856)年に朝鮮語や蘭語、英語を学ぶために私費で長崎で遊学していた際、その頃大流行していたコレラの予防法を萩藩に提出。
 その功により、公費遊学、オランダ人からの直接の伝習が認められ、軍医・ポンペからは「分析術」を、
長崎製鉄所主任技師・ハルデスからは「蒸気機関学理論」や「冶金学」などを学びました。

 そして安政6(1859)年に萩に帰藩すると、藩に産業の振興奨励として、鉄工局の開設や化学の必要性を訴える建白書を提出、ガラス製造所の開設に関わります。
 
 ガラス製造の目的は、治平が長崎で修得した化学知識を生かして、火薬、医薬品などを研究、製造するためのフラスコ等の道具類を作るためでした。
 
 中嶋は、藩命により薩摩藩に赴き硝子製造や反射炉などを視察、長崎では英国製の蒸気車模型を買って帰り、文久元(1861)年に藩主毛利敬親の御前で試運転を行い、蒸気の力を披露しています。
 
 そして当時の最先端技術である蒸気機関を駆使した硝子製造所が藩主別邸の南園(萩市江向)内に設立され、長州藩に硝子産業を興しました。

 こうして生まれた「萩硝子」は、やがて上質なガラスとして食器やグラスとなり、天皇家や公家に献上するにまでその質を向上させ一時、隆盛の時代を築きました。

 中嶋はその後も分析術の必要性を藩に説き続ける一方、文久3年の下関攘夷戦で撃沈された蒸気軍艦「壬戌丸」の引き上げ、藩内鉱区調査などに奔走した他、写真術・パン製造・染色・人工硝石などの実用化を図り、慶応2(1866)年2月には舎密局(理化学の研究所)の総裁となりました。
 
 ところが同年12月急逝。
 「萩硝子」も施設の焼失や激動の中で、わずか数年で潰えてしまいました。
 そしてその後は再興されることなく、以後、長きに渡って忘れられていました。

 それが、セラミック関連の技術者であった藤田洪太郎さんによって、平成4(1992)年に「萩ガラス工房」が椿原生林(かさやまつばきぐんせいりん)で有名な萩市「笠山」に設立され、治平遺品や残存している記録から当時の復刻品の製作を開始しました。

 「萩ガラス工房」の美しい淡いグリーンが特徴のガラス素地は、地元・笠山で採掘される玄武岩「石英玄武岩」(安山岩)から出来ています。
 この原材料の石英玄武岩を独自で精製し、1520℃という超高温度域で製作した製品は、硬くて熱にも強い国内最高レベルの品質です。

 また、繊細なヒビ割れが特徴の「内ヒビ貫入ガラス」は、熱膨張率の大きいガラスを耐熱ガラスで両側から挟み込んだ「3重構造」になっていて、間に挟んだガラスだけが膨張と収縮を繰り返し、ヒビが入ります。
 そしてこのヒビが熱膨張を繰り返して、3年程かけて自然にヒビが成長して出来たものだそうです。

 約30年前にハンガリーでこの手法出会ってから、日本で再現し、完成品にするまでには、10年以上と歳月が掛かったそうです。
 
 萩ガラス工房 山口県萩市大字椿東越ヶ浜1189-453

 

 3.夏みかん(光國本店)

 萩と言えば「夏みかん」!
 5月上旬から中旬にかけては、「夏みかん」の白い可憐な花が咲き、歩いているとフワっと甘く、爽やかな香りに包まれます。

 大正15(1926)年5月、まだ皇太子であった昭和天皇が萩に行啓した際、市街に「夏みかん」の香りが溢れていたのを「この町には香水が撒いてあるのか」と下問されたという話も残っています。
 
 そしてこの頃に、かんきつ公園では「萩・夏みかんまつり」が開催されます。

 「夏みかん」は、今からおよそ300年前に山口県長門市の大日比(おおひび)の海岸に流れ着いた果実の種を、西本チョウという人が蒔いて育てたのが始まりとされています。
 この原木は、昭和2(1927)年に国の「史跡および天然記念物」に指定されています。

 萩には、およそ200年前に大日比から送られたものが利用されていたようで、江戸時代の終わり頃には、
萩の武士や大きな商人などが自家消費として家の庭などに植えていたそうです。

 それを日本で最初に経済栽培したのが、小藩高政(おばたたかまさ)でした。
 小幡高政は、文化14(1817)年に周防国吉敷郡恒富村(現・山口市)に生まれました。
 長州征討にも出陣し、維新後は、宇都宮県参事、小倉県参事、小倉県権令と要職に就きましたが、明治9(1876)年に母親の看病の為に官を辞して萩に帰り、平安古町(ひやこまち)に住みました。

 新政府樹立後、毛利藩藩主は萩から山口に移り、士族の「給禄奉還」や明治9年の「萩の乱」の勃発・鎮圧により、萩士族は失意は大きく、また経済的にも大打撃を受けていました。
 
 小幡は、生活の術を失った士族達を救うため、空き地となった武家屋敷での「夏みかん」栽培を思い立ちます。
 「耐久社」(たいきゅうしゃ)を設立して、明治9(1876)年に初めて「夏みかん」の種子を蒔き、翌・明治10(1877)年には苗木10,000本を接木し、明治11(1878)年には士族に「夏みかん」の苗木の頒布を開始しました。
 明治20(1887)年頃には、「夏みかん」は萩の特産物に成長しました。

 明治20年代初めの頃、長州萩町漁人町(りょうどまち)の釣道具及び砂糖商の森重正喜という人が「夏みかん」の皮を煮て砂糖漬けにした菓子「橙菓子」(だいだいがし)を初めて製造しました。

 それを安政5(1858)年創業の菓子司・光國作右ェ門が苦心研究の結果、改良して明治13(1880)年に売出しました。
 それを2代目・光國貞太郎が明治23(1890)年に「内閣々益大博覧会」へ出品して、一等金牌を受領。
 更に光國貞太郎は、実弟福五郎と共同して「萩乃薫」(はぎのかおり)と改名して、商標を登録しました。

 また、大正5(1916)年には3代目・光國義太郎が「夏蜜柑丸漬」(なつみかんまるづけ)を創製。
 「夏蜜柑丸漬」は、夏みかんの中身をくり抜き、皮をあく抜きして糖蜜で煮込んだら、中に白羊羹を流し込んで、グラニュー糖をまぶしたものです。
 
 夏みかんは一つ一つ大きさや形、皮の厚さなどが異なるため、「夏蜜柑丸漬」は職人さんの全て熟練の技によって手作りされていて、完成には5日間要します。
 そしてみかんの皮を漬けている蜜は、大正5(1916)年から継ぎ足して使っているうちに、エキスが混ざって独特の旨味を生み出したものです。
 夏みかんの皮に含まれる風味とほろ苦さはそのままに、その上品な甘さで全国にファンを持つ逸品です。
他に、夏みかんマーマレード缶詰があります。
 
 光國本店 山口県萩市熊谷町41

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/YamaguchiHagi/Craft%26sweets より

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<異名-人物> 世界の修復者

2023-12-19 07:04:44 | 異名

 「世界の修復者 ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス」

 (214〜275)ローマ

 ローマ皇帝。三つに分裂していたローマを統一した皇帝でゼノビアを破るなど反乱を鎮圧した。

*https://www.chickennoneta.com/entry/%E7%95%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E8%8B%B1%E9%9B%84#%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E8%80%85%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9 より

 ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(ラテン語: Lucius Domitius Aurelianus, 214年9月9日 - 275年9月または10月)は、軍人皇帝時代のローマ皇帝(在位270年 - 275年)である。当時3つに分裂していたローマ帝国を統一した。

*Wikipedia より

 「世界の修復者」

 シュリアやパレスチナなどのローマの東方属州を支配するパルミラ帝国は、アウレリアヌスをローマ帝国全体の皇帝として認めていたものの、国王であるウァバッラトゥス(ゼノビアの息子)もまた「皇帝(アウグストゥス)」を自称していた。アウレリアヌスはパルミラへ降伏を呼びかけたものの、抗戦の姿勢を示したことから、272年にアウレリアヌスは軍を率いてパルミラ領へ入った。

 ビザンティウムとティアラで抵抗があったものの、これを下し降伏後に寛大な処置を取ったことから、多くの都市が無血で開城した。パルミラ軍とはアンティオキアおよびエメサ近郊での2度の戦闘にいずれも勝利を収めた(ウァバッラトゥスはこの際に戦死したともされる)。ゼノビアはパルミラ市へ籠城して、ローマ軍の兵站切れを狙ったものの、エジプトを制圧したプロブス軍がパルミラへ来援して補給路を確立させたことから、不利を察したゼノビアはペルシア(サーサーン朝)への逃亡を図ったが、ユーフラテス河畔でゼノビアを捕虜とした。こうしてパルミラ王国を崩壊に追い込み、東方属州の回復に成功した。また、パルミラ王国の崩壊後にエジプトで皇帝を僭称し、ゼノビアの盟友を自称したフィルムスを破った。

 パルミラで勝利を収めたアウレリアヌスは東方をプロブスに委ね、西方属州に割拠していたガリア帝国に目を向けた。274年、ガリア皇帝テトリクス1世は帝位を返上してガリア帝国をローマへ復帰させることを望んでいたため、アウレリアヌスと示し合わせた上で、シャロン=アン=シャンパーニュで対陣した後にローマへ降伏した。こうして西方属州もローマ帝国へ復帰することとなった。

 アウレリアヌスは三分されていた帝国を再統一することに成功、274年ローマに於いて凱旋式を挙行、この際に征服した各民族と共にゼノビアを連行したことで話題を集めた。また、これら一連の功績により元老院から「"Restitutor Orbis" /レスティトゥトル・オルビス(世界の修復者)」の称号を得た。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 掻式

2023-12-19 07:01:03 | 料理用語

 「掻式-かいしき」

 松竹梅を形どった料理、三掻式のこと。

 おめでたい席で使う。

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/5_F/02.html より

 

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<伝統野菜> 徳島 阿波晩生大根

2023-12-19 06:53:58 | 伝統野菜

 「阿波晩生大根」

 【生産地】吉野川下流域の平野部

 【特徴】やや細身で、長さは50cmほど。表面は純白色で美しい外観。

 【食味】歯切れよく、甘みに富んでいて、表面は純白色

 【料理】沢庵(たくあん)用

 【来歴】大正から昭和初期にかけて、全国一の生産量を誇った徳島県の沢庵(たくあん)は、「阿波沢庵」と呼ばれていた。「阿波晩生」は、昭和の初めに徳島県の農業試験場で、「宮重長太」と「堀江尻細」の交配固定種を選抜し、昭和7年から種子を一般配布して栽培が始まった。当時は、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受け、地方品種として広く知られていた。しかし、昭和25年に大根のウイルス病が発生し、阿波晩生に大きな被害が出たため、病気に強い品種として「阿波新晩生(あわしんばんせい)」を育成したものの、徳島県の沢庵の生産は減少の一途をたどっており、明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしている。県内の一部の漬物メーカーがなんとか地元の味を守り生産している状況。今後も「阿波晩生」を漬けた沢庵を残していきたいものである。

 【時期】12月中旬

*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%ef%bc%8d36-%e5%be%b3%e5%b3%b6%e7%9c%8c/#i-7 より

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<慣用句・諺> 精も根も尽き果てる など

2023-12-19 06:31:21 | 慣用句・諺

 「精も根も尽き果てる」

 精力も根気もすっかり使い果たす。物事をする気力がすっかりなくなる。精根 (せいこん) 尽き果てる。

 

 「声涙倶に下る-せいるいともにくだる」

 《「晋書」王彬伝から》憤り嘆いて、涙を流しながら話すさま。

 

 「精を入れる」

 心身の力を込める。精力を注ぐ。念入りにする。

 

 「生を享ける-せいをうける」

 生まれる。天から命をさずかる。

 

 「姓を冒す」

 《「史記」衛青伝から》他家の姓を名のる。他家を継ぐ。

 

*goo辞書 より

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<難読漢字-魚へん> 鯣

2023-12-19 06:22:21 | 難読漢字

 「鯣 するめ」

 スルメ(鯣)は、イカの内臓を取り除いて素干しや機械乾燥などで乾燥させた加工食品。乾物の一種。古くから日本、朝鮮半島、中国南部および東南アジアにおいて用いられている食品で長期保存に向いている。日本では縁起物とされ結納品などにも用いられ寿留女と表記される。俗語としてアタリメとも言う。

*Wikipedia より

 文化としてのスルメ
 日本においては古くからイカを食用としており、保存ができる乾物加工品としてのスルメも古い歴史がある。古典的な儀式や儀礼の場では縁起物として扱われ、結納の際に相手方に納める品としても代表的なものである。結納品の場合には寿留女の当て字を用い、同じく結納品である昆布(子生婦)とともに、女性の健康や子だくさんを願う象徴となっている。また大相撲の土俵の中央には15センチメートル四方の穴があり、スルメや勝栗が神への鎮め物として埋められている。

 縁起物であるとする理由は諸説有るが、日持ちの良い食品であることから末永く幸せが続くという意味とする説、室町時代の頃からお金を「お足」といい、足の多いスルメは縁起が良いとする説などがある。

 戦場では食のタブーとされており、上泉信綱伝『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた書)巻六「士鑑・軍役」の項目に、「怪我の際、血が止まらなくなるため、イカ・スルメ・カニ・トビウオは、軍中では禁食」と記されている。似た俗信として、群馬県では、スルメが不消化のためか、「スルメを食べると、血がさわぐため、妊婦に食べさせると流産する」として、食べさせない。同様に、イカを食すと流産する・血がさわぐとした系統の俗信は、長野県や新潟県にも見られ、富山県や広島県では、「産後に食すな」とする。一方で、愛知県では、「病気になった時は、スルメの目を焼いて食すと良い」とする(同前 59頁。)。

 また、江戸時代中期頃から、スルメの「スル」という部分が「金をする(使い果たす)」という語感を持つため、縁起をかついで言い換えた「アタリメ」という言葉が用いられるようになった。

*Wikipedia より

 スルメといえば現在では基本的にイカの乾燥させたものを指すが、墨を吐く群を「墨群(すみむれ)」と呼んでいたところから転訛したという説があり、かつては乾燥させたタコもスルメと呼ばれていた。平安時代に編纂された辞書『和名類聚抄』には「小蛸魚 知比佐岐太古 一云須流米」(ちひさきたこ するめともいふ)とある。

*Wikipedia より

 するめの語源・由来
 するめは、スルメイカを干して乾燥させたところから付いた名。
 ただし、ケンサキイカを使ったするめが最高級品とされているため、スルメイカを使ったするめは「二番するめ」、ケンサキイカを使ったするめが「一番するめ」と呼ばれる(ヤリイカを「一番するめ」と呼ぶこともある)。
 その他、シリヤケイカなどコウイカを使ったものは「甲付するめ」。
 外套(胴)を開かずに乾燥させる、アオリイカは「袋するめ」や「おたふくするめ」と呼ばれる。

 するめは日持ちが良いため、「幸せが続く」という意味から。また、イカの足は本数が多く、「お金」は「お足」とも言うため、古くから縁起の良い食品として扱われ、結納など祝儀に用いられた。
 するめを結納品に用いる際は、「寿留女」と当て字表記される。
 「寿」は「長寿」「幸福」、「留」は「嫁ぎ先に留まる」、「女」は「良妻であるように」と、それぞれの漢字に意味が込められている。

*https://gogen-yurai.jp/surume/ より

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<国産ワイナリー> 奥出雲葡萄園

2023-12-19 06:12:15 | 国産ワイナリー

 「(有)奥出雲葡萄園/奥出雲葡萄園」

 

 (有)奥出雲葡萄園/奥出雲葡萄園 島根県雲南市木次町寺領2273-1

*https://www.winery.or.jp/winery-map/7097/ より

 きれいな水と澄んだ空気
 そのままの自然がのこるまち

 出雲神話と共に歩んできた土地、雲南。
 わたしたち日本人が忘れかけた自然や人とのつながりが残るこの小さなまちでわたしたちのワインはつくられています。

 この土地の自然に向き合い
 生態系を崩さない葡萄づくり

 自然と共生し、地域と共存していく。奥出雲葡萄園のワイン造りのポリシーである symbiosis(共生)が詰まっているワイン。
 そんな想いはワインラベルにも表現されています。

 おいしい葡萄のために
 すこしのお手伝い

 山間にある奥出雲葡萄園では、春先のまだ寒い時期、葡萄の芽が凍ってしまうことがある。それを防ぐ為に、夜中2時から火を焚いて葡萄の木を温めてあげる。葡萄の味は葡萄にしか決められない。人ができるわずかなことを一生懸命、丁寧に。

 丁寧に
 まじめに

 年間生産量約5万本。小さなワイナリーだからできる1本1本丁寧に妥協しないワインへのこだわり。
 ラベル貼りも手作業で想いのこもった商品をお届けしています。

 収穫を共にし
 つくる喜びを分かち合う

 生産者だけでなく、愛飲者や地域のみんなで収穫するイベントを毎年開催している。ここにも奥出雲葡萄園の「共生」の想いが込められている。

 商品リスト

杜のワイン 赤

山葡萄交配品種のブラックペガール、欧州系赤品種と山葡萄系赤品種をブレンド。やわらかな渋みと特有の酸味、山葡萄らしい野趣に富んだ味わいのワインです。
ライト〜ミディアムボディの辛口赤ワインです。

シャルドネ

樽での熟成期間7ヶ月。柑橘類やハーブの香りと、樽熟成からくる樽由来の香りが楽しめます。心地よい酸とほのかな渋みもバランスよく調和した辛口白ワイン。冷やしめの温度から香りの変化もお楽しみください。

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<大阪-観光> 杭全神社

2023-12-19 06:07:10 | 観光

 「杭全神社」

 杭全神社(くまたじんじゃ)は元は熊野権現社 熊野三所権現 大阪市平野区平野宮町にある神社。旧社格は府社。坂上氏の氏神、平野郷町の氏神として崇敬を受けている。夏祭り(平野だんじり祭)が毎年7月11 - 14日に行われ、付近の国道25号の走行が規制される。

*Wikipedia より

 基本情報
 貞観4年(862)、平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の孫・当道(とうどう)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)を勧請して第一殿に平野郷の氏神として祀り、創建したと伝えられている古社です。鎌倉時代初めの建久元年(1190)には、熊野三所権現を勧請して第二殿に祀り、さらに後醍醐天皇の勅命で伊弉册尊(いざなみのみこと)速玉男尊(はやたまのをのみこと)事解男尊(ことさかのをのみこと)を第三殿に祀りました。3社殿とも、国の重要文化財です。日本で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていましたが1987年に復活し、定期的に平野法楽連歌会が催されています。境内には、樹齢800年とも1000年とも言われる大クスノキ(府の天然記念物)のほか、樹齢約500年の「垂乳根(たらちね)の銀杏(いちょう)」の巨樹があります。この巨樹に願いをかけると、母乳の出がよくなったり、乳房の病が治ると伝えられています。毎年4月13日の五穀豊穣、金運を祈願する「御田植神事」(国の無形民俗文化財)では、神から授かった「福の種」を田に見立てた拝殿で蒔く行事が行われています。

*https://osaka-info.jp/spot/kumatajinja/ より

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