「播州毛鉤」
Description / 特徴・産地
播州毛鉤とは?
播州毛鉤(ばんしゅうけばり)は、兵庫県西脇市周辺で作られている釣りに使用される擬餌鉤(ぎじばり)です。
播州毛鉤の特徴は、1cmほどの小さな鉤(かぎ)に鳥の羽が絹糸で巻かれ、金箔や漆(うるし)などの装飾によって、本物の水中昆虫であるかのごとく、水中を泳ぐ魚を欺くことができるほどの精巧な作りです。
播州毛鉤は、とくに「ドブ釣り」と呼ばれる鮎の釣り方には欠かせない擬餌鉤となっており、釣り師たちは、季節や天候・時刻によっても様々な種類の毛鉤を使い分けています。魚の種類や水深・水質などの自然環境に合わせて製作され、その種類は500種以上にのぼると言われています。
History / 歴史
現在の毛鉤(けばり)の元祖ともいえる製品は、1678年(延宝6年)に発行された文献「京雀跡追(きょうすずめあとおい)」の中で発見されており、「伊右衛門(いえもん)」という名の毛鉤師(けばりし)が存在したことも明らかとなっています。さらに、江戸時代初期にあたる1685年(貞享2年)当時の地誌・観光案内書「京羽二重(きょうはぶたえ)」では、「釣蠅(はえ)頭」との記述があり、伊右衛門が毛鉤を商品として製作していたことがうかがえます。
元禄年間から、鮎の毛鉤釣りが盛んであった京都より、播州(現在の兵庫県)にも江戸時代末期の天保年間に製作技法が伝えられ、当時は農家の副業とされていました。明治時代の中期までには、優れた釣りの成果が得られるほどの毛鉤の製作技術が考案され、播州毛鉤(ばんしゅうけばり)の品質の良さは、水産博などでの度重なる受賞を契機として、世の釣り師の間でも知られるところとなりました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/banshukebari/ より
繊細さの極み・播州毛鉤
毛鉤は、水生昆虫を模した擬餌針の一種であり鮎釣りに用いられる。しかしその繊細な美しさは釣りのためばかりでなく、人間自身の美の追求の結果ではないだろうか。播州の毛鉤職人に伺ってみた。
作業にも材料にもこだわりが大事
「体調の悪い時には作らない」とはこの道40年の竹中さん。体調の悪い時にはいい毛鉤は作れないのである。わずか1センチ足らずの釣り鉤に、数種類の鳥の羽を絹糸で巻きつけていくのに集中力は不可欠だ。同時に竹中さんが、それほどこの仕事を大事にしておられるのがわかる。工程の最初の段階で鉤に金箔を張り付けるが、これはあとで羽根を巻いた隙間から見えることを想定している。またなぜ1本の羽枝を、表側を表面にして巻くのか。それは羽枝の表面に細かい毛が密集しており、こちらを表面にして胴にまいていくと、きれいにケバ立っていくからである。「ツノ付け(尻の尾に見せるためにつける)のときは、羽が黄色いキリスズメだけをつかうことになっている。しかしこの鳥は保護鳥になっていて確保が難しい。」と竹中さん。雉の羽も使うが、雄だけで雌の羽は使わない。高麗雉も入ってくるが、光沢が違う。なぜ作業にも材料にもこだわるのか。例えば普通の人には鉤の「茶熊」と「清水」は見かけは変わらないが、水の中に入ったら変わるのである。外と水の中では形が違うのである。どう変わっていくのか想像して作っていかないと釣れる鉤は作れないことになる。
なぜ500種類もの針が
毛鉤の種類は500以上あるが、なぜそんなに多いのだろうか。それはいろいろな自然環境・条件に合う毛鉤が求められたからだ。季節・天候・時刻・水質・水色・水深などに適応する毛鉤が必要だった。例えば、曇りや雨の日や深いところで釣る場合は明るい、赤っぽい毛鉤がよく釣れるからである。魚と人間の知恵比べの歴史ともいえる。今実際は200種類位が使われている。「これまで150種類は作ったが、500種類の見本を作るのが目標だ」と竹中さん。今使われている当たり針(コンスタントに釣れる)は10種類位。「青ライオン」「八ッ橋」「清水」「茶熊」「赤熊」などがそうだが、毎年2~3種類ずつ変わっていっている。竹中さんはいつも、釣れる鉤つくりを目指してデータ分析を怠らない。毎年お盆の終わり頃まで集計し、どの針が売れているのか、売れていないのかを分析し、売れ筋を検討する。また釣り人からの個人注文や情報も非常に重要である。これらを総合して次年度の生産計画を立てるのである。そして翌年の解禁までに作り上げる。ニーズの変化に対応して新作にも挑戦しているが、今年の新作は企業秘密とのこと。
毛鉤の魅力にとりつかれた人が徐々に増えている
河川の汚染により鮎が減り、また不況の影響で毛鉤の売上が減ってきていた。しかし最近毛鉤を使う人が増えてきている。鮎の習性が変わって友つりでは釣れなくなってきたらしい。また2~3年前より鮎がよく釣れる川も増えている。しかしなによりも毛鉤を使ってのドブ釣りの楽しさのとりこになる釣り人が増えてきている。繊細で華麗な毛鉤を使って、鮎との知恵比べを楽しむファンが増えてきているのだ。そして毛鉤そのものの美しさに引かれる釣り人も増えてきている。釣り人のなかには派手な糸を使うよう要望する方もおられるが、竹中さんは釣り人の購買意欲を上げれるのならと新作品にも取り組んでいる。だんだん虫に似せるのが難しくなっていきますねとたずねると「鮎毛鉤は擬餌針には違いありませんが、虫には似ていないんです」とびっくりする返事が返ってきた。作り手側の、美しい毛鉤を作ろうという意識が毛鉤を作らせ、必ずしも虫に似せることにこだわっていないのである。まるで鮎が毛鉤の品評をできると想定して挑戦しつづけるかのようである。これからも時代に合った毛鉤を探し、作り続けて行くに違いない。こうして制作された毛鉤を見ると、単なる毛鉤というより、まさに人間の美に対する追求の極みとでもいえるのではないだろうか。
職人プロフィール
竹中健一 (たけなかけんいち)
伝統工芸士。
この道40年。自信と謙虚さがにじみでています
こぼれ話
播州毛鉤の歴史
芸術品といえるほどまで昇華してきた播州毛鉤。ルーツはどこなのでしょうか。その歴史をふりかえってみます。
京都で発展した毛鉤がどうして播州・西脇で生産されるようになったのでしょうか。この地は江戸時代天保年間(1830~1844年)頃、京都と山陰道・京都山陽道を結ぶ京街道の通る交通の要所(京都~亀岡~篠山~西脇~加古川~高砂~四国)でした。それだけに京都との交流が密接で、毛鉤の発祥地である京都からの技術・技法が伝えられてきたのです。一つには地元行商人が伝えた説があります。一方当地から京都へ数多くの人が奉公に出向き、そこで毛鉤の製法を習い、西脇へ帰ってきて生産量を増やしたともいわれています。そうして、農業の閑散期を利用して、盛んに生産されるようになったのです。この時代は現在のように高度な製品は作られていなかったのですが、明治の終わりから大正にかけて技術の向上がめざましく生産が増大しました。昭和20年以降、毛鉤が最もよく売れた時代は昭和22年~30年頃でした。そして35年から少しずつ下降線をたどっています。最近では昭和50年代と比べると60%にとどまっています。いくつかの原因があげられますが、まずは自然環境が悪くなっていることです。次に河川の上流にダムが出来て水が流れてこないこと。河川が整備されて魚(あゆ)が生殖する環境にないこと。つまり魚が生きられる環境でなかったということです。現在の年間生産額は2.5億円、全国の95%以上を占めています。最近は環境の見直しもされ、少しずつ魚(あゆ)が戻ってきた川もでてきました。毛鉤に対する関心も高くなってきており、今後再び需要の増加が見込めつつあります。
*https://kougeihin.jp/craft/1414/ より
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