〈リバイバル・アーカイブス〉2023.5.8~5.22
原本:2018年4月11日
〈画面をクリックしていただくと拡大します〉
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2018.3.30. 13:19 東除川暗渠のねじりまんぼ
高野鉄道(現南海電気鉄道)により、明治31年(1898)4月2日狭山~長野駅間開業。この時代は鉄筋コンクリートの工法がまだ確立していなかったので、この時代の堅固な構造物は煉瓦造りが多い。ねじりまんぼはアーチの煉瓦が螺旋状に積まれたトンネルで全国でも20数か所しか残っていない貴重なものです。
積み方はイギリス積み。
13:32 狭山池北堤の越乃彼岸桜 桜並木
ことしはもうピークを過ぎてしまいました。
今年のピークは早く 3月23日頃でした。
〈今年の狭山池の桜〉 狭山池の越乃彼岸桜 2018 2018.3.21.
13:40 快晴 いちばんいい季節ですね。
13:46 狭山池博物館と二上山
毎年4月13日~17日、8月26日~30日の年2回、ここから二上山の日の出が見られます。
二上山からの日の出-狭山池 2017 2017.4.28.
ついでに、二年前にやって来たあひるちゃんもみてください。
がんばれ!あひるちゃん-狭山池 2016.5.6.
13:46 満開のさくらが残っていました
14:07 狭山池博物館のオブジェ 1
いろんな作品が展示されていました。まるで美術館みたいですね。
14:09 狭山池博物館のオブジェ 2
14:09 狭山池博物館のオブジェ 3
15:24狭山池博物館を見学してから、いよいよ残り6つある煉瓦暗渠に向かいます。
まずは、車が通れる一番大きな煉瓦暗渠 5号暗渠(狭山里道架道橋)
高さ6.1m、府道203号 富田林~狭山線が通ります。
積み方はイギリス積み。受け石を伴う欠円アーチを採用し空間を確保しています。
最大の大阪狭山市~狭山駅間の7つある煉瓦暗渠のなかで最大のアーチ構造物なのでアーチ端部の巻き煉瓦は5枚重ねと厚い!
この当時、地車などの高さのあるものが通れるように工夫されたようです。
東側は昭和12年、複線工事に伴い拡幅した鉄筋コンクリート製の追加部分。
15:30 6号暗渠に向かう途中で発見
田んぼに、つくしがいっぱい!
15:30 その田んぼの向こうには、線路脇に桜が満開
ここの桜は染井吉野です。
15:31 井路にも桜がいっぱい!
15:33 程なく、6号暗渠に到着。(第43拱渠(こうきょ)) 端巻き煉瓦は4枚
水路と歩道専用 車は通れません。背の高い人はかがんで通ります。 イギリス積み
15:42 さらに地図の通り進んで4号暗渠(第42号拱渠)
高さ1.5m一番小さい水路用暗渠ですが、しっかりと作られています。東側は他の暗渠と同じく鉄筋コンクリートで拡幅。西側は私有地にため近くまでは行けません。
15:44 3号暗渠(狭山里道暗渠)
半円アーチの2番目に大きい暗渠です。車も通過します。
桜の季節、カメラマンが写真を撮っていました。
16:00 2号暗渠(第41号拱渠)
受け石を置いて、欠円アーチで作られています。受け石は花崗岩を台形状に水平面と角度持たせた高度の技術で加工されています。
同じように見える煉瓦暗渠ですが、それぞれ暗渠はその場所に最適な設計をされているようです。
というのは、トンネルの径間(中心の高さ)は7つのトンネルですべて異なっており、さらにねじりまんぼ(斜拱渠)あり、半円アーチ・欠円アーチあり、端巻き煉瓦の巻き数の違いなどが見られるからです。
共通点もあります。積み方はすべてイギリス積みで積まれていて、当時のイギリスの技師かその教えを受けて技術を習得した日本人技師が担当したものと思われます。
トンネルの設計には一貫性があり、同じ技師か同じグループで設計・施工しているようですが、トンネルはそれぞれの場所にに最適な選択をしているようです。
郷土の誇れる文化遺産なので、毎日南海電車でここの上を通り通勤している私としては、ぜひ後世に残し市民の皆様にその存在をアピールしてもらえたらなと思います。
比較すると、同じ時期(明治31年(1898)3月)に河陽鉄道(現近鉄)が柏原~古市間を開通させていますが、私が調査した限り、柏原駅寄りの2つの溝橋だけがフランス積みで、それ以外は後に河南鉄道が長野まで伸延した線路まで含めてもすべてイギリス積みになっているのとは異なります。
近鉄電車の煉瓦構造物 2016.6.30.
16:17 1号暗渠(第40号拱渠)
トンネル道はもともと狭山池からの子池の太満(たいま)池に至る幹線井路(人工の水路)が通っており、現在暗渠になっています。
トンネルの真ん中は2.44m(8フィート)ありますが、半円アーチ型のため、トンネルの縁(へり)は低くなっており、うっかり歩くと頭をぶつけてしまいます。
もともと煉瓦暗渠のある地域は狭山池ができる前の河川の氾濫原があったエリアで、崖の上の東西河岸段丘面より低いエリアになります。
狭山駅や大阪狭山市駅は高い河岸段丘面に乗っかっていますが、駅間は低く線路が水没する可能性があるため土塁を築いて線路を通すことになりました。ただ、以前よりそこにあった里道や井路は分断されると困るので、地元の人たちは当時の高野鉄道に意見書を出し、トンネルという形で問題を解決することができました。120年前の出来事ですが、みごとな解決方法ですね。
しかも、当時は前述の河陽鉄道と先を争って長野駅、ひいては三日市、橋本、高野山までの伸延を計画していたのも関わらず、計画的で丁寧な最新の土木工事で、120年を経ても現役の見事な煉瓦構築物を完成させた技術の高さは特筆すべきことであり、称賛に価します。
明治中期の最新の技術で完成させた代表的な煉瓦構造物が今後も脚光を浴びながら存続することを期待します。
16:25 幹の太い老木の並木に南海電車が映えます。
この時期多くのカメラマンに出会いました。散策にはちょうどよい季節でした。
写真撮影:2018年3月30日
2018年4月11日 HN:アブラコウモリ
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