〈リバイバル・アーカイブス〉2021.6.14.~7.04.
原本:2015年6月26日
剣先船は直接大都市 大坂まで行き来し、多くの物資を運びました。しかしながら、通年運航していたわけではありません。田植えのころから、稲刈りの前まで、田んぼに水が必要な時期は、蛇籠で井堰が川筋をふさぎますので、船が通れません。よって、春の彼岸から秋の彼岸までは、剣先船はお休みであったようです。
剣先船は縦に細長く、船底が平らですので、石川筋をどんどんさかのぼって行きました。
上りは水をだきますので、たくさん積めますが、下るときは 底がつかえやすく少ししか積めなかったようです。
江戸時代は、現在よりも田畑や緑が多く、上流にダムもありませんから、通常時に流れる水量が多く、剣先船は喜志村 川面浜まで航行していました。水量が少なくなると綱で引いたりもし、川ざらえもしました。
そして、一部の剣先船は富田林村まで航行していたようです。天保十三年(1842)石川筋支配の堺奉行が4艘の剣先船の富田林村への航行を許可しています。
明治31年(1898)以降 柏原~富田林駅間を走ったとおもわれる蒸気機関車河陽鉄道→河南鉄道時代(現近鉄)
近鉄 長野線の歴史は、ここを クリックしてください。
長い歴史を持った剣先船も明治になって陸上の交通機関が発達するにつれて、しだいに航行されなくなってきました。そして明治15年ころには自然に廃絶してしまいました。代って、 陸路とその後、鉄道に代られることになります。
富田林駅における貨車の積み出し風景
富田林名産の河内一寸空豆の種を出荷しています。時代は昭和の初め頃か。(大鉄時代、現近鉄) 現在の 富田林駅での折り返し退避線に種子倉庫があり、そこから積み出していました。
粟ケ池
喜志村の南端にある大きなため池です。広さは6.6ヘクタール。南北約400m。東西約150m。日本書紀の仁徳天皇の条の、和邇(わに)池に比定されているくらい古くからあるため池です。
考古学的には、
①「中野北遺跡」において、池の東側を南北にある溝から奈良時代の土器が出土していること。
② 粟ケ池の灌漑に起因する正方位条理地割が8世紀中頃と考えられること。
③ 流入する河川がなく、この池の用水は池の西側の比高の高いところを流れる人工水路の深溝(ふこうど)井路のみに頼っていること。
→流入する河川がない理由は、粟ケ池の上流部の中野地区には、この中位段丘面を横切る東西に浅い谷があり、上流の自然水および井路はこの谷に沿って東のほうにに流れるため。
④ 粟ケ池が溜池として存在し得る要因の深溝井路は上流部の谷川遺跡で奈良時代の遺構が見つかっていること。
などから考え合わせて、粟ケ池は奈良時代に成立していたと考えられます。
粟ケ池の灌漑エリア、喜志の美田
不思議なのは、流入する井路は1本なのに、出て行く樋門は7か所もあることです。しかも、自然に流入する河川は、一つもありません。
このことは、何を意味しているのでしょうか。
(地図をクリックしますと、拡大します。)
ごらんのように、粟ケ池の下流部を取り囲むように喜志七郷(現在)が存在します。そして、江戸時代、川面地区のように農業と水運という二本柱の地区は例外的で、ほとんどは農業に依存しています。
このことから、共有している粟ケ池の灌漑用水としての重要性がわかります。
(地図をクリックしますと、拡大します。)
5月27日 中央公民館市民講座 「富田林百景+(プラス)」のメンバーは、喜志五郷(現在七郷)の内、東部の桜井・川面・大深(おうけ)・木戸山地区を巡りました。
井路(人工の灌漑水路)に注目してください。
石川上流部7.3kmの荒前井堰と4.8kmの深溝井堰からの水が粟ケ池にいったんプールされ、宮・平地区を除く北部・東部の各地区に流れるように井路が作られていることがわかります。
(図面をクリックしますと、拡大します。)
粟ケ池共園(粟ケ池の堤防の東端にある公園)にある案内板の水路図(部分)
写真入りで非常にわかり易く灌漑水路網を説明されています。井路(水路)を通して、喜志の各村の田んぼに灌漑用水がくまなく配られていることがよく解ります。
宮地区は粟ケ池からでなく深溝井路とその延長の井路から、平地区は、辰池・喜志新池方面から、喜志新家地区は粟ケ池と辰池・喜志新池の両方の井路から水を取り込んでいます。
式内社 美具久留御魂(みぐくるみたま)神社 地元の方は、喜志の宮さんと親しみを込めて、そう呼んでいます。
粟ケ池や井路で結びついた喜志七郷および毛人谷(えびたに)、富田林、新堂、中野、そして羽曳野市 尺度の産土神として、粟ケ池の西500mに鎮座します。
歴史は古く、社伝によれば紀元前88年、崇神天皇の用命で創建されたと言われる由緒ある神社。水との関係が深く、江戸時代は「水分宮(みくまりぐう)」と呼ばれていたようです。粟ケ池、深溝井路、だんじり祭などと溶け込んで、一体感があります。泉州・南河内では最も遅い10月第3週の日曜日のだんじり祭りでは、各町十数台の石川型だんじりが神前で「仁輪加(にわか芝居)」を、奉納します。
日の出前から参拝に来られる方が、多くおられます。「太陽の道」近くに位置し、二上山、粟が池、喜志の宮さんが一直線にならんでいます。4月6日と9月6日の年2回、二上山の中央から、喜志の宮さんの鳥居越しに、昇り太陽が見られます。
「太陽の道」については、ここをクリックしてください。
川面地区のだんじり提灯
各地区 だんじりを所持。喜志村としては7台もあります。江戸時代は五郷でしたが、庄屋さんも各地区ひとり、よって喜志村としては5人も庄屋さんがいました。
秋のだんじり祭りには、喜志七郷を始め、近在の村々だんじりが十数台宮入りします。すべて、深溝井路にかかわる村です。
粟ケ池のコシアキトンボ
やはり、水は命の糧であります。江戸時代になって、戦がない、平和な世の中になったこと。そして、農業の生産性が向上したこと。それに伴い、水や肥料はさらに必要になったこと。
水不足になると、水争いが頻繁に起こるようになってきました。各村ではため池や井堰を増やし、用水の確保をしましたが、水争いも頻繁に起こるようになりました。
肥沃な喜志の田んぼ
喜志村の場合は利益を同じくする7つの地区が、深溝井路と粟ケ池の水利をめぐり仲良く結びつき、江戸時代2000石を超える大きなひとつの村として成長しました。これを、惣村(そうそん)といいます。
かつてはあちこちで栽培されてました、喜志名産の河内一寸空豆 残念ながら、現在はほとんど栽培されていません。
各地区にそれぞれ庄屋さんはいましたが、いろんなことを決めるにあたっても、約束事をつくり、合議制で決めていたようです。
喜志 川面浜
互いに各地区の利益をまもるため、その絆を深くしていって、結びつき、惣としてまとまったわけです。それが喜志村であり、その一つ一つの地区を「郷」と呼んでいます。
雨の日の粟ケ池 向こうは金剛山
「絆」で「結」べば、「惣」となる。
関連記事:
喜志 川面浜の剣先船 1 2015.6.24.
喜志 川面浜の剣先船 2 2015.6.25.
参考文献:「富田林市史 第2巻 」 富田林市役所 H10.2.(1998)
「郷土史の研究 」 南河内郡東部教育会 T15.6.(1926)
「郷土のすがた 喜志 」 富田林市立喜志小学校 S48.2.(1973)
2015.6月25日 (HN:アブラコウモリH)
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