〈リバイバル・アーカイブス〉2024.10.7~10.21
原本:2023年11月6日
2023年10月22日 12:39 富田林市宮町三丁目2053 美具久留御魂(みぐくるみたま)神社(喜志の宮)。
古くから存在している式内社で、下水分社とも呼ばれています。今日は秋祭り 地車の宮入りの日。大阪府で一番遅い地車宮入りのひとつです。
*式内社:すでに延喜年間(平安中期)に朝廷から官社として認識されていた神社。延喜式神名帳に記載された神社のこと。
12:45 木戸山町 拝殿向かってご挨拶をする木戸山町のみなさん
木戸山町の宮入りからみることができました。
会社勤めのため、終わってから見に行きました。宮入順は、毛人谷→寺内町→宮→桜井→川面→喜志→木戸山→喜志新家→平→尺度→中野→新堂→若一の順。10時20分ころから宮入りが始まっており、最初の6町会は見逃したことになります。
独特の節回しで代表者(青年団団長が多い)が口上を申し上げます。
聞き手の団員は要所要所で「よー」と掛け声を掛けます。
木戸山町は喜志七郷の中でも一番北東にある地区で、羽曳野市と市域を分けています。地区人口は710人(2020年調査)
町の中心の融通念仏宗 極楽寺の入口に木造の役行者坐像があります。後で演じる俄芝居もこのテーマでした。
代表者の口上のあと、地車の舞台で俄(にわか)を奉納するのが慣わしです。
コミカルな寸劇(にわか、俄、仁輪加)を基本3人で奉納するのが南河内の地車の特徴です。最後に「落ち」を付けるのですが、しゃもじや大根など日常にある物を使い、語呂合わせで「落とす」のがカッコよさです。
そのため石川型の地車には舞台があり、役者が出入りするので化粧幕になっています。(実際は横から出入りすることが多い)
背後の大鳥居と二上山が映えます。
河内俄は数分から10分程度です。そのあとは「あばれ」。
木戸山の地車は「地車名鑑」HPによると、平成22年(2010)新調。なお、屋形・彫物に大阪市城東区鴫野東之町の地車大改修に伴い譲渡されたものを使用、それは文化文政期の製作と推測される年代物といいます。
次は喜志新家。地区人口は342人。
ここも喜志七郷のひとつ。
喜志七郷とは明治以降、木戸山、大深(喜志)、平、喜志新家、川面、桜井、宮を言い、なんと各町に地車があり、喜志全体で7台も地車あります。
江戸時代は木戸山と喜志新家がまだ分村していず、喜志五郷と呼ばれ、二千石近い一つの大きな村「喜志」でした。庄屋が5人もいました。
口上・俄の時にメンバーが取り囲みます。
喜志の宮に宮入りする地区のほとんどは役者に化粧を施し、時代物はその時代の着物を着て芝居をします。法被のまま俄をする神社が多い中、おそらく最も見ごたえのある俄のひとつではないかと思います。
差し上げ 俄が終わると「あばれ」ます。
新家の地車は令和元年(2019)新調地車。まだ木地が新しい。楠木正成を題材とした彫物が特徴です。
この注連縄の鳥居は地車の屋根ぎりぎりです。
平町 ていねいに御神霊にごあいさつ。
口上は各町のバリエーションがありますが、だいたい決まっています。
「東西東西~ 東西東西と鳴物をば打ち静めおきまして、
些か不弁舌なる口上を、先ず以って御断り申し上げます。(よ~)
(中略)
斯様御歓呼(かようごかんこ)をば、つけられまして、
悪しき所は袖袂、袖袂へと入らぬその時は、
胸のハートへと、お包みおき下さいまして、
ただ良いと良いとの御人気御評判あらんことを。(よ~)
吉野の桜じゃないけれど、一重二重はまだおろか、
七重の膝をば八重に折り、
今日九重の皆々様方に、伏して懇願奉る、
これもや当、美具久留御魂神社様への御献上、御献上!
東西東西 」
村の曳き手が取り囲み、口上を聴き入ります。
俄芝居によく出てくる役柄。村の世話役、渡世人、ちょっと間の抜けた村の若者。
なんか適役のみなさん。(あくまで役柄の上でのお話です。)
平町の地車は平成24年(2012)製作で岸和田 板谷工務店製です。喜志の宮地区の地車は近年新調ラッシュが続いています。地区人口は618人。
14:02 尺度 唯一の羽曳野市の地車です。
なぜ羽曳野市の地車が富田林市の喜志の宮に宮入りするかというと、尺度(旧西坂田村)の氏神 利雁(とかり)神社が明治40年頃の神社合祀令で富田林市の美具久留御魂神社に合祀されたからです。
現在は合祀されたまま、元の位置に利雁神社として祀られています。地区人口は454人。
もともと、富田林からの粟ケ池(深溝井路系)や辰池井路の水下にあたり、また巡礼街道で平町に結ばれていて富田林と関係が深かったということもあり、明治政府の合祀政策で喜志の宮に合祀されたのではないか思われます。東阪田や山中田もこの時に同じ運命をたどります。
だいこんで「落ち」を演じる。
最近大型の地車が多くなり、境内を回るのも気を使います。令和2年(2020)新調地車 岸和田 大下工務店製。
中野地区 口上
中野地区は東高野街道の喜志と富田林の間にあります。楠木正成の支城といわれる「中野城」は河岸段丘の東端にあり現在は岸本記念自然緑地公園になっています。5月下旬には300匹を越えるヒメボタルの舞が見られます。地区人口は947人(中野町西・東を含む)。
役者は曳き手の男性が演じます。時代劇の村の若い娘さんや若者、おばあちゃんはよく出てくる配役。
縦しゃくりで放り上げられると相当な高さになります。
俄が終わると「あばれ」なくちゃ。
中野の地車は平成22年(2010)新調の河合工務店製造の地車。大型で背の高い石川型の地車です。これで古くからある町中を道いっぱいに曳行します。地車庫のある中野町長壽会館には、力石、伊勢灯籠、地蔵があります。
宮入りが終わり境内から出ていく姿はなんとなく淋しさがありますね。
14:48 新堂地区宮入り
新堂の現在の町名は若松町。一丁目~五丁目で3664人。一丁目は別に「若一」として宮入りします。(914人)
二丁目~五丁目で2750人、ほか若松町西1261人、若松町東233人、計4244人の大所帯です。
口上は羽織袴の方もいれば、法被姿の方もいます。
この地区の俄は毎年法被のまま、ノーメイクで行ないます。役者は珍しく4人。
新堂は東高野街道沿いの大きな村で幕末の石高が1728石と富田林では喜志五郷についで大きな村でした。町中は新堂籠とよばれる竹細工や大工など職人さんも多く暮らしていました。
とても「あばれ」が長く、好きのようです。曳き手とレディース隊が多い新堂の地車です。
地車は平成12年(2000)に購入した地車です。
別に新堂の大工町は江戸期、多い時で数十人の大工さんがいた有数の大工町(新堂組)で、江戸後期から明治20年頃までは地車も作っていました。わかる範囲では、河南町 芹生谷、富田林市 下佐備、喜志地区 宮、喜志地区 桜井(?)、大阪狭山市 半田地区 前田、半田地区 東村が新堂組製作の石川型地車です。
後に大修理を経ている地車もありますが、すごくバランスのいい地車が多く、特に前田の地車は差し上げをしながら横しゃくりができます。瞬間一輪立ちができるバランスのよさ。(もちろん前田地区の曳き手の技術の高さもあります。)
若一の口上
若一は「若松町一丁目」の略。以前は旧村名の「富田(とんだ)」で宮入りしていました。
羽織・袴でよどみなく立派な口上。すごい!やる人はやるもんですね。大拍手!!
あらすじは忘れてしまいましたが、これもよくある「渡世人」「旅がらす」「村の娘」。
そして「渡世人」や「旅がらす」はこの村の出身の場合が多いです。
「落ち」の小道具、「相手をめしとる」かなんかの落ちやった。
「差し上げ」から前後に倒す「縦しゃくり」で前輪ウイリーから後輪ウイリーできる「縦しゃくり」はすごいです。
若一は富田林寺内町の北から入る手前にあります。富田林の名前の由来は古文書に残る開発時の「富田(とみた)の芝」からきており、この「富田(とみた)」はおそらくこの地「富田(とんだ)」を差しているのではないかと思われます。
「あばれ」好きの若一。砂ぼこりが舞います。
若一の地車は平成30年(2018)新調の地車。車板(小)に村出身の大楠公の家来「富田七郎、八郎兄弟」彫られています。また、桝合は「太平記」を題材にしています。
16:05 すべて地車の宮入りが終わった時点。多くの人出でにぎわいます。
16:14 鳥居の外の待機場所。まもなく順番に宮出していきます。
下拝殿
各地区からの奉納酒
16:08 宮司さんと各町の代表者が集まります。
このあと境内の中で御神輿を担ぎます。
16:15 境内を2、3周ぐるぐる回ります。
16:22 鳥居まで行って折り返します。
16:23 みごと担ぎ上げました。
16:34 喜志町退出
16:36 川面町退出
16:37 順番に参道の退出風景
16:38 桜井町退出
16:48 二上山を前に見てこれから粟ケ池の土手を進みます。
16:52 粟ケ池の土手を地車が帰る頃はすでに日が傾き、太陽を背に受けて稲刈り前の稲穂をゆっくりと地車が進みます。
地車の情報についてはHP[地車名鑑」を参考にさせていただきました。
*地車情報につきましての誤りがあれば、コメント欄にご連絡ください。
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