とんだばやし寺内町の北東の入口(一里山口)に、かつては一里塚がありました。これは江戸後期の古地図にも載っています。
そこから、ジャスト4km、東高野街道を南へいくと錦織東3丁目に左右一対の塚が今も残る「錦織一里塚」があります。
全豪OP準々決勝では惜しくも負けちゃったけど、テニスでは「錦織」が今話題を浴びています。
が、ここの「錦織」は全然話題を浴びていません。しかし、左右一対として残る一里塚は、大阪府ではなんとここだけです。
ここだけの話、普通は道路の拡張や市街化するにあたり、江戸時代の狭い道幅を拡げるために明治以降少なくとも片側、場合により全部じゃまものとして撤去されてしまうですが、ここは今も街のはずれにあり、さびしく残っています。
そして、富田林市の自慢はこれだけでなく、ここにある宝篋印塔(ほうきょういんとう)が実は、宝永六年(1709)建之の葉室組 理元さんの西国三十三度巡礼行者満願供養塔で、錦織村の田中源左衛門さんにより造られたものであることが銘のより確認できます。
現存する宝篋印塔形の西国三十三度巡礼行者満願供養塔の初見で、以後幕末までこの形の供養塔が歴史の流れになったのを考えると、価値ある供養塔と言えます。
西国三十三度巡礼行者については、とても長くなりますので、興味のある方は引き続きお読みください。
2015.1.29. HM:アブラコウモリH
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