富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉八朔市

2016年09月03日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2021.9.13.~9.27

原本:2016年9月3日

 2016.9.3.南河内郡河南町大ケ塚(だいがつか)

きょうは特別な日、八朔(はっさく)市。この「晴れの日」に、多くの出店(でみせ=屋台のこと)が並び、にぎわいます。

 

 河南町や富田林市周辺の南河内東南部では、9月1日といえば、まず頭に浮かぶのは八朔(はっさく)市。現在は9月の第一土・日曜日(今年2016年は9月3日、4日)に行われています。

 

いまは、町中には商店もほとんどなく、住宅地なのに、なんででしょうか?

実はこの大ケ塚の町、古くからの歴史があります。

 

 この大ケ塚の町は、石川支流の梅川が東側を、西側も浦川が北方に流れており、切り立った河岸段丘面の高台に立地しています。南北朝時代には、楠木氏一族により城が築かれたといいます。

その要害の地に、古く戦国期前半に根来寺の僧兵の勢力が入り、根来寺衆や近郷の者などが移り住んだようです。永禄11年(1568)に織田信長が河内に入り、大ケ塚の町は戦闘に巻き込まれてしまいました。信長軍とお互いに得意な鉄砲での打ち合いもあったことでしょう。

 

 その後、寺内町としての形成は、戦国期後半に根来衆が敗退した後、村人が自衛のために久宝寺寺内町、顕証寺に依頼し、根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕證寺の通寺(兼帯所)としたことによります。

 

 戦国の時代、元亀3年(1573)、本願寺11世顕如が、大ケ塚に道場を開基し、「大ケ塚総道場」としました。次第周辺や地方から人々が集まり、寺内町として発展していきました。

そして、江戸期の元禄2年(1689)に儒学者の貝原益軒がここに立ち寄り、「民家五百廿(520)軒あり」と書き記しています。(南遊紀行)

このころ、河内屋、山城屋、久宝寺屋、平野屋、大友屋などの屋号の商家が軒を連ねていました。町場は元禄年間(1688~1704)には五町に分かれ、南町・西町・市場町・乾町・東町があり、石川・大和川の水運を利用して、大阪と結ぶ商業都市として富田林村とともに栄えたといいます。文化面では、歌舞伎・相撲・人形浄瑠璃などの興行も盛んだったようです。

 

喜志 川面(かわづら)浜の石川剣先船水運により大坂 難波と結ばれていたことから、17世紀後半から19世紀にかけて、品質の河内木綿・米・菜種などの集散地として栄えるとともに、酒造業も盛んで、正徳5年(1715)には米140石もの酒造りする酒造家などがいたようです。

 この当時大和川を航行していた剣先船は300艘ほどあり、内 石川を行き来する船は26艘であったと記録に残っています。元禄五年(1692) そして、剣先船は古市村に8艘、石川郡では18艘あったと記されています。

*石川剣先船: 喜志 川面浜の剣先船 1 2015.6.24.

 

顕証寺(けんしょうじ)は、浄土真宗本願寺派の寺院。山号は「近松山」。地元の方は「大ケ塚御坊さん」とも言われています。。 河南町北部、大ケ塚の高台の上に、お寺を中心にして周囲に寺内町を形成していました。現在も町割りなどにその痕跡をとどめています。

 現在の本堂は、寛政6年(1794)に再建されたもの。

 

「八朔法要」(はっさくほうよう)と「八朔市」(はっさくいち)が伝統行事として顕証寺と寺内町に伝わっています。 元禄年代に、京都御所の皇室から下贈された灯籠人形を本堂に飾ったところ、人々が次々に拝観に訪れたため、顕証寺周辺には自然と出店も出るようになり、八朔市が形成され、それがこういう形で現在に至っています。

 

 私の小学生頃、昭和30年代では、町中にぎっしり屋台が並び、農具や種苗を販売する農家の必要なものを売るお店や川蟹、ジュース、たこ焼きなどの食べもんの店、 金魚すくいや鰻つり、ひよこ釣りなど、お子様御用の店、当てもんなんかのみんなで楽しめる店なんかのいろんな屋台がやってきて、とても賑やかでした。

出店も今はだいぶん様変わりしていますが、今年も「あてもん」、金魚すくい、鰻釣り、スマートボール、射的、たこ焼き、大判焼き(昔は回転焼きと言いました。)などなつかしいお店が出ていましたね。

 

 江戸後期、大ケ塚はこうして在郷町として発展し、天保5年(1834)の家数人別増減差引帳によると、家数226・人数904。天保13年(1842)の一朱銀員数書上帳によると、綿屋・木綿屋・帯屋・菓子屋・米屋・餅屋・鍛冶屋など48軒が記されています。

 

 今も台地上の大ヶ塚の町並は、かって寺内町から江戸期の繁栄を物語った痕跡を残し、現在も、わずかにお寺、厨子(つし)二階の低屋根の伝統的町屋、そして白壁の土蔵などにそのおもかげを残しています。

 写真は、町内の「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」と厨子二階伝統的町屋。

 

 いまもおもかげを残す旧家

 昭和30年代、縁日と言えば、私の小学生のころは富田林町内では、1月10日の「えべっさん(富栄戎)」しかなく、毎月28日の「不動さん(滝谷不動縁日)」や25日の「天神さん(道明寺天満宮縁日)」のほか、この大ケ塚の「はっさく(八朔市)」が、とても楽しみでした。

富田林寺内町の戎っさん 2014.1.10.

初不動 2016.1.30.

 道明寺天満宮の梅 2016.3.1.

 

 昭和30年代、私が小学校3年生の頃、9月1日は2学期の最初の登校日で、半ドン(昼までの授業)でした。富田林の市街から歩いて金剛大橋を渡り、北大伴の古い街並みを越え、都合約3km、延々歩きました。小学生の子供の足ですから、行き小一時間、帰りも一時間。暗くなるまで遊びに行ったのを覚えています。

鰻釣りはひっかけ釣りですぐ掛かるものの、糸はすぐ切れてしまいました。ひよこ釣りは案外よく掛かるもので、持ち帰った成果のたびに、親は困惑顔でした。それでも、鳥かごを作ってもらって飼っていましたが、かわいいひよこちゃんの時代はすぐ終わり、気が付くと本人が切り返しができないくらい、かごからあふれ出そうに大きくなっていました。しかし、いっこうに卵を産みません。しかも早朝に「コケコッコー」と鳴く始末。

こいつはオスや!

 

2016.9月3日 (HN:アブラコウモリH )

 


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3 コメント

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Unknown (さえこ)
2016-09-04 11:03:53
いよいよ明日喜志の宮ですね天気だいじょうぶかな
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太陽の道、喜志の宮(美具久留御魂神社)からの日の出  (アブラコウモリH)
2016-09-05 04:42:11
太陽の道、喜志の宮(美具久留御魂神社)-富田林市宮町三丁目-からの日の出
<太陽-二上山-鳥居-下拝殿が一直線に並びます>
降水確率20%。 夜が明けてみないと、日の出が見えるか、わかりませんね。4:40am現在、薄曇りです。私も行きます。
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やっぱりだめでした (さえこ)
2016-09-05 08:13:09
5時52分でしたよね
雲がかかっていてだめでした。いつも帰りには309沿いのオークワで買い物をして帰ります24時間営業なんですよね。
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