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大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉水越水論 万字ケ滝編

2020年10月15日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.1.31~2.14

原本:2020年10月15日

水越水論

水論とは水争いのこと。江戸前期、元禄時代に田んぼに引くかんがい用水の配分を巡って、大和と南河内(石川郡)に争いが起こりました。

 

大和葛城山山頂は草原で、ほど近くに葛城高原自然つつじ園があり、5月の連休明けにはつつじが真っ赤に彩り、多くの人でにぎわいます。

そしてその南側の尾根の急坂を降りた水越峠では、江戸前期と明治期に水や国境をめぐり河内と大和の大きな争いごとがかつて2度ほどありました。

葛城山のつつじ 2020  2020.5.20.

 

金剛山山頂付近から見た葛城山

つまり、元禄期の大和と河内の水論、また後の明治期の国境をめぐる総論(山論・境論)です。

ここでは、元禄期の水論のなかで、万字ケ滝についてみていきたいと思います。

 

金剛バス「水越峠」のバス停

土・日曜・祝日に水越峠近くまで運行されています。

ここから出発、10分で...

 

水越峠

現在、以前に発生した土砂崩れで歩行者も含め通行禁止。

実はこの道を暗渠で水が流れています、大阪府から奈良県へ。

なんか不自然と思いませんか?

 

大阪府側から、井路(人口の水路)により落ちてきた水。

ここはダイトレ道、大和葛城山から金剛山に至る道です。

まずはこの道を上っていきます。

 

30分くらいで大阪府側の谷水が湧いているところに到着しました。

 

自然に流れる沢の水。

 

ここはまだ谷の傾斜に沿って落ちていく沢筋。

この後、井路(人口の水路)によって、沢筋が変えられます。

 

ここで堤防を築き、谷に流れていくのを止め、井路に誘導しています。

ここが元禄13年(1700)に河内(石川郡)側が大和吐田郷(はんだごう、現在の名柄、豊田、森脇、宮戸、西寺田、多田、東名柄、増、関屋地区)に水をめぐり「いさかい」を起こした場所のひとつです。下流部に「万字ケ滝」(千早赤阪村水分)というところがあるので、こう呼んでいます。

ほかに、水越峠の南の金剛山の中腹にもう1か所 「越口」(御所市関屋)に「いさかい」を起こした個所があります。ここは改めて別のブログ紹介します。

 

当時は今のような石とコンクリートで固めた堅牢な堤があったとは思えませんが、傾斜面を止める形で右側の井路に誘導しているのがわかりますね。

 

堤の左側が谷になっているのが、おわかりになりますか?

実は元禄の水争いが起きるはるか100年近く前(諸説あり)、まだ両方の郷の入会地で国境(くにざかい)が定かでなかった時代に、吐田郷名柄の上田角之進という人が万字ケ谷に落ちる水を途中井路で受け、山麓の傾斜に沿って大和がに引くことを思いつき、その工事をしたということです。

 

等高線に沿って大和側に井路が誘導します。

記録では、天正八年(1580)頃に河内の農民3名がこの堰を壊し磔になっています。

元禄十三年(1700)には河内の農民が堰を壊しています。

そのため名柄の庄屋高橋佐助が河内の村々に談判しました。そして南都奉行に提訴し、結果大和側の申し分が通って和解となりました。

翌年、元禄十四年(1701)旧暦5月6日には大勢の河内の農民が手に手に棒を持ち法螺貝を吹いて集まり、葛城山側の「万字ケ滝の水」と金剛山側の「越口の水」を同時に河内側に切り落としました。翌日には大和側が取り戻しますが、8日未明にはまた河内の農民千人が手に手に鍬・鋤・鎌を携え、各々髪に白紙を結わえ決死の覚悟で両方の水を切り落とす事件が発生します。

 

水はかなり速い速度で井路を駆け下ります。

大和側も多くの農民が参集しましたが、武力で河内側を押し返すことはせず、庄屋高橋佐助などを指導者は流血の惨事を避けようとしました。そして早くも9日には吐田郷六ヶ村庄屋連名にて口上書を提出、争いの舞台は京都所司代に移されました。

 

どんどん流れます。

吟味の結果、水越峠の水は元禄の遙か以前より大和側の土木工事により大和へ流れ落ちていた既成事実が重視され、元禄 十四年(1701)12月 21 日大和側の勝訴となりました。

 

山腹の崖面を流れるにあたり、今はコンクリートで固められていますが、当時はどうであったのでしょうか?法面を切り崩して掘りこんだのでしょうか?

 

そうこうしているうちに水越峠近くまで下りました。あともう少しです。

 

水越峠の暗渠口。この後分水嶺の水越街道を越えて、大和側に水が流れ下ります。

江戸期以前より水不足が生じていた大和吐田郷の人々は、まだ山の所有権がはっきりしていない時代より水の確保のため山に分け入り、自然条件を克服して井路を作り、水の確保に成功しました。

百年以上経た江戸前期には河内側も新田開発が進行し、結果的に水が足りなくなってきます。そして本来の自然条件では河内側に落ちる谷筋の水が人工的に工事され大和側に落ちているのに憤りを感じ武力行使します。大和側もこの水を取られれば今の田んぼが維持できなくなります。

幕府の判決の結果、既成事実が重視され大和に今まで通り水が流れることになりました。

この後、敗れた河内の石川郡においては、川筋においては井堰の開発、谷筋では溜池の開発が盛んになり、何とかして足りない水を確保しました。

現在は宅地化や休耕田が多くなって溜池の水も余り気味になり、埋められたり活用されなくなったりしていますが、300年以上前に水利権をめぐりこのようなことがあったということが、今現地に行っても確認できます。

先に苦労して何とか水の確保をした吐田郷は今も米どころ。

「はんだ米」として、金剛・葛城山から流れる清水と上質の砂質壌土により育てられる減農薬有機米、歴史あるおいしいお米として人気です。

関連記事:水越水論 越口編 2020.10.18.

写真撮影:2020年5月13日、14日、9月22日

2020年10月12日 HN:アブラコウモリH

 

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