2018.8.28.15:24 「櫛羅(くじら)」とは珍しい地名ですね。
15:26 鴨山口神社に着きました。神社の参道です。
鴨山口神社は式内社。延喜式神名帳」には山口社は十四社ありますが、 その内葛上郡の鴨山口神社が本社であると されており、即ち式内の大社として格式の高い神社です。
頭に「鴨」を冠し、高鴨神社や鴨都波神社のように鴨族の関係をうかがわせます。
以前は当神社西北方、俗称岸ノ山に鎮座されていたのが天災起こり山岳崩れて今の此の地に奉られたと記されています。
貞観元年(859~877)清和天皇の御代に正五位を授けられており、その当時すでに神社が創立されていた事が推察されます。
御祭神の大山祇神は山の神とされています。これは葛城山の入り口に鎮座し当時の住民が重要な作物である稲作造りに必要な雨・風を神に願う気持ちが山の入口にそれを治める神として奉られたものと思われます。(御所市観光HPより)
右脇に地蔵さん。
石の祠の地蔵さんも。
こんなところに盃状穴がありました。
ここにも。
ここにも、はっきりとした大きい盃状穴。
この地域の盃状穴は多いとは言えませんが、当神社にははっきりした大きい盃状穴が複数ありました。
15:32 鳥居と御神燈
拝殿
拝殿右に絵馬の奉納。松鶴図
ワニのような根っこ
奈良県に多い「神武天皇遥拝所」
「明治天皇遥拝所」もありました。向きは異なります。
この丸石、なんでしょね。
ここにも。
「金毘羅大權現」灯籠
「金毘羅大權現」の銘
側には「邑(むら)中安全」の銘も見えます。
これは太神宮灯籠 前後二対奉納されています。
「天照皇大御神」が祭られています。
奥の石灯籠は、「天照皇太神宮」(左)、「天照太神宮」(右)と記銘されています。
16:04 道端のお地蔵さん 花崗岩の石祠におられます。
16:06 オーバーハングした民家の石垣
原料が近くでとれるのか、石垣の文化みたいなのを感じますね。
16:15 大和棟
大和棟を見つけると思わず反応してしまいますが、この地域もよく見かけます。
16:16 大きな木々に囲まれて崇道(すどう)神社
でっかい木々の中に神社がある感じです。
崇道(すどう)神社については、祭神が崇道天皇(早良親王に与えられた追写)。皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていません。創立年月日並びに自後の履歴不詳。
崇道天皇の本名は、早良親王(さわらしんのう)。同母兄の桓武天皇が即位したのにともない、皇太子に選ばれました。ところが、延暦4年(785)桓武天皇の右腕として長岡京の造営に尽力していた藤原種継の暗殺事件が勃発。この事件に関与したとして、皇太子を廃され、淡路国へと流されます。身の潔白を訴える親王は飲食を断ち、淡路国におもむく途中で絶命したのでした。その遺骸は淡路国に埋葬されるものの、親王に代わって皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の立て続く死など、親王の薨去後に災いが次々に発生。親王の怨霊を怖れた朝廷は、延暦19年(800)、親王に「崇道天皇」の尊号を追贈するとともに、陵墓も大和国に移しました。つまり、天皇に即位していないのに天皇の称号をいただいている理由は、悲劇的な最期を迎えた親王の怨念を怖れてのものであったわけです。つまり親王の御魂をしずめようとして当社を創建したと考えられ、親王の祟(たた)りを畏れていたとおもわれます。崇道神社はここだけでなく、京都市や奈良市にもあります。
菅原道真の天満宮もおなじく、無実の罪で左遷された後に命を落とし、その後京都に数々の天災が起きたことから菅原道真公の祟と言われ、その御霊を鎮めるために建てられたのが始まりとされています。
平安時代にはこのような不遇の生涯を遂げた人の祟りを恐れる思想があったようです。
16:31 大和棟
16:40 道路沿いに玉垣で囲われた太神宮灯籠
16:48 墓地の入口にでっかいお地蔵さん
けっこうイケメン。
16:55 近鉄 御所(ごせ)駅に着きました。
17:15 そして駅から南に歩いて10分足らず、鴨都波神社に着きました。
神社に向かって右側→ 「阿形(あぎょう)」で口を開いている狛犬(獅子)
神社に向かって左側→ 「吽形(うんぎょう)」で口を閉じている狛犬...?
あれ、口閉じていない。この狛犬も口を開いているぞ...おかしいな?
もう一度見てみましょう。
拝殿(奥右側にあり)の方向を見て、右も左も狛犬の口が開いている 「阿形」。
なんでだろ?
〈画面をクリックすると拡大します〉
右側の狛犬は「阿形」
左側の狛犬も「阿形」 でも口の開き方がすこし小さいようです。
右側の狛犬は「阿形」
左側の狛犬も「阿形」
金毘羅大權現の灯籠です。
「金毘羅大權現」
「琴平宮」
「天下泰平」
寛政十二年(1800)庚申に建之
ずらりと並んだ石灯籠
「風の森」 地元御所市の油長酒造の清酒です。
鎮守の森に囲まれた荘厳な拝殿
御神木と遥拝所
石灯籠群
「葛城古道をゆく」シリーズはこれで終わります。
8回にわたって葛城古道をゆく中で、私たちの住む南河内とここ葛城地区とは、金剛山・葛城山の峰を軸として多くの共通点があることがわかりました。
1.地名の佐備(さび):富田林市と佐味(さび):御所市の存在。
鉄の工房を思い起こさせる様な地名ですが、富田林市ではまだこの付近の古墳時代の鉄加工の工房は見つかっていません。
葛城氏の勢力が水越峠を越えて大阪方に及んでいて、鉄の加工技術も伝わっていたのかもしれません。葛城地域では鉄工房の遺跡が発掘されていますが、もし富田林市の佐備川流域で遺跡が発見されたらえらいことになるかもしれません。
2.「鴨」の名を冠する神社の存在
葛城連合鴨族の神社として、鴨習太神社(南河内郡河南町神山(こやま))と高鴨神社・鴨山口神社・鴨都波神社(御所市)の存在
葛城連合鴨族の勢力が大阪方にも及んでいたと思われます。すべて式内社。
3.すべて菊水
*神社により若干紋の形状が異なります。
建水分神社:南河内郡千早赤阪村(金剛山鎮守、楠木家氏神)
葛木神社:金剛山山頂、御所市高天
高鴨神社:御所市鴨神(鴨一族の本貫地、全国鴨(加茂)社の総本宮で、鴨の一族の氏神)
この3つの神社の紋所がすべて菊水
4.領家花崗・片麻岩帯
この基盤岩が花崗岩で風化土が真砂であるということがメリット・デメリットを含め、人々の生活の大きく影響を及ぼしています。
人々はもろく土石流が起きやすいところを避けて居住し、花崗岩を石垣などに利用し、花崗岩の砂礫層を浸透した良質な水で「東條ほんわか米」や「吐田米」などの良質な米を生産しています。また江戸期の砂質の水はけのよい土壌を利用して盛んに木綿を栽培していました。
また雨が少ない瀬戸内気候の共通点により、溜池や井路が非常に発達しており、条里地割も広範囲に見られ奈良時代以前から開発された痕跡を今も留めています。
このほかにも共通点と相違点をはっきり見ることができました。
また次の機会にご報告をしたいと思います。
*今回資料の収集等で、御所市立図書館の方々にお世話になりましたことをお礼申し上げます。ありがとうございました。
関連記事:葛城古道をゆく1 高鴨神社の灯籠 2018.7.5.
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葛城古道をゆく5 名柄の町 2018.8.23.
葛城古道をゆく6 一言主神社と九品寺 2018.9.1.
葛城古道をゆく7 九品寺から櫛羅(くじら)まで 2018.9.9.
写真撮影:2018年8月28日
2018年9月17日 ( HN:アブラコウモリH、林 保夫 )
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