河内源氏は頼信・頼義・義家と三代にわたり、この地から各地へ出陣して大功をたて、武将としての地位を不動のものにしました。
「通法寺 源家武将廟墓」
「河内名所図会 巻之三」享和元年(1801) 秋里籬島 著 丹羽桃渓 書。龍谷大学図書館 貴重資料画像データベースより
現在と同じく頼信・義家の墓が描かれています。
2025年1月18日 14:01 羽曳野市通法寺 通法寺址
境内に国指定史跡 河内源氏2代目「源頼義の墓」があります。
河内源氏初代棟梁 源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。平忠常の乱の際、頼信を助け乱の鎮圧に貢献しました。また、その後、陸奥守兼鎮守府将として嫡男 義家とともに前九年の役に勝利し名を馳せました。戦功を記念しこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立し氏神としました。
頼義の墓は通法寺境内の旧本堂址にあり、承保二年(1075)88才で亡くなり、遺言により本堂の床下に葬られましたが、後に現在の位置に移されました。
羽曳野市通法寺 通法寺山門
お寺自体は明治の初めに廃仏毀釈で廃寺になりましたが、山門、鐘楼などが残されています。本堂ほかそれ以外のものは取り崩されています。
通法寺については以下をご覧ください。
通法寺 2025.1.27
通法寺址から南東に200m、「源館阯碑」を通り、小高い丘陵を登ると、こんもりと盛土された国指定史跡 河内源氏3代目「源義家の墓」があります。
義家は嘉承元年(1106)68才で京都の邸宅で亡くなり、この地の丘陵に埋葬されたといいます。
盛り土の上にお墓の石の垣根が見えます。墓碑はありませんでした。
源義家は頼義の長男として、河内源氏の本拠地である石川郡壷井(現 羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれます。7才の時に、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれていました。
前九年の役の際、父頼義に従い反乱を鎮圧し、名声を高めました。永保三年(1083)には出羽の豪族清原氏の内紛を寛治元年(1087)に鎮圧して、武将としての地位は不動のものになったようです。(後三年の役)
永徳二年(1098)に武将で初めて院への昇殿(殿上人)を許されました。
しかし晩年は、康和三年(1101)に次男対馬守義親が反乱、嘉承元年(1106)に三男義国が事件を起こすなど、義家の中央官界での地位が危ういものになっていきました。
墓前には一対の石灯籠。
「 源義家公御廟前 」と記銘されています。
「 文化元甲子□七百歳御忌造□ 」 *文化元年(1804)
お墓の周りの一石五輪塔 「笠」が損傷を受けています。
なんと「 天文十八年己酉 / □□弥陀佛重阿弥陀佛 / □月九日 」カ? *天文十八年(1549) と読めます。間違いがなければ476年前。
舟形地蔵ですがこれも損傷を受けて寝かして置かれています
江戸期の歴代の通法寺の僧侶の墓。五輪塔や宝篋印塔が多いですが、損傷を受けて完全なものは少ないようです。
石仏の首がなく、手の部分も損傷を受けています。
五輪塔や宝篋印塔の宝珠と請花の部分か?
おそらく明治初年の廃仏毀釈で破壊されたものかと思わます。通法寺も山門と鐘楼を残して取り崩されました。
明治政府の神仏分離令で今まで神も仏も混交して信仰(神仏習合)が、神道を国教とされてお寺は切り離されました。
多くの檀家を持たないお寺が廃仏毀釈の対象となり、仏像などを壊したり、経典を焼き捨てたり、お寺が破壊される事態となりました。
国指定史跡 河内源氏初代「源頼信の墓」があります。
頼信は河内守に任官後この地に邸宅を構え、多くの戦乱を平定し、余生をここで過ごしました。永承三年(1048)に81才で亡くなり、遺言により通法寺の巽(たつみ 辰巳 南東)の方向に葬られました。
頼信の墓も円丘状で上に石の垣根があります。現在は大きく生長した幾本かの樹木に覆われていますが、墓碑のようなものは建っていません。
ここも一対の石灯籠があります。
源頼信は清和源氏の源満仲の三男として生まれ、二十歳の時中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えました。特に長元元年(1028)の勃発した平忠常の乱に際し、追討使平直方に代わり反乱を鎮圧しました。頼信は武家の棟梁として確固たる地位を築きました。
「 源頼信公御廟前 」
また、上野、常陸、石見、伊勢、美濃などの国司を歴任し、最後に河内の国司となり、その時にここに本拠地を構え、河内源氏三代の本貫地となり、またその後石川源氏の基礎となりました。
長久四年(1043)には、頼義とともに観音堂(後の通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰されてきました。
「 文化元甲子□秋造立之 」カ *文化元年(1804)
江戸後期には石灯籠が造立されています。
頼信の墓に沿うように宝篋印塔の「大僧正隆光」の墓があります。
大僧正 隆光は江戸前期の僧侶。〈慶安二年(1649)~享保(1724)〉大和国の旧家 河辺家の出身。万治元年(1658)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修業した後、醍醐寺などで密教を修めました。貞享三年(1686)5代将軍 徳川綱吉の命により将軍家の祈祷寺である筑波山知足院(桂昌院が隠棲していた)の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得ました。元禄元年(1688)には知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となりました。元禄八年(1695)には新義真言宗の僧では初めて大僧正となります。宝永四年隠居し、駿河台成満院へ転住しました。
隆光は河内源氏の子孫である多田義直の上表の時、柳沢吉保と共に通法寺の再興に尽力した人物で、徳川綱吉の学僧であり、江戸護持院の住職をつとめました。
「 當寺中興 / 大僧正隆光 / 享保九甲辰天六月七日入寂 」 *享保九年(1724)
隆光は綱吉に「生類憐れみの令」を発令することを進めたとされてきましたが、その後の研究で、隆光は生類憐れみの令の初発令の時期〈貞享二年(1685)以前〉に江戸におらず、彼の日記にも生類憐れみの令に関する記述は無いため、この説は後退しました。
なお「生類憐れみの令」は一つの法令ではなく、綱吉が将軍だった時期に発令された法令をまとめて呼んだものであり、後代につけられた名称でした。
犬の保護というイメージが強いですが、対象は牛馬や魚介類など幅広い。さらに人も対象となっています。貞享四年(1687 )の法令には、「捨て子は届け出なくてもいたわり、養うか養育を望む者のもとにつかわすように」とか、「犬だけではなくすべての生類への慈悲の心によって憐れむように」などと記されているそうです。
綱吉の死後はお役目御免の扱いを受け、宝永六年(1709)江戸城の登城を禁じられ、筑波山知足院への復帰願いも認められず、通法寺の住職に左遷され、のち奈良市二条町の自宅で没したとされます。
小高い丘を西に降りていくと、通法寺地区の共同墓地があります。
自然石を利用した六字名号板碑「 南無阿弥陀佛 」
祠に六字名号板碑が祀られています。富田林では浄土宗、真宗、融通念仏宗のお寺などに時に見ることができます。
「 俗名相模川墓 / 門弟中 」 お相撲さんの墓です。
「 早川墓 / 台湾 有志中 」 *右側面「大正十年(1921)十一月十四日没」
これもお相撲さんの墓。基礎に「台湾」とあります。「台湾」で相撲の興行が大正十年の日本統治時代に行なわれていたのでしょうか?
「 華道師範 / 廣楽斎宮井先生壽蔵 」
華道の先生のお墓。壽蔵とは生前に自分でつくっておくお墓のこと。
この周辺は源氏三代の墓をはじめ、氏神である壷井八幡宮など、河内源氏の故郷にふさわしい多くの歴史遺産が点在しています。
関連記事:
通法寺と源氏三代の墓 2017.6.30
写真撮影:2025年1月18日
2025年1月28日 アブラコウモリH
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます