〈リバイバル・アーカイブス〉2022.12.5~12.19
原本:2018年8月10日
2018年7月31日 14:18 吐田(はんだ)極楽寺 より南郷(なんごう)へ。
前回の葛城古道をゆく2からの続きです。
ここから出発。
特徴のある鐘楼門 から出発。佛頭山極楽寺は、浄土宗のお寺です。
14:20 すぐ近くの民家では。
鬼瓦に竜。龍神は水をつかさどる神だから、火難除けということでしょうか。
14:21 立派な花崗岩の石垣。
この地域は領家帯の花崗・片麻岩帯にあるので取れる石は花崗岩ばかりです。そのため石垣も花崗岩。
14:22 遠く奈良盆地を望む。畝傍山、その左に重なって小さく耳成山。この辺の標高274m。
14:29 田んぼのむこうに畝傍山。
14:30 「夏が過ぎ、風あざみ...」 井上揚水の歌が浮かびます。
14:45 ミツバチの巣箱
14:46 極楽寺ヒビキ遺跡に着きました。
5世紀前半の葛城氏の居館跡と言われています。古墳時代としては日本最大級の規模の居館跡で、大和が見下ろせる標高240mの三方が崖に囲まれた丘陵にあります。
当時、ヤマト王権の大王家と婚姻関係を結び、外戚として日本最大の大豪族であった葛城氏の関係施設とのことです。(当時、県立橿原考古学研究所 発表)
〈空中写真は画面をクリックしてください〉*Google Earth Pro
今は埋め戻され、区画整備され美田に生まれ変わっています。
発掘(2004年10月~2005年2月)当時には、広大な土地に石張りの堀、と巨大な建物跡が出土しました。
当時の現地説明会には千人以上の考古学ファンが詰めかけたと言います。(2005年2月26日 日経新聞夕刊)
北側(画面でいえば、中央奥)に5間×5間の中心的な掘立柱建物(67坪)があり、身舎(もや)部は2間×2間の特異な板状柱で柱痕跡が赤い土に置き換わっていました。これは火災の跡で、この建物に限らず、遺跡の建物や塀はほとんどが焼失しているそうです。時代から見て、日本書紀にも記載されている「雄略天皇に焼打ちを仕掛けられた葛城円(つぶら)の居館」ではないかという説もあります。
〈発掘時の空中写真は画面をクリックしてください〉
金剛(左)・葛城の尾根と美田
今は何もなかったようにセミの声が響きます。
大型建物を含めた区画は出土遺物が少ないこと。遺物は祭祀儀礼で使う高坏が多く、日常生活で使う土器は少なかったといいます。
あまり生活臭が感じられない。つまり、日常生活の場とは考えにくいこと。これらのことから、大型建物を含めた区画は一般的な住まいというより祭儀や政務をおこなった公的な性格をもつ施設と考えられるようです。
また、柱が丸柱ではなく板状の柱を使用していた点については、室町時代にノコギリが登場するまでは大半は丸柱で、手間のかかる板柱の使用は居住空間でなく、祭祀・政務用などの特別の空間として利用されていたことがうかがえるといいます。同じ形の家形埴輪が3km北東の宮山古墳より出土しています。
宮山古墳は葛城氏の大首長の墓とされ、出土した家形埴輪の8本の柱はすべて板柱で、配列もヒビキ遺跡の建物跡と同じであったといいます。
宮山古墳出土の家形埴輪(橿原考古学研究所蔵)
〈復元想像図はこの家形埴輪を画面をクリックしてください〉
近くに民家はなく、崖の周りは木々におおわれています。(パノラマ映像)
葛城氏は当時葛城地域の鴨氏など各首長の連合体であったといわれ、朝鮮半島の鉄器の製造など最先端技術をもった渡来人を支配下に治め、強大な経済力・資金力を持っていたようです。
さらに、日本書紀によれば葛城襲津彦の娘、磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后になって、履中・反正・允恭天皇の母親であることを始め、仁徳天皇~仁賢天皇までの9代の天皇の内、8人が葛城氏出身者を妃や母親になっていることからしても、外戚関係を深め、政治力をもっていたと言えます。
つまり、政治力、資金力、外交においても大王家に匹敵する力があったのではないでしょうか。
〈当時の新聞報道は画面をクリックしてください〉
15:01 柿畑越しに大峰山脈が見えます。
中央奥の左より、山上ケ岳、稲村ケ岳、八経ケ岳の順。
15:29 水祭祀の遺跡が見つかった南郷大東(おおひがし)遺跡
南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡は、幅6mほどで深さ1.2mほどの小川を石積みでせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをしていました。小屋の周りは柵で囲まれ、導水木樋の両側に人々が集まって笛や太鼓を鳴らしながら、神を鎮める祈りを捧げます。
〈画面をクリックすると地図が見えます〉
今は埋め戻されています。
小屋周辺からは祭祀用具や多量の「焼けた木片」があり、祭りは夜に行われたようです。
現在はかなりの傾斜の坂道に区画整備された広い面積の棚田が続いているといった状況です。
田んぼの傍らの道沿いに細い水路が敷かれていました。
〈画面をクリックすると発掘当時の様子が見れます〉
当時話題になった遺跡は美しい田んぼに戻りました。
〈画面をクリックすると復元模型が見れます〉 *橿原考古学研究所復元模型
15:45 南郷地区に入りました。 ホウロウ引きの広告板が印象的。
15:49 南郷公民館 さりげなくかなり古そうな花崗岩製の五重石塔があります。
さらに、十一重石塔(たぶん元は十三重石塔)もありました。
さらには、六重石塔(たぶん元は七重石塔)も...
15:50 ここには鶏足寺があったということです。
15:52 南郷地区にある住吉神社です。公民館のななめ前にあります。
江戸前期、承応二年(1653)の棟札があるそうです。
拝殿 大阪住吉大社の分霊を勧請してたと言われています。
多くの石灯籠が奉納されています。
神社の入口に文政四年(1821)に建てられた大きな太神宮灯籠(伊勢灯籠)があります。
正面に「太神宮」と記銘されています。
太神宮とは皇大神宮(伊勢神宮)のことです。
16:15 やはり民家の石垣は花崗岩オンリーです。
16:19 丘陵の斜面に棚田が開け、葛城山の大きな山塊が見えます。
16:21 はるかに遠くかすんで若草山が見えます。葛城氏が栄えた時代は、平城京も藤原京も、飛鳥の都もありませんでした。
16:34 南郷の村の坂道を下ると、このあたりが南郷安田遺跡になります。
ここでも葛城氏と思われる高層祭殿らしい二重構造の建物跡が見つかっています
丸柱を用いた5世紀前半ごろの大型の掘立柱建物跡で、権力者や部下が集まる実務的な場所だと考えられてます。
〈画面をクリックすると空中写真が見えます〉*Google Earth Pro
極楽寺ヒビキ遺跡、南郷大東遺跡、南郷安田遺跡、これらの南郷遺跡群は1km四方に固まって存在し、葛城氏の本貫地と考えられています。平成4年(1994)よりの橿原考古学研究所による県営の圃場整備事業に伴う事前の調査として調査が続けられています。
今回ご紹介した3つの遺跡のほか、南郷遺跡群は首長の居住地(多田桧木本遺跡)、武器生産をおこなった特殊工房(南郷角田遺跡)、大型倉庫群(井戸大田台遺跡)、手工業生産を指導した親方(中間)層の居住地(南郷柳原遺跡・井戸井柄遺跡)、鉄器生産・玉生産・窯業生産・ガラス生産など盛んな手工業生産をおこなった一般住民の居住地(下茶屋カマ田遺跡・南郷千部遺跡・南郷生家遺跡・南郷田鶴遺跡・佐田柚ノ木遺跡・佐田クノ木遺跡・林遺跡・井戸池田遺跡)、土器棺墓からなる一般住民の墓地(南郷丸山遺跡・南郷岩下遺跡)などです。
遺跡の現状は、圃場整備工事が施工され、水田となっていますので、現地ではその遺構・遺物を見ることはできません。(橿原考古学研究所友史会ブログより引用)
古墳時代に大王家に結び付き、時代の最先端を担っていた地域です。
〈画面をクリックすると出土した掘立建物の丸柱が見れます〉*橿原考古学研究所のブログより
16:45 この後、名柄に向かいます。
静かな農村地帯ですが、1500年以上前に時代の最先端の技術を備え、大王家と深く結びついて日本の将来に大きく関わった集団が生活をしてことを想うと感慨深いものがあります。
歴史は深く、不思議でおもしろいですね。
関連記事:葛城古道をゆく1 高鴨神社の灯籠 2018.7.5.
葛城古道をゆく2 髙天彦神社周辺 2018.7.24.
写真撮影:2018年7月31日
2018年8月10日
( HN:アブラコウモリH )
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