2017年7月1日、天気予報では「曇りのち雨」、でも朝から「晴れ」。暑かった。
KANSAIウォーク2017、第1回目は「大坂コース」我ら5人の参加はファミリーコース(約8Km)
70歳前後の私たちには、この位がGood!!
集合会場模様:大阪城AM10時 集合
「ファミリーコース「順路 (赤いラインです)
《スタート》大阪城天守閣前本丸広場▶多聞櫓▶ 大阪府庁▶東町奉行所跡▶︎八軒家船着場▶五代友厚像(大阪取引所)▶大阪市中央公会堂▶大阪府立図書館▶適塾▶御霊神社▶北御堂▶西町奉行所跡▶舎密局跡▶豊國神社▶大阪城天守閣前本丸広場
大阪府庁 大正15年(1926)に竣工、現在の都道府県庁舎としては最も古い。
東町奉行所跡
大阪は幕府直轄地として将軍直属の大阪城代が置かれていた。城代は5~6万石の譜代大名から選ばれ、小諸侯から任ぜられた定番、加番、大番を率いて関西の諸大名の監視に務めた。 また東西の町奉行や堺奉行も所管した。元和五年(1619)に設置された東西の両町奉行所は当初大阪城京橋口門の外にあったが、享保九年(1724)の火事により、西町奉行所は本町橋詰に移転した。
八軒家船着場跡
土佐堀通京町の昆布屋の前に建つ石碑。江戸時代には「八軒家浜」と呼ばれ、三十石船や淀川の荷客輸送にあたった過書船の発着場として賑わっていた。「八軒家」という地名の由来は、昔ここに八軒の船宿があったという説と、八軒の民家があったという説などがある。平安~鎌倉時代、付近一帯は「渡辺津」と呼ばれ、京から舟で下った熊野詣の一行はこの地から陸路を歩んだという。熊野街道の始点を示す石碑は、船着場のすぐ西を南に延びる道に建つ。かつては大勢の人々が列をつくってここを出発点に、熊野詣でへ出かけていた。
熊野街道(くまのかいどう)
京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参拝に利用された街道。 紀伊路とも呼ばれた。また、浄瑠璃の小栗判官にちなんで小栗街道ともいう。
京からは渡辺津までは淀川を船で下り、最初の王子・窪津王子へ参拝して熊野へ向かいます。街道は、摂津大坂の渡辺津(窪津ともいう。大阪市中央区天満橋付近)を起点に四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)を経て紀州田辺から、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋でした。
前島密 像
天保6年1月7日(1835/2/4)ー大正8年4月27日(1919/4/27)
日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。
「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた。「郵便制度の父」と呼ばれる。
大坂会議 開催の地
1875年1~2月,参議伊藤博文と在野の前大蔵大輔井上馨の周旋により,参議大久保利通と在野の木戸孝允,板垣退助らが大阪において行なった一連の秘密政治会談のこと。その結果,将来国会を開く準備として元老院を設けること,裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること,民意を疎通するため地方官会議を興すこと,および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意をみ,木戸と板垣は再び参議として政府に復帰することになった。これにより,征韓論以後次第に弱体化しつつあった政府は一応その補強に成功し,4月にはこの会議の成果をふまえた詔が発布され,元老院,大審院の創設,地方官会議の召集,立憲政体の漸次採用が宣言された。
明治8年に、伊藤博文、井上馨の仲介により、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の協議が大坂北浜の料亭「加賀伊」(現)で行われました。大阪会議の主なテーマは、今後の国政について。立憲政体の樹立、三権分立、二院制議会の確立です。
独特の雰囲気漂う、登録文化財の洋館
地下鉄堺筋線北浜駅から徒歩3分。入口に大きな金色のティーポットがぶら下がる、レンガ造りの洋館が「北浜レトロ」です。現オーナーの"明治時代の純イギリス建築に戻し、本格的な英国式ティーサロンにしたい"という強いこだわりで改装されたビルは、全体がレトロで特別な雰囲気を漂わせています。
伍代友厚 像
五代友厚
江戸時代末期から明治時代中期にかけての薩摩藩士、実業家。
薩摩の国鹿児島城下長田町城ケ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。
当時、「まさに瓦解に及ばんとする」大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
なにわ橋のライオン
橋の南詰めおよび北詰めには、最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(ライオン像、天岡均一作)が
両側にあるため、「ライオン橋」と呼ばれている。
大坂俵物会所跡
江戸時代、長崎からの輸出品は干なまこ・干あわび・乾燥ふかひれなどあり、俵詰めにしていたことからこれらを俵物と称していた。海外貿易の決済で金銀銅の流出の激しいことから、一部を俵物で置き換えられた。延享(えんきょう)元年(1744)には集荷の便のため会所が設けられたが、移転を繰り返しここに落ち着いたのは、安永6年(1777)のことであった。 その後、幕府が独占集荷体制をとったもののあまり機能しなかったが、会所は幕末まであった。
木村重成 碑 (?-1615年)
安土(あづち)桃山時代の武将。近江(おうみ)(滋賀県)の名家佐々木氏の末で常陸介重茲(ひたちのすけしげこれ)の子というが確かでない。母の右京大夫局(うきょうたいふのつぼね)が豊臣秀頼(とよとみひでより)の乳母(うば)であったので、重成も幼時から秀頼に仕えた。大坂冬の陣では、初陣ながら後藤基次(もとつぐ)とともに、上杉景勝(かげかつ)、佐竹義宣(よしのぶ)と鴫野(しぎの)、今福(いまふく)に戦って武名をあげ、和議にあたっては、誓紙交換の正使として岡山の徳川秀忠(ひでただ)のもとに赴き、その堂々たる態度を賞賛された。俗説ではこれを茶臼山(ちゃうすやま)の家康のもとでのこととするが誤りである。夏の陣では、若江(わかえ)に出撃して井伊直孝(いいなおたか)の兵と戦い、力戦のすえ壮烈な討ち死にを遂げた。行年21歳とも24歳ともいう。討ち死にを覚悟して、兜(かぶと)に名香をたき込め、首実検をした家康を感嘆させたという話は有名。
大阪中央公会堂 1918年(大正7年)11月17日オープン
日本赤煉瓦建築番付
西の横綱は「大阪中央公会堂」、東は「東京駅」となっている。
栴檀木橋
江戸時代、中の島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、船場との連絡のために土佐堀川には多くの橋が架けられていた。
橋名の由来は、「摂津名所図会」ではこも橋筋に栴檀の木があったためとか。
適塾(てきじゅく)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学医学部および慶應義塾大学の源流の一つとされている。
緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、大阪府大阪市中央区淡路町4-4-3にある神社。
なお、正面鳥居の扁額は御霊宮と表記。
今の橋は大正2年(1913)に架け替えられた。
大阪市内では、現役最古のはしである。「浪速の名橋50選」に選定されている。
今は、こんなことに!!
大阪商工会議所前の「伍代友厚 像」と「土井通夫 像」
西町奉行所跡 中央区本町橋2 マイドームおおさか前
幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が、警察・司法・行政の任にあたった。町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ1カ月交代で執務した。西町奉行所は享保(きょうほう)9年(1724)の大火後当地に移った(それまで現大手前合同庁舎のところに東町奉行所と並んであった)最近現地発掘調査で、その規模が判明しつつある。維新後、奉行所には大阪府庁がおかれた。府庁は明治7年江之子島へ移り、跡地は大阪博物場(動物園・美術館・図書館)でにぎわった
浪速今昔百景」舎(せい)密局(みつきょく)跡(あと)(京都大学の前身)・大阪は大手通りの警察会館前の道路筋の歩道を塞ぐように大木があって祠がある。そこに舎密局跡碑が立っている。私の子供の頃から言い伝えで道路に突き出た古大木を切れば祟りがあって、戦前から切ることができず未だに古木は立っている。この地が明治三年に大阪舎密局、翌年に京都に舎蜜局が設置され中でも大阪舎蜜局は第三高等学校(京都大学前身)の源流となっていった。幕末期、幕府の洋学教育研究機関である開成所に理化学校を建設する構想があったが混乱で成立せず、後藤象二郎と小松帯刀の進言によって戦乱を避けて学校の設備を大阪城西の大手通り旧京橋口御定番屋敷跡に新校舎が建設され、オランダ人化学教師ハラタマを教頭として大阪舎蜜局が開校された。
「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字(例えば宇田川榕菴の著書『舎密開宗』など)であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
ゴーーーール
「ゆめまるくん」が、お出迎え。到着2時20分。暑かった!!
ありがとうございました。
次回は9月に京都で開催されます。
ウォーキングとその後の「反省会」が楽しみです。
辰じいでした。 2017年7月1日撮影
9日、「修学院離宮」楽しみですネ
天候は??
まあ、梅雨時期だもんネ。