「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

山口県阿武町 「 佐々木小次郎の墓 」

2021-04-13 06:50:11 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

墓石には天女のような像が彫られている

 

 

 

 

 

細い道を上って行くと墓がある

 

 

 

 

 

墓の手前にある説明版

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐々木古志らう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、宮本武蔵ゆかりの地を紹介したが、

その宮本武蔵と巌流島で死闘を演じた佐々木小次郎。

今日は、その佐々木小次郎の祥月命日である。

 

阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称す。

ここには、慶長年間あるいはそれ以前から真言宗・正法寺という古寺がありました。

巌流島の決闘 (  慶長17年 ( 1612年 ) 4月13日  ) で敗れた佐々木小次郎の妻ユキは

キリシタンの信者でした。

当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、

折柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めました。

ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、

夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、

その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたといわれています。

この庵は正法寺が太用寺に移った跡地に、

ユキ尼が小さい庵を建てたとも言われています。

我が子に対する因果応報の絆を断ち切るために、

小次郎の名を 「  古志らう  」 と変えて墓に記したとの言い伝えです。

小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、

今も佐々木姓を名のる家が地区内に数軒有り、末裔かとも言われています。

小次郎の墓の上の段には六面石 一基があり、妻ユキが信じていたバテレン墓と思われます。

その隣りには粟屋元吉公の墓がありましたが、昭和53年に太用寺の境内に移されています。

 


福岡県福智町 ・ 宮本武蔵ゆかりの常立寺「 小原信利と妻の常光院の墓碑 」

2021-04-11 09:41:17 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

福岡県福智町にある 「 常立寺 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮本武蔵が剣の道場を開いた寺の境内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小原信利と妻の常光院の墓石碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

香春岳城の戦いで戦死した小原信利の墓石碑

 

 

 

 

信利の妻の常光院の墓石碑

 

 

 

 

 

福智町金田にある 「 宮本武蔵の碑 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮本武蔵の兄、大山吉久が建立したとされる常立寺

常立寺の境内に、天正15年正月に香春岳城攻撃戦で討死した

小原上野守信利の墓があります。

墓は信利の孫である大山吉久、宮本伊織、小原玄昌、田原正久らによって、

承応3年 ( 1654 ) に創建されました。

大山吉久等は剣豪宮本武蔵の甥で、宮本伊織は養子となり、

小笠原藩の家老となっています。

また、境内で宮本武蔵が剣の道場を開いたとも伝えられています。

 

その宮本武蔵の碑だが、

今から約10年ほど前に田川郡福智町金田で 「 宮本武蔵の碑 」 に出会った。

岡山県の美作や熊本の金峰山などで見かけるのならば分かるが、

「 まさかこんなところで 」 という感じだっただけに、

その出会いは  “  予期せぬもの  ”  だった。

その碑には、こう彫られてある。


宮本武蔵は養子伊織の祖父 小原信利が天正十五年

香春岳城攻撃のとき 討死し

その墓が常立寺にあったので武蔵は小倉の伊織宅に居た寛永九年から

八年の間 菩提を弔うため再三この地を訪れて武芸や禅を伝えた。

 


大分県中津市耶馬溪町 「 姫塚 」

2021-03-29 08:52:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国道212号線沿いにある 「 姫塚 」 の案内板

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国道212号線を中津から日田に向かって耶馬渓高校を過ぎると

右側に姫塚と書かれた案内板がある。

 

中津城で宇都宮鎮房が謀殺されたのを奥殿で聞いた千代姫と従女達は

逃げだそうとしましたが黒田の家臣達に捕らえられてしまいます。

がしかし幾人かの従女たちは混乱のなか、中津城を脱出します。

逃げ延びたのは十数名といいます。

従女達は山国川をのぼり、山国街道の間道をつたい耶馬溪口ノ林にある

宇都宮家分家の菩提寺専光寺まで逃げ延びようとします。

足を血に染め専光寺に逃げ延び着いたのはその日の真夜中だといいます。

詳細を聞いた住職は仏間でしばしの眠りにつかせます。

しかし夜明け近くに人馬の音が響いてきます、

黒田の追い人と悟り、危険を感じた住職はただちに従女達を起こし、

寺の裏から細道伝いに川沿いの畑の方に逃がします。

しかし、黒田の追っ手は逃げ行く従女達を見つけ、

畑の中で従女達を切り殺してしまいます。

この従女達を憐れに思った住職と里人達は畑の中に小さな石塚をつくり、

手厚く葬ったそうです。

この塚は姫塚とよばれ、地域の人々により近年まで手厚くまつられている。

 


熊本県大津町 「 第十一代 横綱不知火光右衛門の墓 」

2021-02-24 17:16:00 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊本空港がある高遊原から阿蘇方面に向かって坂を下りると大津町陣内に出る。

その県道207号 ( 瀬田竜田線 ) 沿いに不知火光右衛門の墓がある。

墓の横にはギョっとするくらい大きな土俵入りする関取が目に入る。

 

これは余談になるが、熊本県の宇土半島の裏側にある不知火町の永尾神社から

八代海に浮かぶ不知火が見える。

その不知火から四股名を取ったのかどうかは定かではないが、

この宇土半島でよく練習をしていた頃を思い出す。

 


山口県阿武町 「 キリシタン六面観音 ( バテレン墓 ) 」

2020-12-24 16:22:39 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称します。

ここは、慶長年間あるいはそれ以前から真言宗・正法寺という古寺がありました。

巌流島の決闘( 慶長17年(1612年)4月13日 )で敗れた佐々木小次郎の妻ユキは

キリシタンの信者でした。

当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、

折柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めました。

ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、

夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、

その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたといわれています。

 

この庵は正法寺が太用寺に移った跡地に、ユキ尼が小さい庵を建てたとも言われています。

我が子に対する因果応報の絆を断ち切るために、

小次郎の名を  「 古志らう 」 と変えて墓に記したとの言い伝えです。

小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、

今も佐々木姓を名のる家が地区内に数軒有り、末裔かとも言われています。

小次郎の墓の上の段には六面石 一基があり、

妻ユキが信じていたバテレン墓と思われます。

その隣りには粟屋元吉公の墓がありましたが、

昭和53年に太用寺の境内に移されています。

 


山口県萩市 ・ 萩大島 「 七名塚 ( チンチキ堂 ) 」

2020-12-11 16:53:18 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉時代の初めに七名の平家の落人が海を渡って来て、

ここに住み着き、島の始祖となったと言われている。

その子孫たちの努力によって大島の礎が築かれたとされる。

 

七名塚には五輪塔、宝篋印塔などが残されている場所があり、

1440年頃の寺と墓地の跡ではないかとみられている。

夜に鐘が鳴るという言い伝えから、

この場所を 「 チンチキ堂 」 と呼ぶようになったといわれている。

ちなみに流れ着いた七名は、豊田、貞光、池部、国光、長岡、刀祢、吉光の七姓で、

現在でも萩大島には多い苗字である。

 


山口県阿武町奈古  「 尼子義久の墓 」

2020-11-10 16:27:48 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四菱の家紋に囲まれた義久の墓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓の下の池にある供養塔

 

 

 

 

 

尼子義久は、戦国時代に中国地方11カ国を制圧した

山陰の勇将・尼子経久の曾孫に当たります。

父・晴久の代までは、出雲の守護としての威風を誇っていました。

しかし、義久の代になると毛利元就の台頭によって、

本拠である出雲国に侵攻を許し、永禄9年 ( 1566 ) には月山富田城が落城、

ついには毛利氏の軍門に降りました。

義久は安芸長田の円明寺に幽閉された後、

関が原の合戦に敗れた毛利輝元の長州転封に従って、阿武町奈古に移住。

この地で千石余りの給付を与えられ客分として過ごし、

後に出家して 「 友林 」 と称すが、

慶長15年 ( 1610 ) に70年の生涯を閉じた。

義久が帰依した光応寺の住職・恵心和尚は、

義久の法号 「 大覚寺殿 」 によって寺号を 「 大覚寺 」 と改め、

同寺には義久の位牌と木像が寺宝として保管されています。

境内の裏山には四菱の家紋に囲まれた義久の墓が、

400余年経った今もひっそりと佇んでいる。

また、子孫によって保管されていた尼子氏を代表する武将・尼子経久と晴久の肖像画は、

県指定有形文化財として、現在は山口県立博物館に保管されている。

 


福岡県嘉麻市 「 一夜城 ・ 益富城 」

2020-10-27 16:21:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

10月下旬から11月上旬の期間限定で見られる一夜城

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お城への登り口にも城が飾られている

 

 

 

 

登り口付近から見える一夜城

 

 

 

 

 

一夜城の裏側は丸鋼とクランプで組まれた足場に城が描かれたコンパネを固定している

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一夜城のある場所から見た下界

 

 

 

 

 

筑豊地区には戦国時代、豊臣秀吉の九州平定ゆかりのいくつかの山城があります。
「秀吉の一夜城」として知られる嘉麻市の益富城もその一つです。

時は一五八七年四月、秀吉は九州征伐のため家臣、

浅野長政、加藤清正、石田三成らの諸将を従え、

三十余万の大群を率いて小倉に上陸しました。

その時の益富城には秋月種実がいましたが、秀吉軍のあまりの勢いに恐れをなし、

一戦も交えずに古処山にある本城に逃れていました。

種実は、秀吉の軍勢がいつ攻め込んでくるのか気が気ではありませんでしたが、

ふと向かいに見える益富城下の大隈町の方に目を向けると、

驚きの声を上げてしまいました。

眼下に広がる炎の群れは、満天の星のごとく輝き、

秀吉の軍勢で埋め尽くされたように見えました。

しかも、夜が明けると一夜にして見慣れぬ城が出来上がっていて、

そこから流され落ちる水はまるで滝のように見え、秋月の軍勢には大きな驚きでした。

これを見た種実は 「 一夜にして城を築くとは、

秀吉という人は人間に非ずして鬼神なり 」 と戦意を喪失し、豊臣方に下りました。

 

眼下に広がるキラ星の如き炎は秀吉がたかせた篝 ( かがり ) 火、

突如出現した城は戸板やふすま、畳を集めて作った見せかけの城でした。

また滝のごとく流れ落ちる水は、白米を流させたものだったと言われています。

秀吉は大いに喜び、協力した大隈町民に対し愛用の陣羽織と佩刀を与え、

お墨付きをもって永年貢税を免除しました。

 


山口県萩市  「 道の駅 ・ 萩往還の御門 」

2020-08-20 16:02:20 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

萩往還は、江戸時代に開かれたもので、萩城主や藩主。

さらに庶民にとって重要な交通路だった。

萩往還は、萩城主の毛利氏が慶長9年、参勤交代の際、

江戸に向かうための 「 御成道 」 として開かれ、

山陰と山陽をほぼ一直線で結ぶこの道は、

当時の庶民にとっても重要な交通路であった。

その全長は53キロで、険しい山道を超える場所もあった。

 


山口県下関市  「 安徳天皇阿弥陀寺陵 ( あんとくてんのうあみだじのみささぎ ) 」

2020-06-10 16:09:13 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

赤間宮入り口を左に入った場所にある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤間神宮の安徳天皇阿弥陀寺陵 ( あんとくてんのうあみだじのみささぎ ) は、

1185年 ( 元暦2年 ) 3月24日に崩御した安徳天皇の御陵。

1889年 ( 明治22年 ) 、陵墓と決定された。

 


山口県下関市  「 平家塚 」 ・ 奄美大島 有盛 行盛 加計呂麻島 資盛

2020-05-18 16:46:28 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

耳なし芳一の 「 芳一堂 」 の奥にある平家一門の墓

 

 

 

 

 

 

 

高浜虚子の「 七盛の墓包み降る 椎の露 」 

 

 

 

 

 

平 資盛や有盛の墓がある

 

 

 

 

 

高畑は壇ノ浦を臨む山の上にあり、

壇之浦の合戦に敗れた平家の人々が落ちのびたと伝わる集落である。

「 平家塚 」 と刻まれた碑の横をさらに奥へ進むと、

平家七盛の墓石がひっそりと建てられている。

この地は 「 平家藪 」 と呼ばれ、

かつてはここに入ると祟りがあると言われていた。

旗かけの松は、平家の落武者が赤旗を立てかけたと言われる松で、

当時の松は枯れたが、新しい松が植えつがれている。

 

 

 

奄美大島の浦上グスクにある 「 有盛神社 」

 

 

 

 

有盛神社の入り口

 

 

 

 

 

有盛神社の上にある 「 平 有盛の墓 」

 

 

 

 

 

戸口ひらきやまグスクを築いた平 行盛を祭った行盛神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加計呂麻島の諸鈍にある大屯神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大屯神社にある 「 平 資盛の墓 」

 

 

 

 

喜界島にある 「 平家上陸の地碑 」

 

 

 

 

 

喜界島の平家森グスク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

喜界島の志戸桶にある資盛の居城 「 七城 」

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、奄美大島の行盛や有盛の墓。

さらには加計呂麻島の諸鈍にある資盛 ( すけもり ) の墓を訪れ、

喜界島の七城や平家森と呼ばれるグスクに行った。

 


山口県下関市  「 本陣伊藤邸跡と明治天皇西国行幸 / 在所行手洗鉢 」

2020-05-04 16:58:28 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治天皇西国行幸 ・ 西郷隆盛供奉 / 在所行手洗鉢

 

 

 

 

本陣伊藤邸跡に残る井戸

 

 

 

 

 

赤間神宮にほど近くに本陣伊藤邸跡がありますが、

現在この場所には何も残っていません。

長府藩の本陣をつとめていた豪商伊藤家は

鎌倉時代から続く名と言われていましたが、

地元の者でさえその存在をあまり知らず、

ほとんど気にも留められていない場所でした。

そんな場所が一躍有名になったのは、

NHKの大河ドラマ 「 龍馬伝 」 に登場したからに他ありません。

坂本龍馬は生涯を通じて下関には何度も訪れており、

当時の伊藤家の当主助太夫 ( 九三 ) と親交があったため、

伊藤家に滞在することが多かったといいます。

1867(慶応3)年1月ごろからは妻お龍とともに伊藤家に寄宿するようになりました。

龍馬はこの部屋を自然(じねん)堂と名づけ下関での本拠地としました。

しかし龍馬はここから京都へ旅立ち、同年11月には京都の近江屋で暗殺されます。

お龍はその知らせをこの自然堂で受け取ったのです。

本陣伊藤邸跡は龍馬にとって縁の深い場所であり、

龍馬ファンにはたまらない聖地のひとつになっています。

 

下関駅・唐戸エリアは、中世より九州や大陸へ渡航する船が出入りする港町として栄えてきました。

これまでの歴史の中で有名・無名問わず様々な人が行き交い、

留まり、この地に多くの足跡を残してきした。

そのため、唐戸エリアには様々な時代の史跡が存在しています。

下関の中でもとりわけ多くの観光スポットが唐戸エリアに集中しているのは、

明治の市制施行以来、市役所をはじめとして主要な施設がこの地に建てられ、

下関市の中心地となっているためです。


山口県萩市 ・ 萩城内 「 花江茶亭 ( はなのえちゃてい ) と 梨羽家茶室 」

2020-04-20 17:48:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花江茶亭は、旧三の丸にあった13代藩主・毛利敬親の別邸

花江御殿内にあった茶室 「 自在庵 」 を、

明治22年 ( 1889 ) 頃に指月公園内に移築したもので、幕末の多事多難のおり、

この茶室で敬親は支藩主や家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、

国事を画策したといわれています。

建物は木造入母屋造り茅葺き平屋建てで、

桁行6.84m、梁間3.62m、本床と脇床がついた4畳半の茶室と、

3畳の水屋からなっています。

移築の際、瓦葺きの平屋一棟が控の間として増築されました。

【 萩市指定有形文化財 】

 

 

 

 

梨羽家茶室 ( 煤払いの茶室 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正式な座敷構えを呈した毛利家の重臣・梨羽家の茶室


梨羽家茶室は、萩城内、花江茶亭の隣にある、毛利家の重臣・梨羽家の別邸茶室で、

もともと上津江の藩寄組3,218石余りを領す梨羽氏別邸にあったものを

明治時代に移築したものです。

隣接の花江茶亭のような遊興の茶室ではなく、

正式な座敷構えを呈した格式のある茶室で、

木造桟瓦葺入母屋造り、花月楼形式を今に伝える名茶室です。

城内の年末大掃除の際、藩主は城を出て重臣の邸によける慣例があり、

茶室などに藩主を迎えたので、

別名 「 煤払 (すすはら ) いの茶室 」 とも呼ばれています。

 

 

 


山口県萩市  「 萩城天守閣跡 」

2020-04-16 19:09:57 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

内堀奥の石積みが天守閣跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城内にある 「 毛利輝元の像 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守閣跡に続く石段

 

 

 

 

天守閣跡

 

 

 

 

束が遺る天守閣跡

 

 

 

 

天守閣跡から見た内堀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

萩城は慶長9年 ( 1604 ) に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、

別名・指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、

本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。

本丸には高さ14.5mの五層の天守閣がありましたが、

明治7年 ( 1874 ) に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、

現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されています。

旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、

総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備されました。

城跡の構造をよく残していることが特徴で、

園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があります。

また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、

家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室 「 花江茶亭 」 が、

明治22年に園内に移築されています。

 


山口県萩市  「 女台場跡 ( 菊ヶ浜土塁 ) 」

2020-04-06 17:18:23 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女台場跡 ( 菊ヶ浜土塁 )は、

外国船からの襲撃に備え住民たち自らの手で築いた土塀で、

文久3年 ( 1863 ) 5月10日、尊皇攘夷を掲げる長州藩が、

下関・関門海峡を通過する外国船を砲撃するという事件がありました。

この事件をきっかけに、

萩の住民の間にも 「 自らの手で城下を守ろう 」 とする機運が高まり、

外国船からの襲撃に備えるため、

萩藩は日本海に面した菊ヶ浜に土塁の築造するよう住民に命じました。

武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕作業し、

この時ばかりはめったに外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までが参加しました。

土塁の築造にあたって特に武士の妻や奥女中の功績が大きかったため、

通称 「 女台場 」 と呼ばれています。

現在も高さ3m、幅12mの土塁の一部が50mにわたって残り、石碑が建っています。

 【 萩市指定史跡 】