マルコ・ド・ロ神父と中村近蔵の胸像
「 道の駅・夕陽ケ丘・そとめ 」 から見た台風の中の「 出津教会堂 」
所在地 / 長崎市西出津町
竣 工 / 1882年 ( 明治15年 )
設計者 / マルコ・ド・ロ神父
教会の保護者 / イエズスのみ心
この教会堂の創建から始まって二度の増改築の設計施工に携わった
ド・ロ神父は建築の専門学校を出ていないが、
父の住むフランス・ノルマンディーの広大な敷地内の建築や
土木工事の手伝いをしたことによって施工技術を身に付け、
神学校時代に建築学の基礎を学んだのではないかと言われている。
同神父が設計や施工に関わった建物で現存しているものは、
出津教会堂の外に大浦天主堂の敷地内にある旧羅典神学校、旧長崎大司教館
そして外海町内にある出津救助院、同鰯網工場、大野教会の6件ある。
旧浦上天主堂(大正4年竣工)などの建設にも、
なんらかの形で関わっていたといわれている。
ド・ロ神父の設計・施工した建物は、装飾は極度に避け、
使い勝手を主眼とした質実剛健なものとなっている。
設計にあたったっては、その土地の自然環境を考慮し、
資材もその土地のものを有効に利用している。
低い屋根、太い柱あるいは漆喰塗りの煉瓦造りなどは
台風の襲来に対するものであったし、
神父が独自に考案したド・ロ壁(大野教会や救助院跡の外壁)は、
地元の雲母岩と石灰、砂で固めたものであった。
同神父は自身が設計した大浦にある旧長崎司教館の建設現場で、
施工監督中に高所から転落し、これがもとで持病が悪化し、
大正3(1914)年永眠した。
行年74歳であった。同神父の墓は出津・野道の教会墓地内にある。
出津教会堂の平面は長方形で、平側37.6m、妻側11.6mあり、
その面積が436.16㎡となっている。
西側に半円アーチの開口部が3つある吹き放ちの前廊があり、
前廊中央奥に正面入口がある。
内部は幅5.2mの身廊とその両側に3.2mの側廊からなる3廊式会堂で、
身廊と側廊の境界部両側に4.2m間隔で7本の柱が並び、
6本目と7本目の列柱の中間から奥は床が一段高くなり、内陣及び後陣となる。
側廊部の突き当たりは湾曲した壁が立てられ脇祭壇が設けられている。
身廊部の突き当たりは側廊部より奥まって半円形の後陣があり、
中央祭壇が置かれている。
後陣の背後は祭具室で、東側中央に出入口がある。
列柱の2~3本目、5~6本目の両側廊部に脇出入口が設けられている。
正面入口を入ってすぐ右側に前廊との境界壁に沿って
楽廊に登る階段が付けられている。
楽廊は身廊の幅で、列柱2本分の奥行きがある。