「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市  「 末吉宮燈道橋 」

2018-05-22 16:26:41 | 沖縄の石橋



高く頑丈に積まれた石積みの下を潜るようにある








高架な本殿に続く燈道







城壁のように高く頑強に積まれた壁石







なだらかな曲線を描いた二枚の石で組まれた輪石







一枚の琉球石灰岩を曲線に加工して組み合わせている







正方形の石を布積みで積んだ橋脚部







チャーギ山の頂部付近にある末吉宮





所在地  /  沖縄県那覇市首里末吉町 1丁目
架橋  /   1456年だが、戦後復元
石工  /   不明
長さ   /    ?m  幅   /  4.5m
拱矢  /   0.6m 径間  /  1.8m
環厚  /    25㎝   単一アーチ



末吉宮は首里城北の末吉の丘陵にあり、
尚 泰久王の時代に天界寺の住持であった鶴翁 ( かくおう ) 和尚が
熊野権現を歓請したのが末吉宮だといわれている。

官社であった琉球八社の一つで、
神仏混合、本地垂迹の信仰のあり方の伝来を示している。
本殿は三間社流れ造りで、前面に向拝 ( こうはい ) があり、
向拝の前方にはアーチ型の石橋が架けられ、
切り石を積み上げて造られた燈道につながっている。
沖縄戦によってこれらの遺構は壊されたが、
現在燈道と社殿が復元されている。
燈道に続く参道として長い石畳道があり、
周辺には拝所が数ヵ所存在する。
そんな末吉宮の高い石積みの下を潜るように設置されているのが
燈道橋である。
壁石は首里城の城壁のように高く、そして頑丈に造られている。
アーチを形成する輪石は一枚の琉球石灰岩を巧みに削り、
見事なまでに曲線を描いており、
それを支える橋脚は、正方形に加工された布積みでキレイに組まれている。



末吉宮燈道橋へのアクセス
末吉宮燈道橋へは、沖縄のモノレール 「 ゆいレール 」 の市立病院前駅で下車し、
末吉公園の中を通って坂道を左に登って行き、ヘアピンを過ぎてから
左に入って行く道の入り口に 「 史跡・末吉宮 」 という石碑が建っている。
そこから歩いて200mほどでお宮に行き着く。
ちなみに所要時間は末吉宮まで片道約15分くらい。
駐車は、末吉公園内に駐車場が完備されている。


沖縄県読谷村  「 マチ矼 」

2018-02-11 16:38:38 | 沖縄の石橋
























































『 マチ ( 巻 ) 』 とは、
沖縄方言で 『 つむじ 』 『 うず 』 を意味していて、
『 マチ矼 』 という名は、矼 のアーチの形状に由来するものだと思われる。
昔は、このような形の矼を一般的に 『 マチ矼 』 と呼んでいた。

マチ矼は、残波岬近くの宇座海岸にある切石積みのアーチ橋で、
橋は強固に造られており、ダンプカーが往来しても
アーチ部分が崩れることがなかった。

この橋は、1951年の築造で、
石材は目の前の宇座海岸から切り出したものを使用している。
読谷村の西海岸には広大な石切場跡が残っており、
宇座でも大正時代から昭和時代にかけて建築資材として切り出し、
中頭一帯に販売していた。

マチ矼は宇座の良質な石材と
高度な石工技術が生み出した希少な石造建造物である。
2006年に周辺の遊歩道の整備にあわせ修理がおこなわれ、
美しいアーチを見ることが出来る。


沖縄県浦添市  「 安波茶北橋 」

2017-11-17 13:02:02 | 沖縄の石橋



欄干だけ見ると桁橋に見える









歴史の道として石畳が続いている








広い石が使われているアーチ内部








馬蹄形のアーチ内に危険防止の金網が張られている








校門から歩いて行くと橋の入り口路標がある








手前の南橋と並んで架かっている








安波茶南北の橋がある浦添工業高校の入り口






所在地 /   沖縄県浦添市安波茶
架橋  /   1597年架橋、破壊後平成10年修復
石工  /   不明
長さ   /   3.4m  幅   /   1.9m
拱矢  /   0.6m  径間  /   ?m
環厚  /    25㎝   単一アーチ


安波茶橋は浦添工業高校の下の谷に北と南の橋が並んで架かる橋で、
北橋は小湾川に流れ込む支流のアブチ川に架かっている。
北橋はアーチ橋になっているが、欄干の切り石が直線的に敷設されているため、
どことなく桁橋にも見える。
そんな北橋も下から見ると馬蹄形をしたアーチを見る事が出来る。
南北の橋はともに沖縄戦において破壊され、平成10年に修復したものである。

安波茶橋と石畳道は1597年に尚 寧王の命で
浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたと考えられる。
首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来で賑わい、
国王もこの道を通って普天間宮に参詣していたといわれている。


安波茶北橋へのアクセス
安波茶北橋へは、県道153号線を経塚から安波茶に向かって行き、
安波茶に入ってすぐ安波茶のバス停手前から左に
浦添工業高校に入る道がある。
そこから入ったところが浦添工業高校校門になる。
ここから先は進入出来ないので、校門近くの広くなった場所に駐車して、
橋まで歩いて行った。橋までは徒歩で約1分。


沖縄県豊見城市  「 真玉橋 ( まだんばし ) 」

2017-10-25 11:11:11 | 沖縄の石橋



道路側にある路標と真玉橋の説明板










真玉橋について書かれた説明板








琉球王朝時代の真玉橋







橋側のアーチは一部に現在の石が使われている








橋の規模からすると意外と薄い輪石







橋の内部はきれいな曲線でつながれている








陸側のアーチは昔日の面影を醸し出す








城壁のような大きな石で組まれた橋脚







豊見城市側から現在の真玉橋を望む







道路沿いに移設復元された2つのアーチが並ぶ






所在地 /   沖縄県豊見城市真玉橋
架橋  /   1708年
石工  /   不明
長さ   /   不明   幅   /  不明
拱矢  /   不明   径間  /   不明
環厚  /   不明    6連アーチ



真玉橋は国道329号線と県道11号線の交差する場所にあり、
現在の真玉橋は国場川にコンクリート製の橋で架かっているが、
昔の石橋は、豊見城市側の橋の袂に
2つのアーチ部分が移設復元されている。
橋のアーチを見ると橋台となる部分の石は
城壁のように大きな石が使われているが、
輪石は意外と薄い石が使用されている。

豊見城教育委員会によると真玉橋は、
1522年に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として架けられたもので、
その橋は木橋の五連橋であった。
橋の中央を真玉橋といい、南側が世持橋、北側が世寄橋、
そして両端は名前のない橋であった。
1707年に木橋から石橋への改築工事が開始され翌年完成した。
その後、1837年に世寄橋を改築し、
その北側へ新たな世済橋を築き六連の石橋となった。

真玉橋は大きく美しい曲線をもつアーチを連ね、
水流から橋を守るために橋脚にはスーチリー ( 潮切り ) を設けるなどして、
構造的にも景観的にも沖縄独特の石造文化を代表する橋であったが、
1945年の沖縄戦によって破壊されている。
1996年に、戦後造られた橋の改修工事にともなう発掘調査によって
戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方で見つかり、
戦後半世紀を経て再び風格ある 「 真玉橋 」 が姿を現した。

この橋を後世のために保存しようと住民運動が展開された結果、
豊見城市側の一部を移設保存している。


 「 重修真玉橋碑文 」 から

 真玉橋は1522年 ( 嘉靖元年 ) に首里城ならびに
軍事的要衛である那覇港および那覇一帯を防御する
目的として第二尚氏第三代国王、尚 真によって架けられた橋です。
また、琉球王府時代には首里王府と南山 ( 島尻地方 ) とを結ぶ
交通の要所 ( 宿道 ) でもありました。

 1707年に改築工事が開始され翌年には
木橋から石橋に架け替えられました。
1809年に大雨のために川が氾濫し、
世寄橋が破損したため仮の木橋を架けたが再び破壊されました。
その後、1836年に世寄橋を改築し、
その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は終了しました。

 「 重修真玉橋碑文 」 は二度にわたる改修工事を記念して
1837年に建てられた碑で、
戦前までは橋の近くにありましたが、沖縄戦により破壊されました。
その残存資料は1995年3月に市有形文化財に指定され、
現在は豊見城市歴史民俗資料展示室に展示されている。

 祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、
1978年地元真玉橋K自治会を中心に
「 重修真玉橋碑文復元期成会 」 が設置されました。
その後、多くの資料収集を行い1980年に
「 重修真玉橋碑文 」 が復元されています。
 碑文は漢文で表面には二度にわたる改修工事が記され、
裏面にはその工事に費やした人夫、工銭等が記されています。
工事にかかわった人数は最初の工事で石工8918人、
人夫が35ヶ間切りから83676人、
二度目の工事は石工10258人で、
人夫78226人と多くの人々がかかわっています。


真玉橋へのアクセス
真玉橋へは、那覇市と豊見城市の境界を流れる国場川に架かる
現在の真玉橋の豊見城側にある。
駐車は、橋の袂の道路の広くなった場所に駐車した。


沖縄県浦添市  「 安波茶南橋 」

2017-10-03 12:47:43 | 沖縄の石橋



どことなく中国の水墨画に出て来る橋のようである









橋への降り口から見ると南北両方の橋が見れる ( 手前・南橋 )








輪石から欄干まで緩やかな弧を描く








測ったようにきれいに切られた石が並ぶ








スッキリした造りの内部







通路部は石畳で構成されている







安波茶の南北の橋がある浦添工業高校の入り口






所在地 /   沖縄県浦添市安波茶
架橋  /   1597年架橋、平成10年修復
石工  /   不明
長さ   /   7.0m  幅   /   3.7m
拱矢  /    ?m   径間  /   ?m
環厚  /    ?㎝   単一アーチ



安波茶橋は浦添工業高校の下の谷に北と南の橋が並んで架かる橋で、
南橋は小湾川に架かっている。
南橋の緩やかに流れる曲線は、
どことなく中国の水墨画に出て来そうなフォルムをしている。
南北の橋はともに沖縄戦において破壊され、
平成10年に修復したものである。

安波茶橋と石畳道は1597年に尚 寧王の命で
浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたと考えられる。
首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来で賑わい、
国王もこの道を通って普天間宮に参詣していたといわれている。


安波茶南橋へのアクセス
安波茶南橋へは、県道153号線を経塚から安波茶に向かって行き、
安波茶に入ってすぐ安波茶のバス停手前から左側に浦添工業入る道がある。
そこから入ったところが浦添工業高校校門になる。
ここから先は進入出来ないので、校門近くの広くなった場所に駐車して、
橋まで歩いて行った。橋までは徒歩で1分。


沖縄県那覇市  「 識名園六角堂橋 」

2017-09-12 10:32:01 | 沖縄の石橋



橋の円弧が水面に瓢箪型に映る









六角堂に渡るために架けられた石橋








前後の踏み段以外は一つの琉球石灰岩をくり抜いた無垢のアーチ橋







きれいな円とスパッと切り揃えられた階段が美しい







階段の角と庭の造形のコントラストに味がある







「 あづまや 」 として造られた六角堂





所在地 /   沖縄県那覇市真地 ・ 識名園内
架橋  /   18世紀末期
石工  /   不明
長さ   /   不明   幅   /  不明
拱矢  /   不明   径間  /   不明
環厚  /   不明   無垢の彫り切り単一アーチ



那覇市真地にある識名園は首里城の南、約2キロの台地にある庭園である。
1800年ごろ琉球王国の別邸として造られたもので、
首里崎山の御茶屋御殿を東苑と呼ぶのに対し、南苑とも言われている。
庭園は 「 心 」 の文字を崩した形の池を中心に、
御殿・築山・花園・果樹園・樹林・弓道場などを結ぶ園路からなっている。
池には大小二つの中島があり、
大形の中島には中国風の二つの橋が架けられている。
小形の中島には六角形の建物があり、
池の北側には水源にもなっている育徳泉がある。
その六角堂へ渡るために架けられた橋が六角堂橋で、
琉球石灰岩の一枚岩を削って円と角を融合させた貴重な橋である。
また園の南西側には勤耕台と呼ばれる見晴らしの良い場所がある。


識名園へのアクセス
識名園へは、識名開南線、松川新都心線、識名牧志線、
それぞれの識名園前のバス停から徒歩1分。
レンタカーは、識名園入り口に駐車場がある。


沖縄県浦添市  「 当山の石橋 」

2017-07-28 11:02:08 | 沖縄の石橋



























































所在地 /   沖縄県浦添市安波茶
架橋  /   1735年ごろに木橋から石橋に変更説
石工  /   不明
長さ   /   5.8m   幅   /   3.2m
拱矢  /     ?m  径間  /   ?m
環厚  /    ?㎝    単一アーチ


当山の石橋は、浦添大公園の下を流れる牧港川に架かる橋で、
橋までの道は石畳 「 普天間街道 」 になっており、風情を感じさせる。
橋の造りは一見、内地の神社で見かける参道橋のように中膨らみになっている。
また、通路部には石畳から続いた石が敷かれているため、亀甲を思わせる。
1735年ごろに木橋から石橋に代わったといわれているが定かではない。
コンクリートの親柱には昭和二十九年と書かれているのは、
おそらく沖縄戦において米軍に破壊されたものを修復した年代ではないかと思われる。



当山の石橋へのアクセス
当山の石橋へは、 「 浦添ようどれ 」 の下にある
浦添大公園から当山方面に行くと、
一番下の写真のように石畳道に降りて行く路標が建っている。
そこから歩いて行くと約300mほどで石橋にたどり着く。
駐車は、石畳のある路標付近の広くなった場所に駐車した。


沖縄県沖縄市  『 メーヌカーガー橋 』

2016-10-01 02:35:30 | 沖縄の石橋



あれだけ激しかった沖縄戦をかいくぐってこうして遺っている








高さはないが幅が広く扁平なアーチで構成されている







後から付けたと思われる高欄はコンクリートで出来ている







輪石の側面は虫歯のように欠けて不揃いである







輪石は、島豆腐のように四角に切られた琉球石灰岩で組まれている







壁石は大きさも形も不揃いだが上手く組んである







路面はアスファルトで普通に生活路として活用されている





所在地 /   沖縄県沖縄市松本 ー 知花
架橋  /   不明
石工  /   不明
長さ   /   11.0m    幅   /   3.7m
拱矢  /      ?m   径間  /   5.2m
環厚  /      30㎝    単一アーチ



メーヌカーガー橋は、沖縄市内の松本と知花の境界の市道に架かる橋で、
住宅街にあって長さが11mもあることに驚いた。
径間の広さから扁平に見えるアーチの頂部は薄く、その上が直に路盤になっている。
それを支える輪石を裏側から見ると、琉球石灰岩をきれいに四角形に切って組まれていた。
それに対し、壁石には大きさや形が違う石が使われている。


メーヌカーガー橋へのアクセス
メーヌカーガー橋へは、カフンジャー橋から知花方面に200mほど行った場所にある
松本の 「 ユニオン 」 のすぐ横を左に入って100mほど下りたところに架かっている。
駐車は橋の手前が広くなっているのでそこに駐車した。


沖縄県那覇市首里赤田町  『 大 ( ウフ ) 橋 』

2016-09-13 02:26:10 | 沖縄の石橋



開口部は小さいが長さが長く造られている








上流側から川の中に降りて行くことが出来る







奥に行くにつれて段々に狭くなっているアーチ







琉球石灰岩で造られた環厚25センチの輪石







橋脚部は大きな石で頑丈に組まれている







上流側には施錠された階段が設置されている







橋の袂に立っている安里川起点の起点標







環状2号線から降りた市道に架かっている





所在地  /  沖縄県那覇市首里赤田町
架橋  /   明治後期?
石工  /   不明
長さ   /     ?m   幅   /     ?m
拱矢  /   0.6m   径間  /   1.8m
環厚  /   25㎝    単一アーチ



沖縄では大きいと書いてウフと読ませる。
この類はグスクでも表現されており、
ウフグスクなる同一名が各所にあるが、
それと同じく、橋でも同じ呼び名が付けられている。

赤田にある大橋は、下原橋から上流に200mほどさかのぼった所に架かる橋で、
ここが安里川の起点となっている場所でもある。
橋の架橋や石工などについて詳細はわからないが、
明治時代の物ではないかと思われる。

この橋の特徴は、アーチが入り口から段々に狭くなっており、
地形的な問題か、あるいは工事が困難な状況から、
このような工法が取られているのだろうが、
こうした工法を用いた石橋は全国的にも非常に珍しいものである。
また、アーチの間口が狭く、トンネルのように延びた長さもこの橋の特徴である。


大橋 ( 赤田 ) へのアクセス
大橋 ( 赤田 ) へは、下原橋の200mほど上流になるため、
下原橋を参考にしてもらいたい。
駐車は、橋の近くの広くなった場所に路上駐車した。


沖縄県那覇市首里赤田町 ・ 南風原町新川  『 下原 ( しちゃーら ) 橋 』

2016-09-03 08:17:41 | 沖縄の石橋



上流側から見た橋の全景









橋の横に立つ石橋を知らせる路標








輪石の一部が痛んでいるがそれでも現役で活躍している








やや斜め勾配になった橋脚








虫歯のようにボロボロになった欄干が歴史を物語る







一見、普通の道に見える下に橋が架かっている







那覇インターチェンジ近くの塔のようなビルの下付近になる






所在地  /  沖縄県那覇市首里赤田町 ・ 南風原町新川
架橋  /   琉球王朝時代 17世紀~18世紀
石工  /   不明
長さ   /   4.0m    幅   /  3.5m
拱矢  /   0.8m   径間  /    ?m
環厚  /   37㎝    単一アーチ


下原(しちゃーら)橋は、那覇インターチェンジ近くを流れる安里川に架かる橋で、
南風原町新川と首里赤田町の境界にあり、
谷になった低地の集落の中にあるので、
一見普通の道だと通り過ごしてしまいそうな場所にある。
橋はかなり古いので、いつの架橋か詳細はわからないが、
琉球王朝時代に架けられた橋だと思われる。

橋脚は土手に合わせたように底部がせり出て勾配がついており、
側面から見るとアーチが蒲鉾型になっている。
壁石は野面で積まれ、輪石は一部痛んでいるが琉球石灰岩で巧みに弧を描いている。


下原橋へのアクセス
下原橋へは、那覇インターチェンジの北側の集落になるため、
県道82号線や環状2号線からも下りて行けるが、
沖縄自動車道の側道から集落に下りて行けば写真のような場所がある。
駐車は、橋の近くの道路の広くなった場所に駐車した。


沖縄県中城村   「 新垣の石橋 」

2016-08-28 06:11:41 | 沖縄の石橋











































所在地 /   沖縄県中城村北上原
架橋  /   昭和17年ごろ
石工  /   不明
長さ   /   3.8m   幅   /   1.75m
拱矢  /    0.3m  径間  /   1.45m
環厚  /    39㎝    単一アーチ



新垣の石橋には、若南原橋から300mほど川沿いを行くと、
石橋が架かる場所にたどり着く。
橋は見るからにどっしりして頑丈そうに見える。
橋は大きさの割りに使用している石のひとつひとつが大きく、
しっかりと組まれている。
いろんな石橋を見るが、この大きさクラスで
こんなに重厚に造られているのは珍しく、
また米軍の攻撃破壊が大きかった沖縄戦において、
こうして架橋当時の姿で残っているのも稀である。


新垣の石橋へのアクセス
新垣の石橋へは、若南原の石橋から
約300mほど川沿いを歩いて行った場所にあるため、
若南原の石橋を参考にしてにしてもらいたい。
駐車は、橋の近くに広くなった場所がある。


沖縄県中城村 「 若南原 ( わかなんばる ) の石橋 」

2016-08-16 02:24:57 | 沖縄の石橋











橋の袂にある説明板







頑丈に組まれた大きな輪石







川の路盤から直接組まれた輪石







草の覆われて壁石などが見えない







枯れ草に覆われているが今も生活の橋として利用されている





所在地 /   沖縄県中城村新垣
架橋  /   新しく架けられた橋
石工  /   不明
長さ   /   3.4m   幅   /   2.9m
拱矢  /     ?m  径間  /   2.2m
環厚  /    26㎝    単一アーチ


若南原の石橋の説明板によると、

若南原一帯はかつて若南川により新垣集落と耕地地帯が分断されており、
生活を営むうえで大変不便であった。
その不便さを解消するために新垣地域の人たちは若南川に橋を造った。
この地点より上流の方には川に大きな平たい石を両岸に架けた簡易な橋が造られていたが、
川幅が広がり橋は川の中に落ちていたため、歴史の道の整備工事の際に新しく橋が造られた。
 
また、下流の方には2基のアーチ型の石橋があったが、
1基は車道整備工事のため平成10年に取り壊されました。

現在、下流に1基だけ残されている石橋は、中城村内で唯一残っているアーチ型の石橋で、
歴史的見地からも貴重な石橋であるということで、中城村の有形文化財に指定されている。
 
現在、ここに架けられているアーチ式の石橋は歴史の道整備にともない
新しく造った橋で、下流の石橋を参考に造られたものである。
以前は、この地点に橋はなく、川の中に大きな石を置き川を渡っていたようである。

と記されているように、この橋は下流の橋を模して参考に架けられたものである。


若南原の石橋へのアクセス
若南原の石橋へは、中城村の新垣の交差点近くにある
新垣第三保育所の先から下に降りて
左側を流れる小川に沿って300mほど行くと橋が架かっている。
駐車は、橋の近くの広くなった場所に駐車して歩いて橋まで行った。



沖縄県那覇市首里当蔵町 ・ 赤平町 「上之橋」

2015-08-03 01:37:41 | 沖縄の石橋





































儀保川の下流に架かる下之橋に対して、上之橋と呼んでいる。
首里城から浦添を結ぶ街道は二本あり、
平良町の太平橋でひとつに合流した首里城から
円覚寺前の道を通って上之橋に延びる道を
「 上道 ( イーミチ ) 」 といい、
首里城下の円鑑池と龍潭間の龍淵橋から安谷川坂を通る道を
「 下道 ( シムミチ ) 」 と呼んでいる。
橋の周囲には野面積みの石垣が残っており、首里の古い佇まいが残っている。

上之橋は、弁ヶ嶽を源流とする 「 儀保川 ( ジーブガー ) 」 に架かる橋である。
周りを民家やアパートが囲っており、
加えて橋のある場所が低くなっているため撮影が困難であった。
上之橋は、下之橋同様に個人の庭先から覗かなければ橋を確認することが出来ず、
撮影条件的にも大変な場所であった。
橋の周りは護岸整備で3面をコンクリート張りにされているが、
橋の部分だけが架橋当時の琉球石灰岩の壁石と輪石が見られる。
橋の上流側はボックスが敷設され、上部は完全に埋めて公園や宅地になり、
その姿は、下流側からしかを見ることが出来ない。



沖縄県糸満市 ・ 沖縄の石橋 「 米須大川橋 」

2015-06-18 01:23:41 | 沖縄の石橋



琉球石灰岩と馬蹄形のアーチが特徴である








橋の上を県道7号線が走る







輪石も壁石も大きな石が使われている








環厚40センチの分厚い石が使われている







アーチ頂部とコンクリートの継ぎ手部分








コンクリートと石橋の継ぎ手橋脚部分








橋の底部にも石が敷かれている






所在地 /   沖縄県糸満市米須
架橋  /   不明
石工  /   不明
長さ   /      ?m   幅   /  6.36m
拱矢  /   2.44m   径間  /   1.8m
環厚  /   40㎝    単一アーチ


米須大川橋は、国道331号線から県道7号線に入って
米須小学校の前の坂を越えた下に架かる橋で、
大川というほどの川でも橋でもなく、
幅が1.8mほどの広さの馬蹄形のアーチ橋があるだけである。

アーチは沖縄特有の琉球石灰岩で組まれており、
橋の割りには大きなサイズの石が使われていた。
架橋は不明だが、
戦後の復興の時に架けられたものではないかと思われるが定かではない。


米須大川橋へのアクセス
米須大川橋へは、国道331号線の米須集落の交差点から県道7号線に入り、
米須小学校を過ぎて峠を下りて100mほどのところに架かっているが、
上からではどこが橋なのか気付き難いので、下流側から覗くと見つけやすい。
橋へも下流側から下りることが出来る。
駐車は、橋のある上流側の広くなった場所に駐車した。



沖縄県八重瀬町具志頭 「 自然橋 ・ ハナンダ 」

2015-05-19 04:23:41 | 沖縄の石橋



沖縄県具志頭 「 自然橋 ・ ハナンダ 」
























新しく設置された 「 説明板 」







現在は歩いて通れるほど草が刈られ整備されている








以前、設置されていた 「 説明板 」








以前立っていた路標








草に覆われてその輪郭が確認できなかったハナンダ








草の奥から僅かに見えるハナンダからはゾッとする霊気が漂っていた













具志頭 ( ぐしちゃん ) 馬場跡がある場所を訊くとハナンダの近くにあるという。
そこで久し振りにハナンダの近くを通ると、
以前はその輪郭が確認できないほど草木に覆われていたが、
今ではそれもすっかり取り除かれてスッキリとしていた。

このあたりの地層は、上層は琉球石灰岩層であり、
その下層は泥炭岩層 ( 方言名・クチャ ) から形成されている。
上層の琉球石灰岩は岩石の特性上湿潤な気候の下では溶けやすく、
その結果、地表や地中にいろいろな溶食地形を造っている。
このような地形をカルスト地形という。

地表の琉球石灰岩が溶けて凹地が出来る。これをドリーネという。
地中の琉球石灰岩が溶けて出来たのが洞穴や鍾乳洞である。

隣接する複数のドリーネの地中の琉球石灰岩が溶けて両者が地中で空洞でつながり、
表層部が残り、それが自然の橋を造る。
これがこの 「 自然橋 」 である。

この自然橋が位置するところは、具志頭南部一帯はもちろん、
東風平町南方富盛 ( ともり ) 一帯の雨水が合流して太平洋に注ぐ水門になっており、
その水がさらにこの自然橋の空洞の部分を侵食して、
天然の大きな太鼓橋が出来たわけである。
地元ではこの自然橋のことを 「 ハナンダ 」 と呼んでいる。

橋の幅員の広いところは9m、狭いところで約6.8m。
橋の長さは27mあり、橋の高さは水際まで約9mとなっている。
径間は西側で11m、広くえぐれた東側では16mで、
下流側の方が上流に比べ、5mばかり広くなっている。
橋脚の側面の長さは南側で約8.4m、北側は9mとほぼ同じくらいで、
これは珍しい自然の生成である。

かつて、この自然橋の下に広い淵があり、これを「ハナンダグムイ」と呼んでいた。
この淵の広さは、東西約23m、南北約11mあり、
淵の中には自然の飛び石が7個造作よく並んでいる。

元禄15年 ( 1702年 ) に成立した元禄国絵図によると、
玉城間切から具志頭間切を通り、摩文仁間切に抜ける一本の道路がみえる。
この道路は玉城間切から新城村に入り、新城村から具志頭村を通り、
この自然橋を渡って摩文仁間切に至ったのである。

そんなことを鑑みると、自然橋は近世琉球時代において、
具志頭間切における重要な交通路であったことを証明している。

              以上、現地にある 「 説明板 」 より



沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭