志賀島は、博多湾と玄界灘を隔てる海の中道の先端に続く
周囲約11キロの楕円形の小島である。
岡松和夫の 『 志賀島 』 は、昭和50年 ( 1975年 ) に発表され、
その年の第74回芥川賞を受賞した作品である。
『 志賀島 』 は太平洋戦争前後の混乱期の博多を舞台に、
作者の分身である青柳 宏と、国民学校の同級生で米軍の銃撃を受け、
視力障害者となった竹元 啓がたどる人生の変遷と戦争の悲劇とを、
少年やその家族を凝視し続けることで描き尽くしている。
このモチーフは、岡松文学の主軸を成しており、
戦時中の博多の街が巧みに描かれ、
九州帝大での捕虜生体解剖事件や福岡大空襲も織り込まれ、
奥深い作品となっている。
「 『 志賀島がみえるねえ。昔のままや 』 不意に竹元が云った。
宏は黙ったままだった。
今日は宏の眼には志賀島は見えなかった。海は靄 ( もや ) に覆われていた。
『 うちが流れついた雁ノ巣の松原までよう見える。美 ( うつく ) しか 』
よく見ると、竹元は眼を閉じているのだった。
『 こうして眼をつぶらんと見えんとやけん 』
竹元はそこから眼を開いた。
竹元は笑った。その笑顔はもうすっかり青年のものだった 」
岡松和夫は昭和6年 ( 1931年 ) 福岡市に生まれる。
旧制福岡中学校、旧制福岡高等学校を経て、東京大学文学部仏文学科卒。
1954年に東京大学文学部国文科に学士入学。
1955年、 「 百合の記憶 」 が
「 文藝 」 全国学生小説コンクール佳作第一席として
青柳和夫の筆名で 『 文藝 』 に掲載される。
この時の佳作同期に大江健三郎がいる。
1956年に国文科卒業。大学院に入るがほどなく池田亀鑑が死去。
翻訳家の平井呈一の姪である瀬山梅子と1957年に結婚。
横浜学園高等学校に勤務。
1959年に 「 壁 」 で第9回文學界新人賞受賞。
1964年に立原正秋が編集長格の同人誌 『 犀 』 に参加。
ほかに加賀乙彦、佐江衆一、後藤明生、高井有一らも参加していた。
1966年に関東学院短期大学国文科専任講師に就任、
1968年に助教授となり、1973年には教授へ昇任。
作家としては1974年、「 墜ちる男 」 で第70回芥川龍之介賞候補、
「 小蟹のいる村 」 で第71回芥川龍之介賞候補となり、
1975年、 「 熊野 」 で第72回芥川龍之介賞候補になり、
翌1976年、 「 志賀島 」 で第74回芥川龍之介賞を受賞した。
1981年、研究者としてブラジルのサンパウロに滞在。
1985年、 「 面影 」 で第12回川端康成文学賞候補となり、
1986年に 『 異郷の歌 』 で第5回新田次郎文学賞、
1998年には 『 峠の棲家 』 で第2回木山捷平文学賞をそれぞれ受賞した。
国文学者としては一休宗純の研究などを行っていた。
2012年1月21日、肺炎のために逝去した。80歳であった。