「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

佐賀県小城市 ・ 灯りと滝の競演 【 清水の滝 】

2013-01-31 00:07:56 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



灯りと滝の競演・佐賀県小城市 「 清水の滝 」

































































































佐賀県小城市にある 「 清水の滝 」 は、全国名水百選の清水川の上流にあり、
別名 「 珠簾 ( たますだれ ) の滝 」 とも呼ばれます。
幅13mの清流が落差75mの崖を垂直に落ちてくるさまは豪快でありながら、美しさを感じさせます。
滝の傍らにある碑は、肥前国主6代鍋島宗教 ( むねのり ) 公が大病を患った時、
病気平癒を祈願して滝にうたれ凍死した藩士倉永清雄をたたえたもの。

この碑は天明7 ( 1787 ) 年に建立されたものですが、
そのころから滝みそぎが広まったそうです。
古くから、観世音菩薩信仰で有名な滝で、
滝壺の降り口にある清水観音宝地院 ( ほうちいん ) は滝うけ行の霊場になっています。

全国名水百選にも選ばれた清流にさらされた鯉を使った鯉のあらいや鯉こくなど、
清水の鯉料理は小城の名物として有名である。

紅葉の時季は竹筒に明りが灯され、灯りと滝のコラボレーションが愉しめる。




沖縄県宮古島  『 宮古神社 』

2013-01-31 00:02:50 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣














宮古神社は由来記などによると、
天正十八年(1590年)、沖縄本島の波上宮より熊野三神が勧請され、宮古権現堂を建立した。
慶長十六年(1611年)薩摩藩による先島検地の際、上奏により瓦葺に改築。
以後、琉球処分に至るまで公費をもって管理された。

敬神崇祖を目的に、町長や白川氏与那覇家、忠導氏仲宗根家などが発起人となって、
大正14年(1925年)に与那覇勢頭豊見親と仲宗根豊見親二柱を祭る町社・宮古神社が創建された。
昭和15年(1940年)に紀元二千六百年記念事業として、
当時荒廃していた両社を「県社・宮古神社」へ昇格を目指し奉賛会を組織。
昭和16年(1941年)宮古権現堂を宮古神社に改称。
宮古神社(旧権現堂)へ町社・宮古神社の二柱の神を増祀。
境内地を西里5番地(現在の境内地)に移し、同19年(1944年)に新・宮古神社へ遷座が行われた。
県社昇格が内定したが、戦災炎上。漲水御嶽に祭神を遷祀。
昭和31年(1956年)、目黒盛定政を増祀。
昭和55年(1980年)、旧境内地(西里1番地)に本殿、拝殿を再興し、遷座祭を斎行。

社殿の老朽化、宮古島市の誕生などの節目を迎え、
平成19年(2008年)、「宮古神社御造営奉賛会」を組織。
平成の御造営に向けて活動を開始する。
平成22年(2010年)に、西里5番地に新社殿が竣工、遷座祭を斎行した。

白川氏の祖である与那覇豊見親は、暴威をふるった与那覇原軍の一員であったが、
目黒盛軍との戦いで負傷を負った。
目黒盛は祭政一致を行い、人々は島の首長と仰いだ。
一方、与那覇は沖縄本島へ逃げた。
3年後、察度王から島の首長に任じられ人貢を始めた。
忠導氏の祖仲宗根は尚 真王に強力してアカハチを討ち、宮古の頭職になった。



沖縄県宮古島  「 平良港下崎北防波堤灯台 」

2013-01-31 00:00:35 | 宮古の灯台







灯台表番号 / 7180.3
ふりがな / ひららこうしもさききたぼうはていとうだい
標識名称 / 平良港下崎北防波堤灯台
所在地 / 沖縄県平良港(下崎北防波堤外端)
北緯  / 24-49-52 
東経 / 125-15-51 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃緑光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 58カンデラ
光達距離 / 4.5海里
地上~頂部の高さ / 9.3m 
平均水面上~灯火の高さ / 13m
地上~灯火の高さ / 9.1m
業務開始年月日 / 平成13年11月19日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)


この灯台は沖にあるため船上からの撮影になったが、
離れているため400mmでもこれが精一杯であった。



鹿児島県鹿児島市 ・ 近代土木遺産 「 旧鹿児島紡績所技師館 ( 異人館 )」

2013-01-30 00:07:15 | 近代化産業遺産・土木遺産

















































































■ 所在地  /  鹿児島県鹿児島市吉野町 
■ 竣工   /  慶応3年 ( 1867年 )
■ 設計者  /  シリングフォード
■ 国指定重要文化財 ・ 国指定史跡



旧鹿児島紡績所技師館は、島津の磯庭園 ( 仙厳園 ) に隣接した場所にあり、
イギリスから招いた紡績工場の技師たちが滞在した本格的な木造洋館である。
一階部分は広く空間を取ってあるコロニアルスタイルの美しいゲストハウスである。

実際以上に広々としたスペースを感じることが出来る開放的な構造になっており、
四面に設けられたバルコニーと多面形のポーチが独特な雰囲気を醸し出している。
敷石などに凝灰岩を使い、細部に連続した造りを施している。
建物自体は初期のものらしく、小屋組みには日本の技術と尺寸が使われている。


旧鹿児島紡績所技師館へのアクセス
旧鹿児島紡績所技師館へは、国道10号線を挟んで向かいになるので
集成館関連遺跡を参考にして頂きたい。
駐車は、異人館前の無料駐車場が利用できる。
入館料は無料で、 ( 9時~5時まで )。
水曜日が休館となっている。


熊本県天草市  『 平尾橋 』

2013-01-30 00:05:36 | 熊本の石橋



上流側から見た平尾橋













下流側から見た平尾橋







補強された路盤に隠れるように架かっている







やや壁石に隙間が出来ている





所在地 / 熊本県天草市楠浦町方原
架橋  /  明治43年 ( 1910年 )
石工  /  不明
長さ   /  13.0m   幅   /  4.2m
拱矢  /   4.7m   径間  /  5.6m 
単一アーチ ( コンクリートで拡幅 )



平尾橋は楠浦町の方原川に架かる石橋で、
架橋は明治43年だが現在も車やバスが通り、
県道の一部として活躍している。
路面はコンクリート舗装、欄干はガードレールに替わっているため、
眼鏡橋だと気付かない人も多いが、
橋の側面から見るとその姿を見ることが出来る。



沖縄県宮古島  「 平良港南防波堤北灯台 」

2013-01-30 00:03:59 | 宮古の灯台




























灯台表番号 / 7180.6
ふりがな / ひららこうみなみぼうはていきたとうだい
標識名称 / 平良港南防波堤北灯台
所在地 / 沖縄県平良港(南防波堤北端)
北緯  / 24-48-39
東経 / 125-16-10
塗色 / 赤色
灯質 / 単閃赤光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 71カンデラ
光達距離 / 4.5海里
地上・平均水面上~頂部の高さ / 5.6m 
平均水面上~灯火の高さ / 9.8m 
地上・水面上~灯火の高さ / 5.35m
業務開始年月日 / 平成11年3月18日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)






宮古島・東平安名埼 「 マムヤの墓 」

2013-01-29 00:09:29 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



宮古島東平安名崎にある 「 マムヤの墓 」















美人だったマムヤ







道路側から見ると普通の大岩にしか見えない






マムヤの墓の近くにある東平安名崎灯台






マムヤの墓下にある海岸












昔、沖縄の島々を按司(あじ)と呼ばれる豪族達が支配していた頃の話である。

 その頃大和からはるばると遠い宮古島まで落ち延び、
東平安名崎(ひがし へんなざき)に近い保良(ぼら)の村に住む女がいました。
平家の落人で名前をマムヤといい、大変美しい女で機織りが上手でした。

このマムヤの輝くような美しさが噂になると、宮古の島々の按司や役人達
は、
ぜひ妻にしたいとマムヤの家を訪れ、争うようにして結婚を申し込んだが、
マムヤは、どんなに宝を積まれて申し込まれても、
「お志し、誠にありがとうございます。けれども私はこのまま一人でいたいのです」 と、
どの按司にもはっきりと断りました。

それでも按司達がマムヤの家に通ってくるのをやめなかったので、
マムヤは 突然姿を隠してしまいました。

 ある日、宮古島の按司でマムヤの住む保良や近くの村々を支配している
野底 按司(のそこあじ)が、東平安名崎の近くの海に行き、
家来達に網で魚を取らせていました。
海に細長く突き出た東平安名崎には、荒々しい大平洋と東シナ海の波が激しく打ち寄せ、
岬の断崖の上には、白い百合(ゆり)の花が咲き乱れていました。
その岬の下のグスフカーと呼ばれる泉に近い所まで来た時、
岬に打ち寄せ る波のとどろきに交じって、微かに機を織る音が聞こえてきました。

 野底按司は、「こんな人も住めない岬で、機を織る音がするとは・・・
お前達にもあの機の音が聞こえるだろう。すぐに手分けして捜せ!」 と命じた。

 早速家来達は捜してみましたが、機織りの音は、岬の下の方から聞くと
上から聞こえ、上から聞くと下から聞こえ、見つからない。
ようやく岬の崖を少し下りたところの洞窟からその音が聞こえて来るのが分かったので、
野底按司はその洞窟に入ってみると、
そこは光がようやく届く洞窟の岩の上に、美しい布を織りかけにした機が置いて
あったが、人の姿はどこにも見当たらなかった。
「 ここで、機を織っていたのは誰だ。姿を見せろ! 」 と言うと、
どこからともなく女の声が聞こえてきました。

「 私は人々から姿を隠すためにこの洞窟に隠れました。
どんなに偉いお方 にも姿を見せるわけにはゆきません。 」
「 おお、その声はマムヤの声ではないか。 」
「 はい! 」
「 こんなところに隠れても、わしが人に話せば、
すぐにあちこちの按司達が押し掛けてくるだろう。
いっそ、わしの妻になってくれんか。
すぐに承知できんのならわしと勝負をしよう。
わしは、これから狩俣村(かりまたむら)まで海の珊瑚の石を石垣に積むことにする。
お前も狩俣まで芭蕉(ばしょう)の糸をつないで行くのだ。
そして、私が勝ったらお前はわしの妻になるのだ 」 どうだ?と訊くと、
しばらくして微かに、 「 はい。 」 と返事をする声が聞こえた。

 野底按司は、家来に命じて領地の百姓をすべて集めると、
海から平たい珊瑚の石を運ばせて石垣を積みました。
マムヤも芭蕉の糸を細く裂いてつないでいきました。

 昼も夜も宮古島の東南の端の東平安名崎から20キロ以上も離れた
北西の端 の西平安名崎(いりへんなざき)にある狩俣村まで、
野底按司は百姓と家来に石垣を積ませ、マムヤは芭蕉の糸をつないで行った。

 野底按司は、とうとう狩俣まで石垣を積んだが、
マムヤのつないだ芭蕉の糸は、わずかに狩俣の村まで届かなかった。
勝負に負けたマムヤは約束通り野底按司の妻となって暮らすことになりました。

 ところが、野底按司には、二人の子供を産んだ妻がおり、
その妻がことごとにマムヤにつらくあたりました。
朝夕の妻の意地悪に我慢ができなくなったマムヤが按司に尋ねました。
「 私は勝負に負け、妻にするというからあなたの家に来ました。
けれども、あなたには奥様がいらっしゃいます。
なのになぜ、私を妻にすると言って連れてきたのですか。
私と奥様とどちらが大事なのですか? 」 と、問い詰めると、
按司は、 「 どちらが大事かと言われれば、
まあ、そうだな、子供のいる妻の方が大事だな。」 と言った。

 マムヤは、これを聞くと一人で野底按司の家を出て平安名崎に行きました。
「 神様、私がこんなに辛い苦しい思いをしたのは私が美しかったからです。
どうか、この保良の村の娘にこんな悲しい思いをさせないでください。
この保良に美しい娘が生まれないようにしてください。」
そう祈ると崖から身を投げて死んでしまいました。

 それから、平安名崎に近い保良の村には、
長い間美しい娘は生まれなくなったということです。
平安名崎の白い灯台の近くに、今もマムヤの籠もった洞窟とマムヤの墓がある。






熊本県天草市   【 亀川ダム 】

2013-01-29 00:05:36 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣






































左岸所在 熊本県天草市枦宇土町 
位置 北緯32度25分55秒,東経130度08分04秒

河川 亀川水系亀川

目的/型式 FNW/重力式コンクリート

堤高/堤頂長/堤体積 37m/110m/43千m3
流域面積/湛水面積 10.2km2 (直接:10.2km2 )/24ha
総貯水容量/有効貯水容量 2650千m3/2400千m3
ダム事業者 熊本県

本体施工者 西松建設・苓北建設

着手/竣工 1968/1982

ダム湖名 道目木湖(どうめきこ)



30度を感じさせない旨さ 「 瑞 穂 」

2013-01-29 00:03:47 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







先日まで 「 松藤 」 を飲んでいたが、
夕べは 「 瑞穂 」 を開けた。
いつもそうだが、30度を感じさせない旨さだった。
だからいくらでも飲めそうな感じである。

瑞穂酒造は首里末吉町なので、
末吉といえば、末吉宮や末吉公園、
そして末吉橋を思い浮かべる。




鹿児島県姶良市  ・  近代土木遺産 『 山田の凱旋門 』

2013-01-28 00:04:40 | 近代化産業遺産・土木遺産






































■  所在地  /  鹿児島県姶良郡姶良町下名
■  竣工   /  1906年 ( 明治39年 )
■  設 置  /  山田村兵事會
■  登録有形文化財


 山田の凱旋門は、がっしりと組まれた凝灰岩の石積みを梁がつなぐ。
その姿は堂々として、どこか誇らしげに見える。
「 頑張って来たな! 」 と、言っているように彫られた文字も村人を誇っている。
歴史的幸運もあって、戦勝を収め国民が湧いた日露戦争。
その勝利を称え日本各地で凱旋門が築かれ兵士たちを迎えたが、
東郷平八郎や大山 巌を輩出した鹿児島において、
一地方の村落で、これほどの門を築いてその凱旋を祝うことは稀なことであった。

 明治38年9月にアメリカのポーツマスで結ばれた講和条約によって日露戦争が集結した。
その戦勝を記念し、帰還する出征兵士たちを歓迎する気運が高まった。
東京では10ヵ所を越える大凱旋門が用意され、元帥以下、兵士たちの凱旋を華々しく迎えていた。
このような動きは地方に伝播し、各地に凱旋門が築かれた。
山田の凱旋門もこの頃に築かれている。

その後、他の凱旋門がことごとく姿を消しているのに対し、
凝灰岩で精緻に築かれた高さ4.7m、径間2.7mの凱旋門は現在も姿をとどめている。


山田の凱旋門へのアクセス
山田の凱旋門へは、姶良町の山田小学校から山手に200mほど行った場所にある
山田公民館の裏に建っている。
駐車は、公民館の駐車場が利用できる。



沖縄県宮古市平良   『 ニコライ ・ A ・ ネフスキー之碑 』

2013-01-28 00:00:20 | 沖縄













観音堂経塚の近くに「 ニコライ・A・ネフスキー之碑 」 というのがある。
ニコライは、1920年代に宮古島研究したロシアの東洋言語学者で、
宮古島でかなり詳細な調査研究をされた方のようである。
この碑の建立は2002年なので、当然 「 平良綾道 」 には記されていないが、
この碑の真下にあるのが 「 漲水石畳道 」 なので、
何故か? 「 漲水石畳道 」 は別名、ネフスキー通りと命名されているそうである。





祝 優勝! 「横綱・日馬富士の土俵入り 」

2013-01-27 00:08:05 | 相撲



横綱・日馬富士の土俵入り





































千秋楽を待たずに今場所の優勝を決めた日馬富士。
横綱になって初めて臨んだ先場所は9勝6敗と評価を下げたが、
その汚名を晴らすかのように勝ち続けての優勝である。
いろんなプレッシャーもあったと思うが、
それに負けることなくよく頑張ったと思っている。

そんな彼の鋭い立会いとスピードは角界一である。
大関時代もそうだったが、勝つ時は連勝するが、
負ける時は連敗をする強さと弱さを合わせ持った力士だった。
スパッと切れるが、その反面刃の脆さも目立った。
だけどこれを機に、取りこぼしのない相撲が確立されることを願っている。


日馬富士の本名、ダワーニャム ・ ビャンバドルジ。
彼の故郷モンゴル ・ ゴビアルタイは横綱での優勝に賑わっているだろうな。








日馬富士の土俵入りの型は雲龍型で、
四股のあとに、下の構えで左腕を曲げて脇腹に当て、
右腕だけを横に広げる型で、左手は 「 守り 」 を示し、
右手は 「 攻め 」 を示している。



沖縄県宮古島  「 平良港北防波堤灯台 」

2013-01-27 00:06:15 | 宮古の灯台


































灯台表番号 / 7180.5
ふりがな / ひららこうきたぼうはていとうだい
標識名称 / 平良港北防波堤灯台
所在地 / 沖縄県平良港(北防波堤外端)
北緯  / 24-48-49
東経  / 125-16-12 
塗色 / 白色
灯質 / 単閃緑光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 71カンデラ
光達距離 /4.5海里
地上~頂部の高さ / 5.6m
平均水面上~灯火の高さ /9.2m 
地上~灯火の高さ / 5.35m
業務開始年月日 / 昭和59年12月14日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



灯台のある北防波堤は、陸とは繋がっていない沖の一文字に防波堤になっているため、
陸からは遠望になる。
伊良部島や多良間島に行く船上からだと近くで見る事ができる。




ムサシと同じ部屋で過ごす。

2013-01-27 00:03:50 | 柴犬 ムサシとピース







年末から仕事に行かない日は、ほとんど同じ部屋で過ごす。
ピースの時と同じように寝起きをともにするようになった。
まだ幼いのでヤンチャだが、それでも日に日に学習して聞き分けが出来るようになっている。

しかし昨日は吹雪いて寒かったな~。
このところ朝の気温は0度前後で、霜が雪のようにビッシリと降りた日はシビレた。
今月の初めに沖縄に行ったが、連日気温は23度くらいだったので、
探訪から歩いて帰ると車の中はクーラーを入れないと汗が止まらなかった。
あ~、あの気温が恋しい。沖縄が恋しいよ。






鹿児島県加計呂麻島   『 安脚場 ( あんきゃば ) 戦跡 』

2013-01-26 00:08:05 | 離島めぐり



金子手埼防備衛所








弾薬庫跡







弾薬格納庫







砲台跡






トーチカ跡




この日は雨も降っていたし、朝も早かったから、
諸鈍グスクに行く前に呑ノ浦と待網埼の戦跡を見て、
安脚場の戦跡に向った。

加計呂麻島は奄美大島の南側に大島海峡を挟んで存在する東西に細長い離島である。
大島海峡は水深が深く、東西両側で外海に接続していることから、
海峡内の加計呂麻島側にある薩川湾が連合艦隊の泊地として用いられていた。

この泊地を防衛するために、大島海峡東端に面した加計呂麻島の安脚場(あんきゃば)集落東側の
加計呂麻島東端に軍事施設が置かれていた。
もともとは1920年(大正9年)頃から旧日本陸軍が奄美大島要塞として砲台を設置していたが、
1941年(昭和16年)から海軍によって砲台として整備されて利用されるようになった。
この際に大島海峡東端に設置した防潜網や管制機雷を遠隔操作する
金子手崎(かねこてざき)防備衛所が建設されている。

太平洋戦争後、連合軍によって武装解除を受けたが、今でも弾薬庫や防備衛所の建物が残存している。
現在は公園として整備されている。