「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

大晦日の想い出 「 玉野競輪場 」

2013-12-31 00:12:41 | 競輪・オートレース



玉野競輪場 ( メインスタンド )







3コーナーから4コーナーにかけて







ホームスタンドから1コーナー







バックストレッチの確定板








バック側にある選手宿舎の前に広がる海。
数ある競輪場の中でも食堂からの眺めはここが一番だった。
この海に沈む夕陽を見ながら 「 おでん 」 をあてに飲む酒は風情があって、
ことのほか旨かった。






1着 ( 青色4番車 ) 








3着 ( 赤色3番車 ) 




盆正月が掻き入れ時の競輪の興行は、年末年始の競輪参加は恒例であった。

年末から年明けにかけての年跨ぎ開催は正月気分を吹っ飛ばすものだった。
大晦日や元旦は特別な日なれど、勝負をする者にとっては一日は一日で、
いつもと変わらぬ日でしかないのである。
そんな気持ちで迎えた大晦日の大一番。
玉野競輪の最終レースの準優勝戦。
翌日の元旦に優勝戦が組まれた勝ち上がりのレースに、
それぞれが優勝戦進出をかけて3つの椅子を争う。

最終レースに地元のエース級を持って来た番組にファンも盛り上がり、
圧倒的に人気になった地元岡山勢に四国勢が援護する形でラインが形成され、
遠征の九州勢にとっては完全なアウェー状態だった。
それでも 「 どぎゃんかせんと! 」 で、前を取り正攻法で受けた。
序盤は淡々と周回をかさね静が、ジャン ( 打鐘 ) を合図に一気に動に変わる。
4番手にいた選手が満を持したように一気にスパートして来たので、
一度、外に大きく振ってけん制を入れ、思いっ切り前に踏むと、
その上をものすごい勢いでやって来た。
「 行かれた! 」 と思った瞬間、一人だったので、それを追いかける形で2番手に。
あとは、内を掬われないように、中を割られないように4コーナーを回り、
懸命にゴールを目指して踏んだら、誰よりも先にゴールしていた。

あの時は、◎○▲△×の印でいえば×くらいの人気だったので、まさかまさかの1着である。
そのうえ2着にも人気薄が入ったので6万円くらいの大穴になったのを憶えている。
走った選手はゴールして敢闘門に引き上げるまで、退避路を1周するのだが、
その時、4コーナーにいたおじさんが、僕の名の連呼し、
「 ありがとう!ありがとう! 」 と1コーナーまで金網越しについて走って来た。
敢闘門に入る時、自転車を降りてスタンドに向かって一礼したが、
その時も 「 ありがとう! 」 の叫び声が続いていた。

検車場に入ると、「 すげえファンやな~ 」 とか、 「 あんたの親戚やろ 」 とか冷やかされたが、
地元の先輩選手が 「 あのおっさん、オメエのお蔭で正月の餅が買えらぁ 」 とポツリと言った。
負けて罵声を浴びたのは数えきれないほどあるが、
勝ってあれだけ感謝されたのは、後にも先にもあのレースだけである。
それだけに思い出深い大晦日だった。

そういえば・・・25回優勝したが、25回目となった最後の優勝がこの玉野競輪場だった。


※ 動画は大晦日のレースではないが、デビュー2戦目に走った玉野競輪の初日と、
  優勝戦である。初日はちゃんとゴールまで写っていて青色4番で1着になったが、
  優勝レースは途中で切れている。赤色3番で3着だった。



「 流れる雲 」

2013-12-31 00:11:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







流れる雲を追いかけながら~♪






クバ山の上に浮かぶ白い雲
写真なのに
雲が流れて見える

青い空に・・・




沖縄の文化財 「 伊江島 ・ ゴヘズ洞穴遺跡 」

2013-12-30 05:52:41 | 沖縄の文化財







伊江島のゴヘズ洞穴遺
Cave Gohezu of Ie island

 ( 県指定史跡 ) 
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 52 ( 1977 ) 年5月9日 
Designaed Date : May 9,1977
所在地 : 沖縄県国頭郡伊江村字 西江上 ゴヘズ原
Location : Nishieue ,Ie-son,Kunigami-gun,Okinawa-ken



伊江島のゴヘズ洞穴遺跡は、伊江島のほぼ中央に位置する通称ゴヘズ山(高さ約82m)と呼ばれる
山の琉球石灰岩洞穴内にある遺跡である。
洞穴の入り口は一辺がおよそ2.5mの三角形状の縦穴になっており、
地表下約3.8mで広い床面に達する。
床面は北側へ約19m延びた主洞を形成しており、更に下方へ細く延びた下洞がある。
多量の鹿の化石が洞穴内で出土しており、
数少ない沖縄の旧石器時代遺跡の中でも、遺物の出土の豊富なことと、
保存が良好なことで他に例をみない貴重な遺跡である。


The site is located in a Ryukyuan limestone cave at a mountain known as Gohezu
( about 82m. high ) which is a the central part of the Ie island.
The entrance of the cave is a triangle pit with a 2.5m.
side, and the floor is at 3.8m. below ground.
The floow stretches 19m. to the north to form a main part, and goes further to a narrow paet.
Many fossil deers are found in the cave. It is a matchless site among a few remains of Old Stone
Age because it is rich in archaeological articles which are in a good condition.



福岡県小竹町 「 硬山 ( ぼたやま ) を詠う 」  山本 詞の歌碑

2013-12-30 05:51:41 | 文学・文化・映画作品



「 硬山の歌 」 山本 詞の歌碑










山本 詞 ( やまもとつぐる ) は、筑豊で生まれ自らも炭坑で働き、
結核に苦しめられながら、炭坑の歌だけを歌うことを自らに課して、
坑内労働や坑夫の仲間たちのことを歌い続けた。
かつて 「 炭坑歌人 」 というジャンル分けができるほど炭坑夫の歌人は多かったが、
彼はその代表者といえる。

両親とも坑夫で本人も中学を卒業後、古河目尾炭鉱で坑夫となった。
炭鉱労組の中核的な存在となり、
労働争議や政治的スローガンを詠み込んだ歌も多く残っている。
結核療養中に歌を作り始め、炭車事故で亡くなるまで千三百余首を詠んでいる。

 硬山 ( ぼたやま ) を仰ぐときやはり坑夫らの
 歴史は坑夫が変へねばと思ふ

これは彼の代表作であり、 「 坑口から空に立つボタ山を仰ぎ見るとき、
坑夫たちの明日からの生活を良くしてゆくのは、
やはり自分たち坑夫しかいない 」 という、労働争議や炭坑仲間との連帯の中で
歌による自己表現に徹した山本らしい歌である。

目尾炭鉱は今では鉄工所に変わり、ボタ山も住宅団地に変ぼうした。
昭和60年 ( 1985年 ) に、山本が長く働いた小竹町に歌碑が建立された。

 硬山 ( ぼたやま ) の投影長き此の地帯を
 遂に故里として棲みつきぬ

と刻まれている。


山本 詞は、昭和5年(1930年)に田川郡糸田村に生まれた。
昭和21年 ( 1946年 ) に鞍手中学 ( 現・鞍手高校 ) を卒業後、
16歳で鞍手郡小竹町の古河炭鉱に就職した。
昭和28年 ( 1953年 ) 京都郡豊津療養所に入院。
療養中に歌作を始め、昭和31年 ( 1956年 ) 「 毎日歌壇 」 の年度賞を受けた。
昭和37年 ( 1962年 ) 炭坑内で事故死した。
死後、遺稿集 「 地底の闇を切り開け 」 、遺歌集 「 地底の原野 」 が
昭和37年に刊行された。
また、松井義弘の評伝 「 黒い谷間の青春 - 山本 詞の人間と文学 」(昭和52年)、
「 定山本詞歌集 」 ( 昭和60年 ) が刊行された。

歌碑は、鞍手郡小竹町新多 ( にいだ ) の西鉄バス新多バス停ロータリーにある。



それぞれの海 「 沖縄県名護市 ・ 羽地内海 」

2013-12-30 05:50:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







名護の仲尾次を抜けると
屋我地島との間に
その海が広がる

緑に囲まれた
羽地内海



福岡県鞍手町 「 伊藤常足( いとうつねたり ) 翁旧宅 」

2013-12-29 06:03:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



「 伊藤常足翁 旧宅 」











伊藤常足旧宅は、遠賀川支流・西川の中流域、鞍手町の北西部に建っている。
伊藤常足翁は江戸末期の国学者で、地誌学者、歌人、神官で、
福岡藩の文化振興に大きな功績を遺した。
その生家は二百四年の歴史を持ち、平成2年6月改築、復元された。

伊藤常足は、安永3年 ( 1774年 ) 鞍手郡古門村の古物神社の
神宮恒成の次男として生まれ、11歳までこの家で育った。
のち福岡に出て儒学を亀井南冥に、国学を青柳種信に学んだ。
また、36歳の伊勢参りのとき、本居宣長の門人となる。

文化2年 ( 1805年 ) に、 「 太宰管内志 」 の編纂に着手、36年をかけて完成。
福岡藩主に献上した。
生涯の著作、詩歌、文稿、墨跡等は膨大な量にのぼる。
安政5年 ( 1858年 ) 没。

旧邸は、 「 伊藤家家内年鑑 」 によると、天明6年 ( 1786年 ) に建てられた。
当時に見取り図に従い、忠実に復元された伊藤邸は、
木造瓦葺、平屋建て、161・15平方メートル、母屋が南側にあり、牛小屋を取り込んだ形。
間取りは田の字型で、四部屋からなる。

玄関に入ると19・5平方メートルの土間があり、
左手が中居 ( 間 ) 6畳、その奥が一間幅 ( 1.8m ) の床の間付き座敷8畳で、
神官に家にふさわしく神祇殿 ( 神棚 ) が祭られている。
また、座敷の奥に奥の間8畳がある。


古物神社神官の伊藤家に伝わる文書類約一万点のうち、
常足翁関係の書跡等は、 「 伊藤常足遺品一括 」 として県指定有形文化財であり、
とくに筑前の幕末国学を調べる上で貴重な資料である。



沖縄県粟国島 「 粟国島灯台 」

2013-12-29 06:02:41 | 沖縄の灯台



「 粟国島灯台 」










































灯台が立つ 「 筆の崎 」










灯台表番号 / 7141
ふりがな / あぐにしまとうだい
標識名称 / 粟国島灯台
所在地 / 沖縄県島尻郡粟国村(粟国島)
北緯  / 26-34-38 
東経  / 127-12-44 
塗色 / 白色
灯質 / 単明暗白光 明3秒暗1秒
光度 / 5,600カンデラ
光達距離 / 12.5海里
地上~頂部の高さ / 16m 
平均水面上~灯火の高さ / 108m 
地上~灯火の高さ / 16.18m
業務開始年月日 / 昭和53年2月20日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 購入電力



粟国島灯台は、粟国島の南西にある筆の崎の手前の高台に立つ灯台で、
地上から頂部までの高さが16m、平均水面から灯火までの高さが108mとなっている。
扁平な島にしては高い位置に立っており、並んで立つアンテナともども目立っている。
灯台の灯質は、単明暗白光で明3秒暗1秒の割合で点灯している。
粟国村として独立した島にしては初点が昭和53年と思ったよりも新しい。


粟国島灯台へのアクセス
粟国島灯台へは、那覇の泊港から船で2時間で粟国島へ行けば、港から左手に見える。
灯台へは筆の崎を目指して行くとよい。


それぞれの海 「 沖縄県伊平屋島 ・ ヤヘー岩 」

2013-12-29 06:01:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







奇妙な形をしたヤヘー岩
その岩はヤヘーグスクと言われ
干潮のときでなければ
そこにたどり着くことは出来ない

最初写真で見たとき
訪れることのない場所だと思っていたが
二度にわたって訪れた海であり
グスクである




沖縄県伊平屋島 「 田名 ( だな ) グスク 」

2013-12-28 05:35:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスクの二の郭にある城門








比較的角ばった石が使われている石垣





















右上にたくさんのオーヴが出ている







頂部にあるグスク内の溜め池







グスク内頂部にある拝所







グスクのある後岳 ( くしだけ ) と拝所







後岳の下にある殿内 ( お通しの御嶽 )







田名グスクがある田名集落に続く道





このグスクは三度訪れた場所である。
一度目には山のふもとの拝所(殿内)がグスクだと思っていたが、
ちゃんとした石垣が残っていると聞いて、二度目に探訪したが
あまりの急こう配でグスクまで行かずに引き返した。
そして三度目は頂部に池があることを聞いて、三たび伊平屋島へ渡ることになる。
その甲斐あって城門も石垣も溜め池も探すことが出来た。

田名グスクは、伊平屋島の北方に位置する後岳(くしだけ)の頂部に築かれたグスクである。
後岳の麓にある殿 ( お通しの御嶽 ) から頂上まで約35度の角度のある斜面を
300mほど登ると二の郭の入り口に達する。
入り口付近は島産のチャート石を野面積みしてあるが、
チャート石が自然に水平に割れるので、一見すると切り石積みに見える。
グスク内には拝所があり、中央部分に溜め池が存在する。


田名グスクへのアクセス
田名グスクへは、伊平屋島の前泊港から右に県道179号線を1.5kmほど進むと
突き当りが田名集落になっている。
その田名集落の背後にある後岳(くしだけ)のふもとの殿から
山に登って行けばグスクに到着する。
駐車は、麓の殿(どぅん)横に駐車できる。



福岡県みやこ町勝山  「 扇八幡古墳 」

2013-12-28 05:34:41 | 古墳・ 遺跡



前方から見た扇八幡古墳








後円墳側の高くなった墳丘







古墳西側の周濠







古墳南東側の周濠から見た扇八幡神社方面







前方にある説明版







古墳の前面にある 「 扇八幡神社 」







扇八幡古墳の周濠を歩く





県指定史跡の扇八幡古墳は、箕田地区の西側の丘陵上に造られた前方後円墳で、
後述する箕田丸山古墳とは200mほどの距離を持つ。
前方部端の一部が社殿で破壊されるほかは美しい姿を残していることから、
県の史跡に指定されているが、平成16年の台風により巨木が倒壊し、
墳丘が痛んだことは残念である。

埋葬部は不明で、出土品の伝来もないが、
円筒埴輪が採取されており、墳丘の一部には葦石も散見できる。

墳丘の主軸をほぼ南北方向にとり、全長58.4m、後円部は直径36m、高さ約7m、
前方部は最大幅49m、高さ約5mで、周囲には幅3~5mの周濠が巡る。
更に周濠の外側には周堤と呼ばれる高まりが付設されていて、
周堤の外側まで含めると全長82.5mを測り、庄屋塚古墳に次ぐ規模である。

周堤南側の一部が張り出したようになることから、
筑紫君磐井の墓に比定される八女市岩戸山古墳の 「 別区 」 と呼ばれる区画との
類似性が指摘されたが、未発掘のためそうした構造の有無を含めて詳細は確認できていない。

岩戸山古墳では 「 別区 」 から石人・石猪等が出土し、特別な区画と考えられる。
扇八幡古墳は墳丘の形態がこの岩戸山古墳と酷似していて、埴輪が示す年代も矛盾がなく、
6世紀前半の築造と考えられる。



熊本県山都町城原 「 木鷺野 ( きさぎの ) 橋 」

2013-12-28 05:33:41 | 熊本の石橋





























架橋 / 天保13年 ( 1842年 )
石工 / 不明
長さ / 3.5m  幅  / 2.1m  
高さ / 1.97m 拱矢 / 1.55m
径間 / 3.2m


木鷺野橋は、以前は天保13年に旧・矢部町の木鷺野地区に架けられていた橋だったが、
昭和63年の水害で崩壊・撤去され、
現在は平成9年に山都町の緑地広場内の小川に復元されたものである。


木鷺野橋へのアクセス
木鷺野橋へは、山都町(旧・矢部町)の矢部高校の先の橋を渡り、
その道を右に曲がって「緑地広場」の看板から右へ下りて行った公園内の奥にある。
駐車は公園内の駐車場が利用できる。



普天間基地返還への第一歩が踏み出された

2013-12-27 04:55:41 | 沖縄



駐機場にオスプレイが並ぶ普天間基地

























密集する住宅街の中にある宜野湾市の普天間基地。
毎日、頭上を米軍機が爆音を響かせ我が物顔で離着陸を繰り返す。
遅々として進みそうで進まなかった普天間基地の移設問題だったが、
ここに来て安倍総理の実行内閣により急展開となった。

移設による危険性の除去はもちろんだが、治安も良くなるだろう。
ただ、県外移設ではないので名護を中心としたヤンバルの
心配や負担が増えるのではないかと危惧している。
何より、あのキレイな大浦湾が埋め立てられるのは心が痛む。
「 あの海には手を付けずに他に手段はなかったのか 」 と思う。



沖縄県名護市辺野古 「 基地反対協議会テント村周辺 」

2013-12-27 04:54:41 | 沖縄



辺野古 「ヘリ基地反対協議会テント村周辺」







辺野古の街なか







テント村あたりから見たキャンプシュワブ






キャンプシュワブ入口






キャンプシュワブ第2ゲート












大浦湾から見たキャンプシュワブ












普天間基地の移設候補地が決定的になったキャンプシュワブがある名護市辺野古。
何とか海には手を付けずに移設出来ないものかと思っている。

辺野古の海が壊される前に、もう一度あの海に行ってみたいと思っている。




それぞれの海 「 沖縄県宮古島 ・ 浦底漁港 」

2013-12-27 04:53:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々






比嘉ロードパークから
城辺運動公園に向かって走っていると
左手に漁港が見える

山の上からの眺望は
海も空も青に包まれていた



『 くりすます・ぷれぜんト 』

2013-12-26 18:14:41 | 日記 ・ イベント







サンタがやって来て
ぷれぜんトを置いて行った
ソリに乗って来たのか
スクーターで来たのか
それとも空を飛んで来たのか
わからないが

しっかりと届けてくれた
「 ワンチャンス 」