和布刈の句塚付近から関門海峡を望む
宗祇は室町時代の代表的な連歌師である。
応仁元年 ( 1467年 ) 応仁の乱が起こり京都が騒然になると、
関東で乱を避け、漢詩と和歌、連歌を学んだ。
その後、連歌指導のため各地遍歴の旅をし、連歌を芸術的に高めた。
豊前、筑前を旅した時に綴った紀行文が 『 筑紫道記 』 である。
文明12年 ( 1480年 ) 周防国(山口県)の大名・大内政弘の招きで周防へ下った宗祇は、
さらにその庇護のもと周防を発ち、赤間関 ( 下関 ) に着く。
『 筑紫道記 』に 「 赤間関はやとものわたりにいたる。
潮のゆきかひ矢のごとくして、音に聞しにかはらず 」 ( 同9月9日 ) とある。
そして九州に入り、門司城主・門司氏の居館に泊まる。
9月11日、寺で連歌の会が催され、
舟みえて霧も迫門 ( せと ) こすあらしかな
と発句する。
難所の関門海峡を舟で渡るときの句であり、
霧模様のなか、激しく揺れる小舟で海峡を渡るさまがありありと伝わって来る。
関門海峡は、本州と九州を分ける海峡で、
東口の 「 早鞆の瀬戸 」 は幅約800mで最も狭く、
潮の流れが速い時は、時速約10ノットで流れることもある。
潮流は満潮時には、東の周防灘から海峡に入り、
干潮時には、西の響灘から東へと流れる。
和布刈神社は、関門橋門司側の橋桁の近くにあり、
航行安全のために神功皇后が創建したと言われている。
旧暦元旦の午前二時ごろに、神社下の海で神官が新若布を刈り取り、
神前に捧げる 「 和布刈神事 」 が1300年以上も続けられている。
そんな和布刈神社の横にある早鞆稲荷大明神横に、
関門海峡と源平合戦の壇之浦を望むように宗祇の句碑が建っている。
宗祇 ( そうぎ ) 、 姓は飯尾。
応永28年 ( 1421年 ) に生まれた。
生まれは近江国 ( 現・滋賀県 ) 、紀伊国 ( 現・和歌山県 ) の両説がある。
30歳の頃から連歌の道に入り、宗砌、心敬に学ぶ。
応仁の乱のときは、主に関東におり 「 古今和歌集 」 を学び、
「 吾妻問答 」 「 白川紀行 」 などを著す。
文明5年 ( 1473年 ) 京都に帰り 「 老のすさみ 」 「 筑紫道記 」 などを著し、
明応4年 ( 1495年 ) 「 新撰菟玖波集 」 を編集した。
文亀2年 ( 1502年 ) 81歳で没した。
主な作品に、歌集 「 宗祇法師集 」 、句集 「 萓草 ( わすれくさ ) 」 、
連歌論書 「 連歌心付之事 」 などがある。