土曜日の朝刊で紹介されていた本「九州異世界遺産」。
さっそくネットで注文したら、昨日仕事から帰ると届いていた。
手を洗って包みから出して手に取ると感動でいっぱいになった。
パラパラとめくると、
ざぁーとだが掲載されている建物や景色の3分の2くらいは探訪した場所であった。
これから未だ訪れていない場所を一つ一つ行こうと思っている。
土曜日の朝刊で紹介されていた本「九州異世界遺産」。
さっそくネットで注文したら、昨日仕事から帰ると届いていた。
手を洗って包みから出して手に取ると感動でいっぱいになった。
パラパラとめくると、
ざぁーとだが掲載されている建物や景色の3分の2くらいは探訪した場所であった。
これから未だ訪れていない場所を一つ一つ行こうと思っている。
新町の電車通り
150年の歴史を紡いできた熊本市の老舗書店が6月末で休業する。
建物は瓦屋根にれんがの外壁が特徴の国登録有形文化財で、
そばに市電が通る街並みに映え、住民らに愛されてきた。
地域文化を発信する拠点にもなってきた本屋の大きな節目に惜しむ声が上がっている。
熊本城の城下町風情が残る熊本市中央区新町にたたずむ。
市中心部からは少し離れており、
街の喧噪を忘れて本の世界に入り込める。
創業は1874年(明治7年)。
茶具や掛け軸を売る古道具店に本を並べたのが始まりとされる。
近代学校教育の基本となる法令「学制」の公布に合わせて取扱業者の指定を受け、
教科書販売を始めた。
建物は1924年に建てられた木造2階建てで、1階に書店が入る。
98年に国の文化財に登録されている。
そういえば、新町の電停から段山(だにやま)に向かう右手に
政木屋という蕎麦屋さんがあった。
ここで、「船場そば」か「たぬきそば」を食べた記憶がある。
熊本県玉名市、「海の万里の長城」と形容された
石垣と樋門がある旧玉名干拓地。
明治時代に建造された干拓関連施設群は、国の重要文化財に指定。
末広開(すえひろびらき)と明丑開(めいちゅうびらき)の接続部分には樋門(ひもん)が設置されており、
末広開樋門には「六枚戸」と呼ばれる三枚戸樋門2基と、
二枚戸樋門1基が現存しています。
菊池川下流域では江戸時代から干拓が始まり、
昭和の国営横島干拓まで75ヶ所の干拓地が築かれました。
明治維新後、許可を得れば個人による干拓が認められるようになり、
明治20年〜明治30年代になると地元の有力者による大規模な干拓が行なわれるようなったのです。
それが西から順に大浜町の末広開(明治28年/坂本平次ほか=築造者不定)、
横島町の明丑開(明治26年/栗崎寛太ほか6名)、
明豊開(明治26年/服部運太ほか7名)、
大豊開(明治35年/加藤篤ほか2名)です(複数の大地主共同による干拓)。
大正3年8月23日〜8月25日の台風では、
大豊開、明豊開、明丑開、末広開の堤防が決壊し、
水田が水没しています(大正8年、昭和2年にも大規模な潮害が発生)。
戦後、食糧不足による食糧増産などを目的として国営の横島干拓事業が実施され、
昭和42年に潮止工事が完了。
それにより、末広開・明丑開・明豊開・大豊開の堤防は役割を終え、
その結果として、明治時代の美しい石積みの干拓堤防が保存されることになったのです。
干拓関係施設の中で、
最も保存状態が良好なものが大浜町の末広開堤防と樋門、
横島町の明丑開、明 豊開、大豊開の堤防で、
とくに末広開樋門は、六枚戸(3枚戸の樋門2基)と二枚戸から構成され、
六枚戸は有明海でも最大級の規模を誇っています。
総延長5.2kmに及ぶ堤防と3つの樋門からなる旧玉名干拓施設。
末広開東三枚戸樋門、末広開西三枚戸樋門、末広開二枚戸樋門、
さらに末広開潮受堤防、明丑開潮受堤防、明豊開潮受堤防、
大豊開潮受堤防が国の重要文化財に指定されています。
外輪山を背にするタワーがシンボルの旧阿蘇校舎1号館
one-pieceのロビン像がある旧東海大学阿蘇校舎1号館。
その独特なタワーがシンボルになっていた。
その場所がどんなになっているのか興味がある建物だったが、
こうして訪れるのは初めてだった。
熊本に住んでいた頃、毎朝練習で阿蘇山の米塚まで行っていた。
熊本市内から往復70キロほどだったと思うが、
当時は前を走る車のテールランプだけを見ていたし、
練習に集中していたので周りの景色を見る余裕もなかった。
ただ、立野を登り上がった右側に「白馬」というレストランから
平坦になるので脚にかかる負荷でそれを知った。
周囲に溶け込んだ景色が長閑な絵になる
五徳橋梁の上を走る平成筑豊鉄道の「なのはな号」
京都郡みやこ町犀川崎山 五徳
橋幅:4.5m
径間:4.4m
拱矢:2.2m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線
平成筑豊鉄道の源じいの森温泉から豊津までの間には石坂トンネルをはじめ、
多くの煉瓦橋梁が残っている。
そのなかのひとつが五徳橋梁である。
熊本県荒尾市にある近代化産業遺産「三池炭鉱万田坑」
大煙突の跡
火野正平さんが手紙を読んだ「岩本橋」
手紙を読んだ岩本橋の欄干
以前、火野正平さんが立ち寄った岩本橋近くの直売所
今日の「こころ旅」の熊本県の一日目は荒尾駅。
その手紙を読んだ岩本橋から万田坑を経由して荒尾駅へ・・・
青森県の八戸に嫁いだ娘さんが実家のある荒尾に帰省し、
八戸に帰るたびに父親が荒尾駅まで見送りに来て、その父の姿に涙した。
というようなお手紙の内容だった。
アマチュアのころ、油木ダムへ向かう途中、
この駅の前を通っていた。
当時、犀川から大任や添田に向かう道はこの道しかなく、
いつも通る道だったが、今通ると「こんなに狭い道だったのか」と思う。
話題が逸れたが、この駅舎は古く、明治28年の木建造物である。
JR日豊線の豊前松江駅ともども現役の近代土木遺産である。
突き当りの白い大きな建物が「直方市役所」
向野堅一は、明治元年9月4日、新入村に生まれる。
遠き満州にその名を残し、終始一誠、人を愛して、
国を憂いては命をかけた不屈の男である。
修猷館から日清貿易研究所へ進学。
日清戦争のとき、特別任務を命ぜられ、
任務に従った者のうち、ただ一人だけ九死に一生を得て、使命を果たした。
これからは「商業の時代である」という信念をもって、
北京・大連・奉天を舞台に、日中合資の正隆銀行、
満州市場株式会社などを設立し、満州経済界を指導する。
昭和6年9月17日、東京で逝去。満州事変勃発の前日であった。
台湾仏教布教にも活躍。奉天に大義寺を建立し、
民族を超えて戦没者をまつる。
書画・篆刻・謡曲をたしなむ芸術愛好家でもあった。
旗袍(チーパオ)を纏うその凛々しい姿は、
いま私たちに何を語ろうとしているのだろうか。
黄塵を馳せ、アジアの平和を願いつつ、
奉天の街を造った強く優しい日本人・堅一の、
その想いを伝えるため、この記念館を創設した。(説明板より・・・)
惣郷川橋梁(そうごうがわきょうりょう)は
山口県阿武郡阿武町宇田惣郷の、
西日本山陰本線・須佐- 宇田郷間の白須川に架かる鉄道橋で、
惣郷鉄橋(そうごうてっきょう)とも呼ばれる。
全長189m。
1932年(昭和7年)に山陰本線最後の開通区間に架かる
構造物として完成(開通は翌1933年)。
日本海に隣接し、波浪による浸食や潮風による腐食(塩害)を避けるため、
鋼鉄ではなく鉄筋コンクリート4柱のラーメン構造の堅牢作りとなっており、
橋脚の基礎も満潮時の海面から1.5mの高さまでの
高い基礎が据えられているのが特徴である。
海からの景色も、また橋からの景色も美しいことから、
撮影ポイントとして鉄道ファンからの人気は高い。
2001年に土木学会選奨土木遺産を受賞している。
廃線後もしばらく中元寺川に桟橋が架かっていた
かつて石炭を運んでいた桟橋
銘板には 「 小野田セメント株式会社 」 の名が書かれている
遠賀川の支流の中元寺川は、田川市の川宮から糸田町を経て金田から赤池へと続く。
その中元寺川にかつて石炭を運んだトロッコが渡った桟橋があった。
その跡を記念したトロッコ型の碑が桟橋のたもとにある。
一九二〇年代 ( 大正時代 ) 糸田町朝日 ( 後の岡崎、真岡 ) 炭坑から
掘り出された石炭は約二.五キロの車道をトロッコによって引き込み線堀川に運ばれ、
ここから石炭運搬車や専用石炭列車によって、各地に送られた。
その専用桟橋が架けられていた跡である。
かつて賑わっていた頃の英彦山神宮を意識した赤い屋根の駅舎
駅舎の正面玄関
乗客も列車も来ることのないホーム
正月の参拝時のみ開かれる特別改札口
駅前のタクシー会社や料理店
また一つ土木構造物が姿を消す。
赤い切妻の屋根が印象的だったC級土木遺産の彦山駅舎。
2017年7月の九州豪雨で被災し、
鉄道からバス高速輸送システム( BRT )に転換し
不通区間を復旧するJR日田彦山線を巡り、沿線住民と県やJRなどとの議論が進められてきたが、
19日からJR彦山駅の解体撤去作業が始まった。
解体費はJRが負担する。
BRT供用開始予定の23年度までに、BRT用のホームなど新駅舎を完成させる予定だという。
この建物は関門地域に進出した三井銀行の下関支店として、
大正9(1920)年に建てられました。
銀行建築の名手と謳われた長野宇平治の作品で、
下関の繁栄の象徴であった旧銀行街の一角にあります。
外観はルネサンス様式を基調とした完全な左右対称。
御影石で覆われたファサードには彫刻や装飾が施された、
本格的な古典主義建築です。
内部には吹抜けの広大な空間が広がりますが、柱はありません。
カーン式鉄筋コンクリート造というアメリカで開発された構造形式を取り入れて、
広がりのある空間をつくっています。
設計を担当した長野宇平治は、
東京駅を手がけた辰野金吾の弟子として知られる建築家で、
数々の銀行建築の名作を残しました。
明治30(1897)年に日本銀行の技師となり、
辰野金吾工事顧問のもと、
大阪や京都、名古屋、小樽などの支店の設計監理に携わっています。
明治42(1909)年に日本初のコンペである台湾総督府庁舎設計競技で、
デザインを選定された後は、台湾総督府嘱託として従事。
大正2(1913)年に設計事務所を設立してからは、
横浜正金銀行下関支店や日本銀行岡山支店など、
多くの古典主義建築に関わりました。
大正6(1917)年には日本建築士会(後の日本建築家協会)初代会長に選ばれています。
三井銀行は、昭和8(1933)年に百十銀行へ営業権を譲渡。
この建物は百十銀行本店となり、
昭和19(1944)年に県内5銀行が合併して山口銀行が発足してからは、
山口銀行本店として使用されました。
昭和40(1965)年に現在の本店が完成した後は山口銀行観音崎支店となり、
昭和44(1969)年に観音崎支店が入江支店として移転した後は、
山口銀行別館として平成16(2004)年まで銀行内の会議や集会に使用されていました。
実は三井銀行は、この支店建設前に一度下関から撤退をしています。
明治9(1876)年に私立銀行の設立が許可されると、
三井銀行は下関に物品問屋を対象とした一等出張店を開設。
明治26(1893)年に出張店を支店に昇格させて業務の拡大を図りました。
しかし、その後物品問屋が衰退します。
明治40(1907)年には下関支店を閉店し、百十銀行へ営業譲渡。
関門地区での営業の中心地を門司に置いたのです。
やがて第一次世界大戦が勃発し、日本の経済情勢は上向きに転じます。
下関の商業も大きく発展し、大正5(1916)年に再度出張所を開設。
大正7(1918)年には支店に昇格し、大正9(1920)年に新店舗を新築したのです。
住所 : 山口県下関市観音崎町10-6
電話番号 : 083-232-0800
駐車場 : あり
営業時間 : 10:00〜17:00
休館日 : 月・火曜、祝日、年末年始 ( 12/29〜1/3 )
料金 : 無料
橋の下にある 「 壱里塚の碑 」
橋の構造を書いた説明版
【 平成10年10月、国登録有形文化財に指定 】
現在も現役の橋として活躍している
所在地 / 山口県萩市三見
架橋 / 大正3年 ( 1914年 )
石工 / 不明
長さ / 21.40m 幅 / 3.40m
拱矢 / 不明 径間 / 16.00m
環厚 / 40 ㎝ 単一アーチ
三見眼鏡橋は、大正3年 ( 1914 ) に建設された、
径間54尺 ( 約16m ) の石造りの単一アーチ型石橋である。
長さ21.4m、幅員3.4m、迫石545個を積んで構成した
山口県下最大級の石造の眼鏡橋である。
橋の真下から見上げると、アーチの曲線のシルエットが力強く美しい。
江戸時代、中国より伝来したという石橋としての眼鏡橋は、
九州地方には多いが、山口県下では数少ない大型石造の眼鏡橋で、
建造年代は新しいが、たいへん珍しい橋の一つである。
旧下関英国領事館 ( きゅうしものせきえいこくりょうじかん ) は、
領事館用途で建設された日本における現存最古の建築である。
所在地は山口県下関市唐戸、竣工は1906年 ( 明治39年 ) で、
1999年 ( 平成11年 ) 5月13日に国の重要文化財に指定されている。
日清戦争後、朝鮮半島の政治経済的重要性に鑑み、
駐日英国大使アーネスト・サトウの本国への具申により、
1901年 ( 明治34年 ) 9月、英国政府は下関への領事館設置を決めた。
初代領事に就任したプレイフェアは領事館設置位置を下関側にすべきか門司側にすべきか、
既存建物を借りるか新営すべきか検討していたところ、
1902年7月になり、山県有朋と下関市長の斡旋で赤間町26番地に決めた。
英国工務局上海事務所から技師長ウィリアム・コーワンが当地を訪れ、
敷地調査の上、設計に取りかかった。
コーワンは英国工務局本庁を説得して、
大胆にもクィーン・アン様式の設計案を完成させたが、
日露戦争勃発のため工事は順延となった。
日露戦争後、神戸から工事管理者を雇い工事が始まった。
当館は1941年 ( 昭和16年 ) まで英国領事館として使用された後、
1954年 ( 昭和29年 ) に下関市の所有となった。
以降、下関警察署唐戸派出所 ( 1968年まで ) 、下関市考古館 ( 1986年まで ) 、
保存修理に伴う休館( 2008年~ ) を経た2014年7月の再オープン後は
記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用され続けている。
解体か保存か・・・
今朝もそのニュースが流れていた。
福岡県大牟田市は5日、
国登録有形文化財の市庁舎本館を解体し新庁舎を建設する方針を発表した。
1936年完成の本館は老朽化で耐震性が低く、
「 維持や改修に多額の費用が見込まれる 」 と判断した。
文化庁によると、登録有形文化財になったコンクリート造りの官公庁舎解体は異例。
地元市民団体は 「 大牟田空襲で焼け残った本館は市民の歴史とともに歩み、
景観的にも市のシンボル 」 と改修した上で保存するよう求めている。
市庁舎は新館や北別館、南別館など隣接する複数棟に分かれる。
本館は正面に位置し、中央に塔屋がある左右対称の造り。
内部に彫刻が施された議場もあり、建築史家の評価は高い。
屋上には戦時中の防空監視哨が残る。
ただバリアフリー対策は不十分で、
診断の結果、耐震性は基準に達していないと指摘されていた。
登録有形文化財は昨年11月現在、全国で約1万2千件あり、
届け出れば改修や解体もできる。
文化庁によると、解体などで登録が抹消された建造物は190件だが、
民間物件が多く、コンクリート造りの官公庁舎が壊された例は
旧加納町役場庁舎 ( 岐阜市 ) しか確認できないという。
市民団体の新谷肇一会長は 「 北九州市が旧戸畑市庁舎を図書館に改修するなど、
他自治体が歴史的建物の保存と活用に努めているのに信じられない」と反発、
署名活動を計画する。
市の方針によると、今後は本館などを解体し、跡地に新庁舎を建設する。
耐震性を満たした北別館や南別館、保健所は改修し継続使用する。
2023年度着工で、25年度に一部運用を開始し、
事業完了は28年度を予定。総事業費は概算で82億3千万円。