鈴なりの藤の花
梅が過ぎて桜が来て
そして桜と入れ替わるように
藤がやって来た
京都郡みやこ町犀川崎山 田原
橋幅:10.6m
径間:6.5m
拱矢:3.25m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線
一段高いプラットフォーム
北里駅跡から木魂館と北里橋梁が見える
向こうに小国町立北里小学校が見える
北里駅は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字北里に存在した、
日本国有鉄道宮原線の駅である。
当駅付近一帯は、医学博士の北里柴三郎の出身地があり、
北里記念館がある。
現在、当駅の跡地は営業時を偲べる形で整備され、
公園及び農産物直販所となっている。
また、プラットホームが残る。
当時は地上より高い場所にホームがあり、そのまま残されている。
旧大之浦小学校
宮若市石炭記念館
筑豊最後の炭鉱は貝島炭鉱で、
1973(昭和48)年に坑内掘りの大之浦炭鉱閉山、
1976(昭和51)年に露天掘りも閉山となりました。
貝島炭鉱は宮田町(現・若宮市)周辺に多くの炭鉱(炭坑)があり、
国鉄宮田線(1989/平成元年12月廃止)は、
貝島炭鉱が石炭輸送用に自力で建設して九州鉄道へ譲渡、
後に国有化された路線です。
宮田町は貝島炭鉱の町でした。
宮田線の終点・筑前宮田駅の南には貝島炭鉱大之浦坑がありました。
その端にあった大之浦小学校(1974年閉校)の建物を利用して
1977(昭和52)年に石炭記念館が開設されました。
当初は宮田町石炭記念館でしたが、合併により宮若市石炭記念館となりました。
なかなか探し出せなかった橋梁は不気味と言うか、
神聖な場所の奥にあった。
それでなかなか探し出せなかった場所にあった。
霊力が強いのか「この場所に来るのは止そうと思った。」
そんな場所であった。
京都郡みやこ町彦徳
橋幅:4.2m
径間:1.8m
拱矢:0.9m
架設:明治28年(1895)頃
平成筑豊鉄道田川線
桜の樹の間を走る「なのはな号」
明治28年から開通している田川線。
その源じいの森温泉駅と崎山駅の間にある源じいの森キャンプ場。
そこから見える電車の写真が撮りたくて、
事前に時刻を調べて電車の通過を待った。
電車が近づく音が次第に大きくなってくるとドキドキした。
■開館時間 9時00分~17時00分
■定 休 日 年末年始のみ(年に数回臨時休館があります)
■住 所 〒869-0123 熊本県玉名郡長洲町大字長洲3150番地
■電 話 0968-78-3866
ケーキや黒ダイヤ(羊かん)が美味しいボヌール
遠賀川の支流の中元寺川そいの桜が満開になっていた。
この近くの井上陽水さんの実家跡に「夏まつり」の歌碑が建っている。
お菓子のよね村
熊本県荒尾市から長洲町へ向かった。
昔、荒尾競馬場があったころはこの道を通って競馬場へ通った。
記憶は断片的だがところどころでその風景を思い出す。
長洲には大先輩の宮路雄資さんがいて、
島原への行き帰りに何度かお邪魔したことがある。
そんな長洲町は金魚が有名で、
金魚のカタチを模した ” もなか ” が売っている。
白あん、黒あんの二種類の餡のもなかだ。
墜落したと思われる同系のヘリ「UH60」
10人が搭乗した陸上自衛隊の多用途ヘリコプター「UH60JA」が6日、
沖縄県の宮古島の周辺で消息を絶った。
UH60JAはもともと米陸軍の多目的ヘリの
「UH60ブラックホーク」を自衛隊仕様にした機体だ。
UH60ブラックホークをめぐっては、海外でも重大な事故が起きてきた。
とにかく一日も早い搭乗者の発見を祈っている。
桜と鉄橋と電車。
この組み合わせが特別な景色にさせる。
外輪山を背にするタワーがシンボルの旧阿蘇校舎1号館
one-pieceのロビン像がある旧東海大学阿蘇校舎1号館。
その独特なタワーがシンボルになっていた。
その場所がどんなになっているのか興味がある建物だったが、
こうして訪れるのは初めてだった。
熊本に住んでいた頃、毎朝練習で阿蘇山の米塚まで行っていた。
熊本市内から往復70キロほどだったと思うが、
当時は前を走る車のテールランプだけを見ていたし、
練習に集中していたので周りの景色を見る余裕もなかった。
ただ、立野を登り上がった右側に「白馬」というレストランから
平坦になるので脚にかかる負荷でそれを知った。
今年も待ちに待った「こころ旅」が始まった。
2023年 春の「こころ旅」は沖縄の残波岬から・・・
去年の秋のこころ旅で熊本県の便りで火野正平さんが訪れた「荒尾駅」は、
すごく印象に残っている。
その手紙の内容に涙が出た。
かつて炭鉱で栄えた町で育った優子さんは青森県八戸市に嫁ぎました。
年に一度の里帰りをして八戸に戻る時、
父親が高齢になるにつれ、
「来年も会えるだろうか・・・これが最後かも・・・」と思うと、
改札口から手を振る父親の姿を見て涙があふれたそうです。
そんな父親との辛い別れが沁み込んだ「荒尾駅」が目的地だった。
坂本龍一さんの坂本の名のルーツとなった”坂の下”の近くにある寺内ダム
坂本龍一さんの父・坂本一亀氏は、福岡県朝倉市甘木生まれで、
「文藝」の編集長を務め、
三島由紀夫や高橋和巳を世に送り出した伝説の編集者でした。
坂本龍一さんの祖先は、三奈木黒田家の家臣でした。
その坂本の名のルーツとなった場所が寺内ダムの右手に
” 坂の下 ” という地名で今も残っています。
また、一亀氏の祖父兼吉さんが経営していた「料理・坂本」や
その父・昇太郎さんが経営主となった「甘木劇場」などがありました。
モワ~と湧いた靄(もや)が桜をより幻想的にする
桜を包むように川から立ち上る靄と麦に当たる朝陽
1日の早朝、お参りに行く途中、
朝陽が差し込んだ桜並木を朝靄が包んでいた。
その幻想的な情景に車を停めた。