
竹富島にある 「 蔵元跡 」





蔵元跡の近くにある 「 星の砂 」 で有名な皆治浜

皆治浜 ( カイジ浜 ) の説明板

西塘が手掛けた首里城内にある 「 園比屋武御嶽 ( スヌヒャンウタキ ) 石門 」
星砂で有名なカイジ浜に入る道の手前の森に
石組みの残った平場があり、そこに 「 蔵元跡 」 の説明版が建ている。
ここは竹富島出身で琉球王府に仕えていた西塘 ( にしとう ) が、
八重山諸島を統治していた時に使っていた蔵元の跡である。
蔵元というのは年貢を収納する倉を意味するが、
それが役所を意味するようになり、
八重山、宮古、久米島では役所の事を蔵元と呼んでいた。
西塘はここで約20年間政治を行っていたが、その後石垣島に移した。
その時に唄ったとされるシキタ盆という歌は、現在でも伝えられている。
竹富ヌ仲嵩ヌ島ヤ
島ヤリヤドゥ フンヤリヤドゥ クユサル
大石垣大本ヌ真正面ニ シキタ盆
マウキ島デ イヤリル・・・
当時はこの遺構の隣にあるカイジ浜や西桟橋は、
他の島々とをつなぐ玄関口であった。
ここ蔵元で政治を行っていた西塘のことを説明しておきたい。
伝承によると、1500年に琉球王府と
宮古の連合軍が八重山のオヤケアカハチを征伐したとき、
総大将であった大里親方によって、西塘の才能が見出され、王都の首里に上り、
西塘は沖縄本島の首里の地で言葉を学び、文字を学び、
さまざまな学問を修めて当時の著名な土木建築家になった。
世界遺産に登録された園比屋武御嶽 ( スヌヒャンウタキ ) の石門は、
西塘が建築したものである。
また、首里城の城壁修復も行なったと伝えられている。
このようにして、王都の建築技術者の地位に上った西塘であるが、
彼には積年の思いがあった。
それは郷里竹富島に帰ることであった。
西塘は、石門建築の際に 「 帰郷が叶うならば、
園比屋武御嶽の神様を竹富島に勧請することを誓った 」 と伝えている。
夢叶って、西塘は八重山を統治する頭 ( カシラ ) として帰郷した。
そして、竹富島のカイジ浜近くに蔵元 ( 役所 ) を建て、そこで政治を執った。
また、竹富島に国仲御嶽を創建して遥拝所とし、園比屋武御嶽での誓いを果たした。
おかげで国仲御嶽は、八重山で唯一の首里王府に直結した御嶽となり、
誇り高き竹富人気質を涵養する精神的な拠り所になった。