二の丸の穴太積みの石垣
山腹の要である搦手門跡には秀吉の家臣毛利高政が中央の
築城技術をいち早く取り入れたもので、穴太(あのう)積みによって
造った石垣が高さ約7m、長さ約100mに及び残つている。
この石垣は、軍事上の防衛効果 だけでなく、城の雄姿をも表現している。
二の丸にある井戸曲輪
二の丸の城壁
本丸にある櫓門跡
本丸広場
本丸の城壁
本丸にある大手門
本丸大手門から見た景色
角牟礼城跡への入り口の路標
角牟礼城は、(約197,000㎡)は、角埋山に所在する中世の山城跡である。
角埋山の頂上から本丸、二ノ丸、三ノ丸という順に城跡が残っている。
穴太積みの石垣が残されているのは全国的に珍しく、
近年の発堀調査によって、山頂に残る石垣や出入り口が、
わが国で石垣が本格的に採用されされはじめた文禄・慶長期(1592→1614)
の特徴を持ち、積み方も当時の穴太(あのう)積みそのものであることがわかった。
角牟礼城は1594年(文禄3)頃に毛利高政によって豊後の要の城から、
領国支配のために土塁で囲まれた曲輪(くるわ)や竪堀のある中世の山城を、
穴太積みの石垣や櫓門(やぐらもん)をもつ近世の城郭に作り変えたと 考えられる。
このことから角牟礼城跡は、中世の山城跡と近世の城跡の両方を残している。
城の変遷を知る上で貴重な史跡である。
角牟礼城は、玖珠地方の拠点的城郭であり、
土造りの城から石垣をもつ城へ転換する、転換期の城である。
また、築城技術の地方への伝播を知る上でも重要な資料であり、
築城以来修復の跡が見られず、保存状況も完璧で、
資料の少ない織豊時代の城郭構造を解明する貴重な史料である。