「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県伊江島 ・ 琉球競馬 「 東江前馬場跡 」

2017-06-23 13:50:30 | 琉球競馬



芝生が広がるかつての馬場跡








東江前馬場跡がある青少年旅行村






伊江村役場の下の道路を真っ直ぐに行くと伊江ビーチに突き当たる。
その伊江ビーチの手前に 「 青少年旅行村 」 がある。
その中に芝生が広く張られた場所が、
かつてンマーイ ( 馬追い ) が行われていた場所で、
現代競馬のように、どことなくその面影を残している。



沖縄県那覇市 ・ 琉球競馬 「 松崎馬場跡 」

2016-07-22 04:37:41 | 琉球競馬



かつて馬場だったと思われる 「 龍潭堰堤 」









龍潭のたもとにある 「 松崎馬場跡 」 の説明板








琉球王朝が冊封使の ” おもてなし ” のために人工的に造った 「 龍潭池 」







松崎馬場跡の位置図





松崎馬場跡は、首里城から浦添方面に至る街道の一部、および広場の名称である。
龍潭 ( りゅうたん ) に突き出た一帯は松が植えられ、
そこから松崎と名づけられたと伝えられている。

1801年に、この地 ( 現・沖縄県立芸術大学敷地 ) に、
「 国学 」 ( 琉球王国の最高学府 ) が置かれた際、
松崎前の道路に木々が植えられ一帯が整備された。

中国からの冊封使来琉の時には、
この地で 「 重陽宴 」 が開かれ、爬龍船競漕見物のため桟敷席が設けられた。
薩摩侵攻後、その名残りでこの付近で競馬が行われたと言われているが、
馬場についての資料は乏しく、沖縄戦での爆撃で形を変えてしまった。
だが、玉陵 ( たまうどぅん ) 前の綾門大道 ( あやじょううふみち ) や
瑞泉酒造がある首里崎山などと同様に、
競馬が行われていたことは確かである。


沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 名護兼久 ( ナンガニク ) 馬場跡 」

2016-06-07 03:19:17 | 琉球競馬



現在の名護市役所付近に名護兼久馬場があったとされる








名護市役所の前を通る市道







名護市役所の木陰を見ていると、かつて馬が繋がれていた光景が目に浮かぶ





明治19年にヤンバル ( 沖縄県北部 ) を中心にコレラが流行り、
ヒンプンガジュマルがある名護大兼久馬場から
現在の名護市役所周辺にあった名護兼久馬場へ舞台を移して競馬が再開されたのは、
明治22年のことである。

明治34年4月15、16日に名護間切に於いて人民一般休業して、
畦払祭 ( アブシバレー ) が行われ、
その余興として名護馬持ちの者は、名護兼久馬場に於いて、
東西の二分に馬を分け、競馬を催し、
レースは全20組、40頭で行われた。

その名護兼久馬場の競馬も大正期になると姿を消した。
その理由は、農家が競走馬を飼育する経済的ゆとりがなくなったからである。
だが、驚くことに昭和17年に再び競馬が名護兼久馬場で行われていた。
当時の県知事、早川 元ご臨席のもとで、
島尻、中頭、国頭、三郡の競馬大会が行われた。
琉球三山、いわゆる南山、中山、北山の沖縄本島を代表する競馬でもあった。

現在、競馬が行われていたと思われる市役所周辺の道路は馬ではなく、
城十字路や大西に向かう車が忙しく行き交っている。


沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 真喜屋馬場跡 」

2016-05-30 07:47:07 | 琉球競馬



かつて競馬が行われていた 「 真喜屋馬場跡 」








真喜屋公民館







真喜屋小学校




名護の真喜屋は、グスクの探訪で何度も訪れた場所である。
その真喜屋にかつて競馬が行われていた馬場跡があるというので、
久し振りに真喜屋の集落に足を運んでみた。

馬場跡について地元の人に訊いてみたが、
「 ンマーハラセー はどこで? 」 って訊ねても、
「 どこでやってたのか知らないね~ 」 って言う。

沖縄県南部の島尻では、馬場跡は主に学校の運動場や公民館など、
公共の施設に姿を変えていたこともあって、
真喜屋小学校に行ってみたが、ここでも証言を得られず、
それではということで公民館に行って訊ねてみると、
「 ンマーハラセー? ンマーハラセーは浜でやってたさ~ 」 で、
わずかに光明が見えた。

それは、小学校や公民館がある山側と反対の国道58号線を挟んだ向こうにあり、
同じ浜で行われていた国頭村の桃原馬場跡と違って砂浜は狭く、弧を描いていた。
ただ、当時は防波堤など無く、もっと視界が開けていたと思われる。
琉球競馬は現代競馬のように速さを競って追い比べをする競馬ではなく、
馬の歩様の美しさを競ったものなので、
このくらいの規模でも良かったのかもしれない。

浜の光景を見ながら競馬が行われていた明治期に思いを馳せた。
年に数度の村祭りで、手塩にかけた愛馬に跨がり、
” ドヤ顔 ” で華麗にダクを踏ませていたのだろうな。


沖縄県国頭村 ・ 琉球競馬 「 桃原馬場跡 」

2016-05-01 04:15:37 | 琉球競馬












国頭村の奥間から海に沿った道沿いにある桃原集落の海岸で、
砂浜を利用して競馬 ( ンマーハラセ ) が行われていた。
ほとんどが集落の中にメインとなる真っ直ぐに伸びた道が馬場として残っているのだが、
ここや真喜屋では海岸で馬追いが行われていた。
それは岩場ではなく、広い砂浜が続く地形を利用してのものだった。


沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 瀬嵩馬場跡 」

2016-04-25 04:46:57 | 琉球競馬



久志小学校の前から伸びたかつての馬場跡








瀬崇地区の公民館














「 JAおきなわ 」 の前にある金城商店







物議を醸し出している辺野古のキャンプ・シュワブが見える大浦湾





国道331号線からキャンプ・シュワブが見える
大浦湾の海が目の前に広がる瀬崇地区へと入って行くと、
久志小学校前から伸びる旧道が
かつて琉球競馬が行われていた 「 瀬崇馬場跡 」 である。

金城商店や公民館の人に 「 瀬崇馬場跡 」 を訊くと、
「 ここだよ 」 って、目の前の道を指差した。
その道こそ、集落の娯楽の殿堂ならぬ、娯楽の競馬があったわけである。

小学校や農協などがある場所は幅員が広くなっているが、
おそらくそこで観客や審判員など待機して
馬がやって来るのを見ていたのではないだろうか?


沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 汀間馬場跡 」

2016-04-21 04:07:34 | 琉球競馬



拝所の森から一直線に伸びた道








馬場の入り口にある 「 汀間の拝所 」






汀間地区会館




国道331号線を名護から東村に向かうと、
汀間川のヒルギを見ながら汀間集落にある 「 汀間地区会館 」 が左手にある。
そこから集落に入って行くと地区会館の反対側に 「 拝所 」 があり、
その拝所の森から小中一貫校に向かって一直線に伸びた約300mほどの道が、
かつて汀間競馬が行われた馬場跡である。

汀間といえば・・・
名護市の東海岸にある汀間を舞台にした民謡 「 汀間当 」 ( ティーマトウ ) は、
役人と村娘の恋唄として、よく演奏される。
琉球王府の時代、神谷親雲上 ( ペーチン ) 厚詮が、
王府の御用品を収納する役人・請人 ( ウキニン ) として、
久志間切 ( クシマギリ、いまの町村にあたる ) 汀間村に派遣された。

村の美人、丸目加那 ( マルミカナ ) と恋仲になり、夜ごと浜に降りて逢引していた。
それを、村の青年たちが見ていて、はやし立てる様子が歌われている民謡である。


沖縄県今帰仁村 ・ 琉球競馬 「 天底馬場跡 」

2016-04-06 01:05:53 | 琉球競馬



天底公民館の裏にある 「 天底馬場跡 」







「 天底公民館 」




天底馬場は、同じ今帰仁村にある仲原馬場の近くにあるが、
仲原馬場は、現在も昔日の面影を見ることが出来るが、
天底馬場跡は、天底公民館の裏にある道路と化しており、
その姿はカーブから一直線に伸びていた。

かつて競馬が行われていた時に、
競馬ではなく、酔った村人が酌婦を連れ立って、
人目もはばからず、馬場の真ん中に円座に座り、
飲みつ喰いつ、甚だしきは、酌婦と戯れ、
懐の中に手を突っ込み、乳房を揉みて嬉しき顔する者ありし、
この日、一番の見物なりと新聞に掲載された。

そんな愚行が行われた天底馬場では、競馬の後に角力 ( すもう ) も行われていた。


沖縄県名護市屋我地島 ・ 琉球競馬 「 済井出 ( すむいで ) 馬場跡 」

2016-02-27 04:27:48 | 琉球競馬










かつての馬場跡の一部が残っている












馬場の手前500mほどの所にある 「 済井出ビーチ 」





屋我地島に渡り、済井出ビーチで 「 ンマーハシラセ 」 のことを訊ねると、
「 聖ルカ保育園と市営住宅の間にあるから 」 と、そこまでの道を教えてくれた。

今でこそ、名護の真喜屋から奥武島、奥武島から屋我地大橋で屋我地島へとつながり、
さらには屋我地島の運天原から今帰仁村の天底までワルミ大橋でつながり、
屋我地島は島のイメージが薄れてきたが、
屋我地島が単独の島だったころ、済井出で競馬が行われていた。
当時は、唯一のお祭りの催し物として行われていたと言われている。
そんな馬場跡が聖ルカ保育園の横に残っている。
そこには 「 済井出のアコウ 」 の大きな木があり、
ここで馬も人も涼を取って休んでいたのだろう。

馬場はアコウの木から直線で150mほどあり、幅員も20m近くある。
軽やかな馬のダクに酔いしれ、さらには島酒にも酔いしれて、
競馬の後はカチャーシーを賑やかに踊ったのであろう。


沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 大兼久馬場跡 」

2016-02-14 11:31:41 | 琉球競馬



ヒンプンガジュマルがある沖縄県名護市 ・ 琉球競馬 「 大兼久馬場跡 」








名護の玄関口を守る魔除けの 「 ヒンプンガジュマル 」







名護博物館に鎮座する 「 名護親方程順則 ( なごうぇーかたていじゅんそく ) 」





東江 ( あがりえ ) にあるオリオンビール工場の入り口に博物館があり、
そこに名護親方程順則の像がヒンプンガジュマルの向こうにある
大兼久馬場を見つめるように鎮座している。

名護の中心街を南北に延びる県道84号線の真ん中には、
見上げるほど大きなガジュマルの木が堂々と立っている。
それは樹齢300年を超える国の天然記念物に指定されている。

ヒンプンとは門と母屋とに間に建てられる 「 衝立 」 代わりの魔除けの塀で、
この大きなガジュマルが名護の街を守っているとして、
人びとは ” ヒンプンガジュマル ” と呼んでいる。

そのヒンプンガジュマルから名護十字路までの240mの直線が、
かつてここで競馬 ( ンマーハシラセ ) が行われていた馬場跡である。


沖縄県伊江島 ・ 琉球競馬 「 伊江島競走走路跡 」

2016-02-09 10:41:09 | 琉球競馬







ピーナツ型の伊江島の伊江村役場下を
一直線に伸びた道が伊江ビーチまで続いている。
かつてここでンマーハラセ ( 競馬 ) が行われていた。

多分ここだろうと、道路脇の理髪店に 「 馬場はここですか? 」 と尋ねたところ、
「 そうだよ。Barberはココだよ 」 と、おじさんは自慢気に答えた。
「 ん? 」 って思って、 「 ンマーハラセは? 」 と訊くと、
「 Barber じゃないの? 」 って言って、
「 子供の頃はここで馬が走ってた。」 と答えてくれた。
そして、軽トラで次の 「 東江前馬場跡 」 まで送ってくれた。

そんな伊江島の競走走路である。



沖縄県本部町 ・ 琉球競馬 「 備瀬 ( びせ ) 馬場 」

2016-02-03 01:37:51 | 琉球競馬














沖縄県本部町の 「 美ら海水族館 」 から備瀬崎に向かって行くと、
フクギ並木で有名な備瀬集落の入り口の道路が広くなっている。
ここが、かつて琉球競馬が行われていた備瀬馬場である。

それは、幅員30m前後の国道のような道が200m延びて、
フクギで囲まれた集落へと続いている。

そんな馬場は、今は観光用の水牛の観光路になっている。


沖縄県今帰仁村 ・ 琉球競馬 「 今泊馬場跡 」

2016-01-14 08:58:41 | 琉球競馬



今泊の集落の中を広い道路がかつての馬場跡である。







公民館の前にそびえる 「 コバテイシ 」






今泊公民館









今帰仁村の今泊は、今帰仁城跡から降りてきた国道505号線から海側に栄えた集落で、
その馬場は、 ( 旧・親泊 ) の 「 大道 」 と呼ばれた馬場である。
この馬場は昔から「ナチジンウェールマイ・ンマーイ」( 今帰仁親泊馬場 ) と言って、
沖縄でも有名な馬場であった。
そんな今泊馬場は、海に近いこともあってダート ( 砂 ) の馬場で、
その長さは250m、幅12~13mあったという。

琉球王朝時代、当地を訪れた三司官 ( 執政 ) 、
蔡温 ( 1682―1761年 ) が 「 戯馬台前会萬人 西風吹起馬蹄塵… 」 ( 馬場の前に万人集う。
西風吹いて馬の蹄が塵を舞い上げる)と漢詩にした由緒ある競馬の舞台である。

作られたのは三山統一(1429年)前の北山時代とされるから
本島の馬場の中でも最古の歴史を持つが、
平良真地同様、戦後、道路に変わり、当時の面影はない。

道の傍らには樹齢三、四百年の落葉樹コバテイシ(クヮディーサー)の巨木があり、
集落の人や馬が木陰で涼をとりながら、
馬の走りに固唾をのんだと伝えられるこの老木は
競馬の光景をいまでも記憶にとどめているのだろう。



沖縄県うるま市勝連 ・ 琉球競馬 「 平安名 ( へんな ) 馬場跡 」

2015-12-04 02:25:41 | 琉球競馬



















その馬場は、勝連小学校の前にあった。
以前、勝連と与那城の境に架かる沖縄の石橋を探訪した時に、
目にしたことがある場所であった。

ただその時は、饒辺 ( のへん ) 橋に気持ちが傾いていたから、
この場所は素通りした記憶がある。

馬場についての詳細は分からないが、
勝連小学校の前の道路がいきなり広くなっていることから、
この間でンマーハラセー ( 競馬 ) が行われていたと思われる。



沖縄県うるま市 ・ 琉球競馬 「 天願ジョウ跡 」

2015-11-29 01:41:28 | 琉球競馬














この 「 天願ジョウ跡 」 は、琉球競馬跡の探訪で、
探し出すのにもっとも苦労した馬場跡である。
うるま市役所の建設課や教育委員会など、色んな所に行って情報を聞き、
いろいろ調べたが誰も知らなくて、ガッカリして市役所から出ると
うるま市役所の受付の女性の方が、後ろから追いかけて来て
わざわざ住所まで調べてくれて、小さな紙に書いたメモを渡してくれた。
そのお陰で天願ジョウにたどり着くことが出来たわけである。
女性いわく、なんでも自分の通っている美容院が馬場跡の写真に写っていたという。

前置きが長くなったが、 「 天願ジョウ 」 は、大正になって姿を消した馬場である。
その天願ジョウは、直線の長さ500mを誇った ” 琉球王府公認馬場 ” でもあったが、
闘牛に押され、だんだん下火になって大正元年に姿を消した馬場である。

戦後、天願ジョウは平坦な地形に目をつけた米陸軍によって物資集積所とされ、
昭和36年には通信兵が配備され天願通信基地へと姿を変えた。
楚辺スピガニク馬場跡に建設された読谷トリイ通信基地と連携して、
ベトナムやアメリカ本国との長距離通信を担ったが、
沖縄が日本に復帰後、段階的に変換されると、
土地区画整理事業を経て平成3年に 「 みどり町 」 として生まれ変わった。

馬場は住宅地に、地名も具志川村天願から 「 うるま市みどり町 」 へと変わった・・・


ちなみにジョウとは、 ( 門 ) のことで、
琉球王府の公認基準に合致した馬場だけが名乗ることの出来た名称である。