
火野葦平旧居 「 河伯洞 」


本名の 「 玉井勝則 」 の表札が掛かった玄関



かつて 「 玉井組 」 の事務所があった場所
河伯洞 ( かはくどう ) は河童の棲家といった意味で、火野葦平の住居であった。
一時会社の寮として貸されたりして建物が傷んでいたが、
1997(平成9)年北九州市の文化財に指定され、保存されることになった。
戸籍に従えば、1907(明治40)年1月、火野葦平は福岡県遠賀郡若松町に生まれ、
1914(大正3)年若松町は若松市となる。
本名を玉井勝則といい、父と母は彼の小説「花と龍」の主人公である玉井金五郎とマンで、
その長男に生まれた。
金五郎とマンの間には男3人、女7人の10人の子が生まれ、
父金五郎は石炭仲仕 ( 石炭荷役夫、この地方では 「 ごんぞう 」 と呼ばれた ) の親分として
玉井組の看板を掲げていた。
火野葦平は、若松をこよなく愛した作家である。
彼が書く作品の舞台のほとんどが北九州で、
日本の近代化という激動の波にもまれた庶民の哀歓をとらえているのが特徴である。
そんな彼の作品 「 花と龍 」 は、読売新聞に昭和27年6月から翌年5月にかけて連載された。
明治から昭和にかけて石炭の積み出し港として全国一の出荷量を誇った若松を舞台に、
沖仲仕の世界を生き生きと描いている。
葦平の父、玉井金五郎は門司で沖仲仕となり、マンと出会って所帯を持ち、
下関、戸畑、若松と渡り歩く。
その間、裸一貫から若松でも一目置かれる石炭荷役請負業の
玉井組の親分と呼ばれるようになり、
市会議員も務め、沖仲仕のために奮闘する。
「 金五郎は、遂に決心した。マンも、同意した。
金五郎夫婦は、若松に移住した。
聯合組の壁から、古ぼけた 「 永田組 」 の札が外され、
真新しい 「 玉井組 」 の札がかかげられた。
これは明治39年に金五郎が若松の新仲町 ( 現・白山町一丁目 ) に
玉井組事務所を開いた場面で、海岸通り ( 現・本町一丁目 ) にも、
玉井組現場事務所があった。
その海岸通りには、古河鉱業若松支店や若松石炭商同業組合などの建物が
当時のまま立ち並んで、当時の面影を残している。