「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県人吉市  ・  人吉駅の 『 からくり時計 』

2013-04-30 06:10:40 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



人吉駅前にある 『 からくり時計 』








“ 栗めし ” で有名な駅弁 「 やまぐち 」 の前に建つ 『 からくり時計 』
























お城をイメージした 「 JR人吉駅 」









写真と動画は、人吉駅前にある人吉城をイメージした 『 からくり時計 』 です。
人吉城のお殿様が城下見物を行うという物語が、
民謡 【 球磨の六調子 】 の音楽をアレンジした曲に乗せて展開されているので、
今では、人吉市のシンボル 『 人吉駅前からくり時計 』 となっている。

「 からくりストーリー 」
お祭りの日、相良の殿様、城下へ-。
刻の太鼓の音とともに、からくり時計が作動し城の一階部分から臼太鼓踊り手達が登場。
臼太鼓の音に誘われて、殿様は “ 庄屋どん ” にふんして城下見物に行くことに。
人吉温泉で一汗流し、立ち寄った町屋では相良乙女と球磨焼酎を楽しんで。
ご機嫌でお城に帰った殿様は今日一日の出来事を思い、
「 天晴れ 」 と、城下を望むのでしたとさ・・・

からくり時計作動時刻
 ◆3月~10月  9時~18時の毎時
 ◆11月~2月  9時~17時の毎時

それぞれ一回の作動時間は3分10秒となっている。
なお、上記時刻は平常時の作動時刻ですので、変更される場合があります。

人吉駅前からくり時計の所在地

人吉市中青井町326番地1(JR人吉駅前)



沖縄県北中城村  「 仲順大主 ( ちゅんじゅんうふぬし ) の墓 」

2013-04-30 06:09:21 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲順大主 ( ちゅんじゅんうふぬし ) の墓







仲順大主の墓の入り口







墓の前に広がる風景











仲順集落の北側はずれの十字路を屋宜原に向かう道と、
反対方向へ約70m進んだ所に琉球石灰岩の岩山がわずかに残っている。
この岩山の北側の岩根を掘り込んで造られた墓が仲順大主の墓である。
仲順大主は、仲順村の創建者といわれる。
1259年に英祖に王位を譲り、放浪していた義本王をかくまったとの伝承があることから
13世紀中葉の頃の人物だと考えられる。
エイサー曲で有名な 「 仲順流り 」 も仲順大主にまつわる伝承が念仏歌になっている。
元は 「 長者流れ 」 と称していたようで、発音が似ているので、
仲順大主のことだと言うようになったなったと思われる。
歌劇 「 仲順流り 」 では三人の息子が登場するが、実際の仲順大主には子どもが居なかったようである。
また、隣村の喜舎場公とは同年代の人で、お互い協力して義本王をかくまったとしている。

仲順大主の位牌は花崎家に祀られていたが、明治末期に中之安里家に移り、
1952年ごろ 「 根殿の宮 」 に舜天王・義本王と一緒に合祀されている。



大分県院内の石橋 24 「 大重見橋 」

2013-04-30 06:07:15 | 大分の石橋



川底に葦が生えた上流側からの眺望









下流側の欄干は新しくコンクリートで補強はされている







大重見川に架かる大重見橋の遠望







橋のスパンの割りに分厚い頂部







壁石には不揃いの栗石が組まれている







輪石にはさまざまな大きさの石が使用されている





所在地    大分県宇佐市院内町大重見 ・ 大重見川
架橋  /  昭和20年頃
石工  /  不明
長さ   /   10.9m    幅   /   3.9m
拱矢  /     2.0m    径間  /   5.4m
環厚  /    35㎝    
単一アーチ



大重見橋は、高並川の支流の大重見川に架かる小さな石橋で、
昭和35年~36年にかけて上流側を1mほど継ぎ足して拡幅している。
そんな橋は今も現役の橋として地域の生活道路として活躍している。

大重見橋へのアクセス
大重見橋へは、小稲橋がある小稲の信号機から町道を左に入って約1キロほどで
大重見橋に行き着く。
駐車は、橋の先に広くなった場所がある。



福岡県築上町  ・  旧蔵内邸  「 大玄関間 」

2013-04-29 06:11:23 | 近代化産業遺産・土木遺産



旧蔵内邸の玄関







大玄関間







入り口の門







土間や腰壁には大理石をふんだんに用いている







上がり框







大玄関間の家紋入りの照明だけ家紋の三つ巴が逆になっている







天井には屋久杉が使われている












福岡県築上町にある国登録文化財の 「 旧蔵内邸 」 を随時紹介して行きたいと思っている。
第一回の今回は、 「 大玄関間 」 である。
大玄関間は、土間と玄関間で15坪もあり、炭坑主住宅では最大規模である。
土間や腰壁には大理石がふんだんに用いられており、
天井には屋久杉の無垢物が使われている。

また、豪華な照明には蔵内家の家紋の “ 三つ巴 ” が入っているが、
何故か?この大玄関間の照明の家紋だけは、三つ巴が逆になっている。



長崎県南島原市  「 深江港沖防波堤灯台 」

2013-04-29 06:08:59 | 長崎の灯台

























所在地 / 長崎県南島原市深江町深江港沖防波堤外端 
塗色  / 赤色
構造  / 塔形   
構造材質 / FRP造
灯質  / 単閃赤光 毎3秒に1閃光
光度  / 実効光度 26カンデラ  
光達距離 / 3.5海里 
頂部までの高さ / 5.52m
平均水面から灯火までの高さ / 10.44m
現用灯器 / LED灯器Ⅱ型赤
電球 / LED
設置、点灯および業務開始年月日 / S.56.3.4






沖縄県那覇市  ・  仲地紀仁顕彰碑とベッテルハイム居住の地記念碑

2013-04-28 06:29:25 | 沖縄



波の上の護国寺にある仲地紀仁顕彰碑とベッテルハイム居住の地記念碑








仲地紀仁の顕彰碑







ベッテルハイム居住之地記念碑












那覇の波の上通りの突き当たりに 「 波の上宮 」 と 「 護国寺 」 がある。
その護国寺の境内に仲地紀仁とベッテルハイムの碑が建っている。

1846年、イギリスから布教を目的にベッテルハイム博士が来琉した。
彼は、キリスト教が禁じられている日本に直接上陸するより琉球での布教を考え、
妻、子供二人を伴って琉球国に滞在することを決意したのである。

医師でもあったベッテルハイムは、那覇の町で貧困な人々の治療に当たり人々に親しまれるようになった。
「 ナンミンヌガンチョー 」 と呼ばれたベッテルハイムは琉球語を修得し、
那覇市内の医師を訪ねて歓談し、西洋医学の知識を伝授しようとした。
その一人に仲地紀仁 ( なかち きじん ) がいた。
仲地は1789年、泊の医学者の長男として誕生した。
家伝の医学を修得し、医療を天職として志していた。
26才の時、中国に渡り内科、眼科を学び、帰国の時、遭難で漂着した薩摩でさらに外科を覚えて帰国した。
卓越した彼の医術は、中国の漂流者の病を完治し、王府から表彰された。
 
医術の腕を認められた仲地は、宮古島の医師として二度にわたり派遣される。
那覇に帰った仲地は、泊と那覇で発生した天然痘の治療に中国で体得した人痘治療を用いて医療奉仕を行い、
再度、王府から褒賞を受けた。
ベッテルハイムは、仲地を見込んで最も優れた牛痘種痘を伝授することになる。

西洋人との交流を禁じていた薩摩の目をのがれて、仲地は波之上の洞窟の中で教えを受けた。
仲地は苦心の末、膿疱を持つ牛を入手し1848年、牛痘種痘法を完成させた。
この後、1849年に長崎で蘭医モーニッケが鍋島藩の姫に接種したのが日本各地に広がっていったのである。


「 なかち 」 といえば、沖縄でジンマシンが出て、名護にある 「 なかち皮膚科 」 で受診したことがある。
そのとき先生とグスクの話をしたのだが、先生が仲地紀仁の子孫だとか言ったのを憶えている。




大分県院内の石橋 23 「 新太郎橋 」

2013-04-28 06:27:14 | 大分の石橋



橋は下り勾配で架けられている














通路部はアスファルトで舗装されている






輪石も壁石もきれいに揃っている






橋台部分はコンクリートで補強されている




所在地 /  大分県宇佐市院内町小野川内 ・ 高並川
架橋  /  明治末期
石工  /  不明
長さ   /   11.5m    幅   /   2.0m
拱矢  /     2・4m    径間  /   5.5m
環厚  /    30㎝    
単一アーチ



新太郎橋は、県道664号線 ( 円座中津線 ) 沿いにある橋で、
対岸の民家から川を渡るために川野新太郎氏が出資して架けた橋である。
そのため長六橋と同じように出資したした河野氏の名前が付いている。
架橋は明治末期といわれているが、その割りに壁石も輪石も新しいため、
改修された可能性があると思われるが、詳細については分からない。

新太郎橋へのアクセス
新太郎橋へは、県道664号線 ( 円座中津線 ) を長六橋から上流に800mほど行った
県道の左側に架かっている。
駐車は、橋の近くの広くなった場所に駐車した。


沖縄県多良間島の聖域   「 土原 ( んたばる ) ウガン 」

2013-04-27 06:34:07 | 離島めぐり



枝張り約21mの大アカギが立つ、多良間島の 「 土原ウガン 」









土原豊見親とその祖父と天神を祀る祠







土原豊見親の父母平屋西 ( ペーンス ) を祀る祠
















土原ウガンは、仲筋の八月踊りを行なう聖域で、
遺跡の南側には枝張り約21mのアカギがあり、
その他にもフクギ、デイゴ、ガジュマルなどの古木が繁茂し、
天然記念物として沖縄県指定の文化財になっている。


多良間島の重要な史跡には常に 「 土原豊見親 」 という名前がついてまわるが、
その土原豊見親について少しばかり書いておきたい。
先ずは彼の関連する御嶽や墓など。

・土原ウガン゜:土原豊見親の両親を祭った御嶽
・ウプメーカ:土原豊見親の墓。・泊御嶽:土原豊見親の指示で創設された御嶽
・多良間神社:建立されたのは近年 ( 1902年 ) だが、祭られているのは 「 土原豊見親 」

宮古島で 「 仲宗根豊見親 」 を抜きに語れないのと同じように、
多良間島の史跡を説明する上で 「 土原豊見親 」 の存在は不可欠である。
そのくらい多良間島に根付いた人物である。

【土原豊見親 ( んたばるとぅゆみゃ ) 】 ( 生年没年不詳 )

「 豊見親 」 は官位を示す。名は 「 春源 」 、童名を 「 宇曽利 ( おそろ ) 」 という。
彼が名を成すのは八重山での動乱事件 「 オヤケ・アカハチの乱 」 から、
だがそれ以前に多良間島統治には成功していたらしい。


1500年。 「 内地 ( 日本 ) 」 では京都を中心とした権力争い 「 応仁の乱 」 が終息したものの、
その余波は各地の豪族たち衝突を招いていた。室町幕府の権威は失墜し、
官位に関係なく実力を付けた豪族達が相争う‘戦国時代’が始まろうとしていた頃・・・。

史実と伝説の間を漂っていた南海の孤島群 「 八重山 」 がこの時期、
八重山征服に乗り出した王府軍との戦いという形で「歴史の中に登場する。
一般的に「オヤケ・アカハチの乱」と呼ばれる戦である。
この戦を簡略するとすれば、

【 波照間島出身の土豪(地方の有力者)「遠弥計赤蜂保武川( オヤケアカハチホンガワラ ) 」 は、
石垣島で勢力伸ばして首里王府の尚真王 ( 1477~1526 ) と対立した。
王府は宮古島の土豪である 「 仲宗根豊見親 」 と 「 長田大主 」 を主とした征討軍を編成。
これをもって 「 遠弥計赤蜂 」 を討ち果たした 】となる。
「 土原豊見親 」 は、この征討軍に加わり多良間島から石垣島・平久保までの航路を案内して戦功を認められた。

それから22年後、西暦1522年。
「 土原豊見親 」 は与那国島で勢力を持ち 「 赤蜂 ( アカハチ )」 と同様、
王府に反旗を翻した 「 鬼虎 」 ( ウニトラ ) の征討軍にも参加する。
この征討軍の主も宮古島の土豪である 「 仲宗根豊見親 」 であった。
「 仲宗根豊見親 」 は「 土原豊見親 」 や「 仲屋金盛 」 、 「 金志川金盛 」 など、
幾人もの武士を引き連れ 「 鬼虎 」 と刃交えてこれを討ったとされている。
これら功績が認められ 「 土原豊見親 」 は首里王府から正式に多良間島島主に任ぜられた・・・。
ここまでが、いわゆる英雄物語としての功績である。

ここから彼の 「 功績 」 は暗い色彩を帯びる。
「 鬼虎 」 征伐の帰還途中、 「 仲宗根豊見親 」 は同じ宮古島の土豪である 「 金志川金盛 」 の暗殺を
「 土原豊見親 」 に依頼する。
宮古島の頭(かしら)である 「 仲宗根豊見親 」 にとって、
力をつけ始めた 「 金志川金盛 」 が目障りになって来たのだ。
宮古島の実力者の依頼を断る事が出来ず、 「 土原豊見親 」 は、
多良間島の自宅に 「 金志川金盛 」 呼び酒食の宴を催して油断させたところで暗殺した・・・。

総じていえるのは「土原豊見親」が幾つもの勢力のはざまで懸命に保身を図ろうとしていた事だろう。
それは多良間島自身を守ることと、地理的な位置関係をそのまま反映している。
この点、おなじ土豪でも情勢の動きを見極める事が出来ず滅んだ「オヤケ・アカハチ」や「鬼虎」とは異なる。
八重山諸島勢力と宮古・首里王府勢力との争い。または宮古島勢力内部の争い。
どの要素も間に挟まれた小さな多良間島にとっては直接影響を受ける事柄だった。
諸勢力の力関係を冷静に判断して “ 強い方に就く ” 。
その生き方を観ると、彼は多良間島の島民にとって頼れる “ 英雄 ” であり、
時代背景を抜きにして、人間として観れば、理性的な “ 政治家 ” だったのだろう。

ちなみに・・・。
多良間島には彼が暗殺した 「 金志川金盛 」 を祀る「ウチバルウガン」が存在する。




長崎県南島原市  「 布津港湯田A防砂堤灯台 」

2013-04-27 06:31:09 | 長崎の灯台
































所在地 / 長崎県南島原市布津町布津港湯田A防砂堤外端 
塗色  / 赤色
構造  / 塔形   
構造材質 / コンクリート造
灯質  / 群閃赤光 毎6秒に2閃光
光度  / 実効光度 470カンデラ  
光達距離 / 7.5海里 
頂部までの高さ / 9.17m
平均水面から灯火までの高さ / 11.53m
現用灯器 / LC管制器Ⅰ型
電球 / C-2
設置、点灯および業務開始年月日 / H.2.2.20



4月27日 「 月が美しかった朝 」

2013-04-27 06:16:29 | 朝の風景とその他の風景



4月27日 「 月が美しかった朝 」
















昨日の朝、5時過ぎに散歩に出ると綺麗な月が西の空にポッカリと浮かんでいた。
黄味がかった色をした月だったが、生憎カメラを持参していなかったので撮れなかったから、
それで今朝、改めて撮ったというわけである。
ムサシがリードを引くので映像がややブレているが、そこんとこはご了承願いたい。

こうして観る朝の月は、新聞配達の人や、ごく限られた人にしか観れない特権みたいなのがあるような気がする。
「 早起きは三文の徳 」 というから、早起きのご褒美を頂いたのかもしれないな。

鹿児島県鹿児島市 ・ 幻の宰相 「 小松帯刀 ( こまつ たてわき ) 」

2013-04-26 04:56:25 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒










鹿児島県文化センターの前に建つ小松帯刀の像





小松帯刀 ( こまつ たてわき 1835(天保6)~1870(明治3)年 ) は、強い意志と明噺な頭脳を持ち、
藩主・島津斉彬 ( なりあきら ) の側近として、西郷隆盛や大久保利通などを登用・抜擢した。

下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通、
一介の浪人であった坂本龍馬が幕末に存在感を持つ活動が出来たのも、
薩摩藩家老という地位を持った小松帯刀の支援協力があったからで、
明治政府樹立に向けて小松帯刀の存在は大きかったというのが見直されている理由である。

小松帯刀は、鎖国という状況のもとにあって掟破りとも言える発想で、西洋の技術や文化を積極的に採り入れた。
藩主島津斉彬の意をうけて1861年には長崎で洋水雷、砲術の知識を学ぶとともに、
オランダ艦船に搭乗し軍艦の操縦術を習得。
 
家老就任後には,生麦事件に端を発した薩英戦争 ( 1863年 ) でイギリスと戦火を交え、
その科学技術力の高さを身をもって体験したことから講和成立後は一転して英国との親交を深め、
留学生を派遣するなどして先進技術の導入に取り組んだ。

幕末維新期に活躍した英国の辣腕外交官アーネスト・サトウは、
薩摩藩家老として西郷隆盛,大久保利通といった下級武士を登用・抜擢し、
明治維新を裏方として支援した小松帯刀について次のような人物評を残している。

「 小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、
家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず,政治的な才能があり、
態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。 」


そんな小松帯刀の名をつけた焼酎は、薩摩の偉人を銘柄にしていることからも、
「 黄金千貫いも 」 を特に厳選して丁寧に原料処理を行った芋焼酎である。
麹は昔ながらの黒麹を使用し、低温発酵でもろみを造り伝統的な常圧蒸留を行っている。
口に含むと、芋らしい落ち着きのある香りと柔らかな甘味が感じられると共に、
軽快でスッキリした味わいが特長の焼酎である。



沖縄県宮古島市  「 大神島で釣った魚 」

2013-04-26 04:52:58 | 離島めぐり



連絡船の待ち時間に釣った魚









クツクツッと浮きが動く感覚がたまらない







竿を貸してくれたおじさん







大神島の人たち





大神島から帰る連絡船の待ち時間があったので、
港で釣りをしているのを傍で見ていたら、
「 よかったら釣っていいよ 」 と、竿を渡された。
「 ほんじゃあ、一丁やっか! 」 と、竿を手に気合いを入れた。
熊本に住んでいた頃はよく釣りに行っていたが、最近はご無沙汰であった。

久し振りに竿を持つとワクワクするものである。
そして3分くらいしてクツクツッと当たりが来て、
クィ~ッと浮きが沈むのに合わせて竿を立てると、
グググッっと抵抗する力がハリスを通して伝わって来た。
この瞬間がたまらん!
一気にあげることなく、楽しみながらリールを巻くと、
熱帯魚のような魚が外れ馬券のように、ヒラヒラと翻りながら上がって来た。

そばで見ていたパラパラな乗船客も 「 うぉー 」 っと声を上げ、
なぜか拍手をしてくれた。

釣れた魚を竿を貸してくれたおじさんに渡して、出航を待つ連絡船へと向った。
船から島で友達になった人たちに手を振りながら大神島を後にした。
このあと那覇に向うために宮古空港に向ったが、ハッピーエンドだった。



大分県院内の石橋 22 「 長六橋 」

2013-04-26 04:51:48 | 大分の石橋










累々と壁のように積まれた壁石






アーチ部分はコンクリートで巻かれている






旧・県道の橋として使われていた長六橋






「 長六橋 」 と彫られた親柱






橋のある場所は深い谷になっている





所在地 /  大分県宇佐市院内町小稲 ・ 高並川
架橋  /  昭和 7年10月
石工  /  松田 新之助
長さ   /   20.8m    幅   /   3.1m
拱矢  /       ?m    径間  /   9.0m
環厚  /    40㎝    
単一アーチ



長六橋は県道の旧道の橋であるが、
もともとは左岸橋畔に居宅のある佐藤長六氏が出資して架設したもので、橋名にしてある。
橋の下は深い谷になっており、ほぼ垂直に切り立った両岸から出た
繁った木々が覆い被さるようにその輪郭を遮っていた。
石工は松田新之助といわれているが、この場所での架橋は困難を極めたであろう。

長六橋へのアクセス
長六橋へは小稲橋から県道664号線 ( 円座中津線 ) を約1キロほど行った右側に架かっている。
橋の入り口に消防小屋がある。駐車は橋の袂の広い場所に駐車した。


那覇市首里崎山町 「 御茶屋御殿 」 と 「 吉屋チルー 」

2013-04-25 05:03:34 | 沖縄



首里崎山町にある 「 御茶屋御殿跡 」















比謝橋の袂にある吉屋チルーの歌碑








吉屋チルーの説明











首里城の裏側の脇道を入ったところにかつて栄華を誇った琉球王朝の御茶屋御殿があった。

御茶屋御殿 ( うちゃやうどぅん ) は沖縄県那覇市首里崎山町にかつてあった琉球王府の迎賓館で、
かつ文化の殿堂である。
識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも呼ばれた識名園が首里城の風水上の南(方位の西)に位置している事から
南苑 ( なんえん ) とも呼ばれたのに対し、
御茶屋御殿は首里城の風水上の東(方位の南)に位置していた事から東苑 ( とうえん ) とも呼ばれた。

建設・造園は尚貞王代の1677年 ( 康熙16年 ) ~1682年 ( 康熙21年 ) の間とされる。
1683年 ( 康煕22年 ) に琉球を訪れた冊封使一行の接待の一部が御殿で執り行われた。
正使の汪楫 ( おう しゅう ) は著書 『 使琉球雑録 』 の中でこの付近を景勝の地と讃え、
御殿を東苑 ( とうえん ) と名付けている。
第二次世界大戦で園内の建造物は全て破壊された。
現在、跡地には、カトリック教会及び付属幼稚園が建っている。
2006年12月25日、那覇市議会の12月定例会において
「御茶屋御殿の早期復元・整備を求める意見書」が議決されている。


この地に来ると、琉球歌人の吉屋チルーを思い出す。

※ 1600年代に実在した(1650年生まれが有力)と言われる女流歌人。
  「吉屋チルー」は沖縄県読谷村(恩納村山田という説もある)の生まれとされ、
  7.8才の時に家庭の事情で那覇の遊郭に女郎として売られる。
  その時に詠んだ歌が一番。


恨む 比謝橋や
情きねん人ぬ
我身渡さと思てィ
掛きてィうちぇら


恨むべし 比謝橋よ
私を渡そうと思って
情けのない人が
架けておいたのか

二番は、那覇の遊郭から故郷を偲んだ歌。


島んとゥなどとゥ
クバんソイソイとゥ
繋じある牛ぬ
鳴ちゅらとゥみば


故郷の村も静まり
クバの葉がそよそよと
繋いである牛が
鳴いていると思うと、、、



三番は、病床で詠んだ歌

鳴ちゅるむぬ聞かぬ
鳴らむぬ聞ちゅし
くぬ世からあぬ世
近くなたら


鳴っているはずの音が聞こえず
鳴ってないはずの音が聞こえる
この世からあの世が
近くなったのだろうか

病床で三番を詠んだあと、20才前後の若さで自殺したといわれる。

那覇の遊郭で自殺した吉屋チルーのお骨を郷里へ運ぶ途中、
新しい王家の別邸の命名の話が出たところ、
甕 ( 骨壷 ) の中から声が聞こえ詠まれた、といわれた歌で
 「 詠み人知らず 」 という説もある。
読谷村と嘉手納町に架かる比謝橋に吉屋チルーの歌碑がある。


四番は、骨壷の中から詠まれた歌

拝でィ拝みぶしゃ
首里天加那志
遊んィうちゃがゆる
御茶屋御殿


拝んで拝みきれぬ
首里の王様よ
遊んで遊びきれぬ
御茶屋御殿(という名がよいよ)



沖縄県宮古島市  「 大神島展望台からの眺望 」

2013-04-25 05:02:21 | 離島めぐり



大神島展望台からの眺望 ( 西平安名埼~池間島 ) 方面








島尻港と集落とノッチと呼ばれ奇岩が海岸に並ぶ








( 坂の途中から海に向かって見る光景 )
海岸からこの坂道を上って行くと展望台への階段へとつながる







坂の途中にある大神島コミニュティーセンター








島のシンボル的は 「 貯水塔 」







展望台の下にある井戸








展望台まで続く階段







展望台の頂部にある拝所







島の東側にある「 大神島多目的広場 」








港にある大神島案内板











大神島の中心部に標高74mの山の頂部に展望台が設置されている。
そこから大神島が一望できる。

大神島の集落は港がある島の南側に集中する。
集落から丘を登ると遠見台があり、宮古島、池間島を展望できる。
集落以外の島内の多くは聖域とされ、島民以外の(場合によっては島民も)立ち入りが禁じられている。
2000年5月には島の約20%にあたる6万㎡を焼失する山火事が起きている。

一周道路 - 当初は島を一周する道路が計画されていたが、
現在も島の東部から北部にかけての約1/4強が未完成である。
そのため、道路は島の東端付近と北端付近で行き止まりになっている。
工事が中断された理由として、工事の途中でブルドーザーの爪が折れたり、
機械が故障したりしたため、予定ルート変更をしたが、
それでも工事関係者や島民が原因不明の病気に次々とかかるなどの異変が続いたためと伝えられている。
道路の中断部にはお祓いの跡がみられる。
大神島と他の島を結ぶ橋はない。