枝張り約21mの大アカギが立つ、多良間島の 「 土原ウガン 」
土原豊見親とその祖父と天神を祀る祠
土原豊見親の父母平屋西 ( ペーンス ) を祀る祠
土原ウガンは、仲筋の八月踊りを行なう聖域で、
遺跡の南側には枝張り約21mのアカギがあり、
その他にもフクギ、デイゴ、ガジュマルなどの古木が繁茂し、
天然記念物として沖縄県指定の文化財になっている。
多良間島の重要な史跡には常に 「 土原豊見親 」 という名前がついてまわるが、
その土原豊見親について少しばかり書いておきたい。
先ずは彼の関連する御嶽や墓など。
・土原ウガン゜:土原豊見親の両親を祭った御嶽
・ウプメーカ:土原豊見親の墓。・泊御嶽:土原豊見親の指示で創設された御嶽
・多良間神社:建立されたのは近年 ( 1902年 ) だが、祭られているのは 「 土原豊見親 」
宮古島で 「 仲宗根豊見親 」 を抜きに語れないのと同じように、
多良間島の史跡を説明する上で 「 土原豊見親 」 の存在は不可欠である。
そのくらい多良間島に根付いた人物である。
【土原豊見親 ( んたばるとぅゆみゃ ) 】 ( 生年没年不詳 )
「 豊見親 」 は官位を示す。名は 「 春源 」 、童名を 「 宇曽利 ( おそろ ) 」 という。
彼が名を成すのは八重山での動乱事件 「 オヤケ・アカハチの乱 」 から、
だがそれ以前に多良間島統治には成功していたらしい。
1500年。 「 内地 ( 日本 ) 」 では京都を中心とした権力争い 「 応仁の乱 」 が終息したものの、
その余波は各地の豪族たち衝突を招いていた。室町幕府の権威は失墜し、
官位に関係なく実力を付けた豪族達が相争う‘戦国時代’が始まろうとしていた頃・・・。
史実と伝説の間を漂っていた南海の孤島群 「 八重山 」 がこの時期、
八重山征服に乗り出した王府軍との戦いという形で「歴史の中に登場する。
一般的に「オヤケ・アカハチの乱」と呼ばれる戦である。
この戦を簡略するとすれば、
【 波照間島出身の土豪(地方の有力者)「遠弥計赤蜂保武川( オヤケアカハチホンガワラ ) 」 は、
石垣島で勢力伸ばして首里王府の尚真王 ( 1477~1526 ) と対立した。
王府は宮古島の土豪である 「 仲宗根豊見親 」 と 「 長田大主 」 を主とした征討軍を編成。
これをもって 「 遠弥計赤蜂 」 を討ち果たした 】となる。
「 土原豊見親 」 は、この征討軍に加わり多良間島から石垣島・平久保までの航路を案内して戦功を認められた。
それから22年後、西暦1522年。
「 土原豊見親 」 は与那国島で勢力を持ち 「 赤蜂 ( アカハチ )」 と同様、
王府に反旗を翻した 「 鬼虎 」 ( ウニトラ ) の征討軍にも参加する。
この征討軍の主も宮古島の土豪である 「 仲宗根豊見親 」 であった。
「 仲宗根豊見親 」 は「 土原豊見親 」 や「 仲屋金盛 」 、 「 金志川金盛 」 など、
幾人もの武士を引き連れ 「 鬼虎 」 と刃交えてこれを討ったとされている。
これら功績が認められ 「 土原豊見親 」 は首里王府から正式に多良間島島主に任ぜられた・・・。
ここまでが、いわゆる英雄物語としての功績である。
ここから彼の 「 功績 」 は暗い色彩を帯びる。
「 鬼虎 」 征伐の帰還途中、 「 仲宗根豊見親 」 は同じ宮古島の土豪である 「 金志川金盛 」 の暗殺を
「 土原豊見親 」 に依頼する。
宮古島の頭(かしら)である 「 仲宗根豊見親 」 にとって、
力をつけ始めた 「 金志川金盛 」 が目障りになって来たのだ。
宮古島の実力者の依頼を断る事が出来ず、 「 土原豊見親 」 は、
多良間島の自宅に 「 金志川金盛 」 呼び酒食の宴を催して油断させたところで暗殺した・・・。
総じていえるのは「土原豊見親」が幾つもの勢力のはざまで懸命に保身を図ろうとしていた事だろう。
それは多良間島自身を守ることと、地理的な位置関係をそのまま反映している。
この点、おなじ土豪でも情勢の動きを見極める事が出来ず滅んだ「オヤケ・アカハチ」や「鬼虎」とは異なる。
八重山諸島勢力と宮古・首里王府勢力との争い。または宮古島勢力内部の争い。
どの要素も間に挟まれた小さな多良間島にとっては直接影響を受ける事柄だった。
諸勢力の力関係を冷静に判断して “ 強い方に就く ” 。
その生き方を観ると、彼は多良間島の島民にとって頼れる “ 英雄 ” であり、
時代背景を抜きにして、人間として観れば、理性的な “ 政治家 ” だったのだろう。
ちなみに・・・。
多良間島には彼が暗殺した 「 金志川金盛 」 を祀る「ウチバルウガン」が存在する。