1853(嘉永6)年のペリー来航前後の日本では、
欧米列強に対する危機感が高揚、これに対抗するため、
西南雄藩が中心となって海防強化に努め、
旧来の青銅製大砲に代わる強力な鉄製大砲の自力生産が模索されはじめます。
このような時代のなか、萩(長州)藩では1855(安政2)年に、
西洋の兵学や文化などを広く研究するため西洋学所という教育機関を設け、
1856(安政3)年には恵美須ヶ鼻造船所を設立して、
最初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」を建造するなど、
兵制の改革、軍備の拡充に努めました。
こうした軍事力強化の一環として、
鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉である反射炉の導入を試みた。
萩(長州)藩は、1855(安政2)年7月、
すでに1851(嘉永4)年に反射炉の操業に成功していた佐賀藩へ、
藩士の山田宇右衛門(やまだうえもん)らを派遣します。
目的は、鉄製大砲の鋳造法習得でしたが、
製砲掛が長崎に行って不在であることなどを理由に伝授を謝絶されます。
そこで萩(長州)藩は翌8月、佐賀藩が欲していた萩(長州)藩発明の
「砲架旋風台(ほうかせんぷうだい)」(大砲の台)の模型を大工棟梁で、
藩士の小沢忠右衛門(おざわちゅうえもん)に持たせ、
佐賀藩へ派遣しました。
小沢は反射炉の見学を許され、スケッチをとり、帰ると藩にこれを提出します。
萩(長州)藩では直ちに設計を開始し、
11月に藩士の村岡伊右衛門(むらおかいえもん)を御用掛に命じて、
翌1856(安政3)年から鉄製大砲の鋳造に取り組みます。
現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分で、
高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)です。
上方で二股に分かれているように見えますが、
実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっています。
佐賀や韮山(静岡県)の反射炉が、オランダ人ヒュゲーニンの原書どおり、
約16メートルの高さがあったのに比べ、萩反射炉は7割程度の規模しかありません。
砲身に穴を空けるために必要な平錐台(ひらぎりだい)(ドリルのようなもの)を
稼働させるために必要な動力水車用の川又は水路の形跡も見られません。
また、これまで萩反射炉は1858(安政5)年の築造であるとされてきましたが、
現在、記録で確認できるのは、
1856(安政3)年の一時期に反射炉が操業されたということだけです。
これらのことから、近年では萩(長州)藩には実用炉の存在は認められず、
現存する反射炉は試作的に築造されたものであるという見方が有力視されています。
萩反射炉は、1924(大正13)年12月に国の史跡に指定されました。
国内に現存している反射炉は、静岡県の韮山と萩の2基だけであり、
試験炉ではありますが、自力による近代化初期の資産として重要なものであります。
所在地 / 山口県萩市大字椿東4897-7