上山田駅から先は昭和41年 ( 1966年 ) の開業区間で、
他線が明治に開業したことを考えれば、随分と遅い開業になる。
上山田から熊ヶ畑を通り、ここからレールを残して熊ヶ畑トンネルと続くが、
トンネル内の線路が盗難に遭ったため、現在はトンネルは封鎖されている。
トンネルを抜けると嘉麻市から川崎町へ入るが、
豊前川崎駅までは真崎駅と東川崎駅が存在した。
真崎駅はその面影が残っているものの、
東川崎駅については道路が少し広くなったくらいで何の遺構も遺されていない。
上山田駅から先は昭和41年 ( 1966年 ) の開業区間で、
他線が明治に開業したことを考えれば、随分と遅い開業になる。
上山田から熊ヶ畑を通り、ここからレールを残して熊ヶ畑トンネルと続くが、
トンネル内の線路が盗難に遭ったため、現在はトンネルは封鎖されている。
トンネルを抜けると嘉麻市から川崎町へ入るが、
豊前川崎駅までは真崎駅と東川崎駅が存在した。
真崎駅はその面影が残っているものの、
東川崎駅については道路が少し広くなったくらいで何の遺構も遺されていない。
真崎駅があった場所が記念公園となっている
かつてのホームが残っている
上山田駅から先は昭和41年 ( 1966年 ) の開業区間で、
他線が明治に開業したことを考えれば、随分と遅い開業になる。
上山田から熊ヶ畑を通り、ここからレールを残して熊ヶ畑トンネルと続くが、
トンネル内の線路が盗難に遭ったため、現在トンネルは封鎖されている。
トンネルを抜けると嘉麻市から川崎町へ入るが、
豊前川崎駅までは真崎駅と東川崎駅が存在した。
熊ヶ畑駅の次の真崎駅 ( まさきえき ) は、
かつて福岡県田川郡川崎町真崎5297番地にあった九州旅客鉄道( JR九州 )上山田線の駅である。
上山田線の廃止に伴い1988年 ( 昭和63年 )9月1日に廃駅となった。
1面1線で交換不能の地上駅であった。
朝日に照らされて白く光る取り残されたレール
歩道も設置された鉄橋
まだ現役として活躍しそうな作りが窺える
鉄橋の下には山田川が流れる
第一山田川橋梁がある神幸一番区交差点
上山田駅から先は昭和41年 ( 1966年 ) の開業区間で、
他線が明治に開業したことを考えれば、随分と遅い開業になる。
時代が平成に代わる前の昭和63年9月1日に廃止になるまでの約22年間、
この鉄橋の上をキハ20型が走っていた。
嘉麻市熊ヶ畑側から見た 「 熊ヶ畑トンネル 」
トンネル内のレールは盗難に遭ったが手前は存在している
トンネルの入り口は草に覆われてレールが見えない
川崎側から見た 「 熊ヶ畑トンネル 」
トンネルの奥に熊ヶ畑側の出口の明かりが見える
トンネルを出ると、かつての線路跡は整備され遊歩道になっている
川崎側のトンネルの入り口に 「 荒平一号橋 」 が架かっている
トンネル出口から川崎川を望む
雪舟さんの庭園 「 魚楽園 」 の入り口にトンネルがある
飯塚から上山田までは明治36年に開通したが、
山田駅から先は昭和41年 ( 1966年 ) の開業区間で、
他線が明治に開業したことを考えれば、随分と遅い開業になる。
上山田から熊ヶ畑を通り、ここからレールを残して熊ヶ畑トンネルと続くが、
平成16年にトンネル内のレールが盗難に遭ったため、現在トンネルは封鎖されている。
トンネルを抜けると嘉麻市から川崎町へ入るが、
熊ヶ畑を出ると川崎町へ抜ける県道を横断して熊ヶ畑トンネルへと入る。
県道を横断していた踏み切りは無くなってしまっていたが前後はレールも残っている。
熊ヶ畑トンネルは全長1.7Kmの長いトンネルで一直線に川崎町へと伸びている。
曲がりくねった県道で山を越えてトンネルの出口にまわる。
トンネル出口側も柵があり、出口のすぐ手前まで行ってみると入り口の光が見える。
駅跡の横には県道442号線が通っている
戦後の復興を支えた筑豊の炭鉱地帯は、
石炭積み出しのための路線が多数存在していた。
その産炭地帯の一つが筑豊南部を走っていた上山田線である。
この線は、当初明治28年 ( 1895年 ) 4月5日、
筑豊鉄道によって飯塚~臼井間 ( 7.0㎞ ) が開通。
明治30年 ( 1897年 ) 10月1日、筑豊鉄道は九州鉄道に合併。
同時に飯塚~臼井間を筑豊線と改称した。
明治31年 ( 1898年 ) 2月8日には臼井~下山田間 ( 5.4㎞ ) が開通し、
さらに、明治36年 ( 1903年 ) 12月20日に上山田までの2.8㎞が開通した。
明治42年 ( 1909年 ) 10月12日に線路名称を統一した筑豊本線となった。
旧上山田線の大隈駅は大隈ではなく、牛隈の交通公園内にある。
伊田架道橋と伊田山トンネルの間にある煉瓦アーチの遺構
伊田駅のそばにある伊田商店街のアーケード
田川伊田駅と伊田山トンネルの間にある伊田架道橋の橋台
橋台の側面は「 下駄っ歯構造 」 になっている
日田彦山線の田川伊田駅~田川後藤寺駅に開通当初、
伊田山トンネルと呼ばれるトンネルが存在していた。
元々田川線の一部であったこの区間は豊州鉄道が建設したもので、
明治28年 ( 1895年 ) の行橋~伊田間の開通に続き、
明治29年 ( 1896年 ) 2月5日に開通した。
線路はすでに百十余年の歴史を持つが、
伊田山トンネルは開通後わずか10年足らずで姿を消してしまった。
飯塚から川崎までの上山田線は石炭産業の衰退で、
開業からわずか22年で全線が廃止されてしまった。
今は廃線になっているが、ところどころに線路が残されており、
当時の面影をしのばせてくれる。
その線路わきにポニーの白馬が草をハミハミたたずんでいた。
今までグスクや按司墓。
灯台や石橋など、色んなテーマを掲げて、その場所を探訪して来たが、
今回は新たに 「 鉄道廃線路跡や駅舎 」 を巡りたいと思っている。
そのための資料として本を3冊取り寄せた。
旅に出なくてもページをパラパラめくると頭の中で探訪が始まる。
この記事が掲載される頃には、灯台をめぐる山陰の旅に出ている。
突き当りのスレート倉庫あたりの広瀬橋駅へと橋台跡から築堤が続く
かつての広瀬橋駅は梅圃になっている
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
黒土駅を出てさらに南下すると、のどかな田園地帯の中を築堤が伸びる。
途中、頑丈に作られた橋台跡を見ることが出来る。
そこから広瀬橋駅跡まで200mほど直線で築堤が続くが、
かつての広瀬橋駅があった場所は梅圃へと姿を変えていた。
かつて宇島鉄道の 「 塔田駅 」 があった場所
築堤跡
今も遺る橋梁の石積み
かつて宇島鉄道の 「 黒土駅 」 があった場所
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
塔田駅から築堤跡に沿って南下すると、
田園地帯の中に橋梁の石積みが遺されている。
そこからさらに築堤に沿って行くと岸井集落に着く。
その集落の中に 「 黒土駅 」 があった。
今は線路が生活道路として遺っているくらいで、
当時の駅を偲ぶ物は何も遺っていない。
築堤へと続く塔田東側橋台
塔田駅跡から300mほどの場所にある塔田西側橋台
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 -岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
宇島軽便鉄道の塔田駅跡から黒土駅跡に向かう途中に
築堤の間を流れる小川に架けた鉄橋を渡すために築かれた橋台が残っている。
今回は塔田西側橋台と東側橋台を紹介したが、
路線跡が遺っていることは嬉しいものである。
千束停車場から塔田に向かう線路道
アパートとアパートの間あたりに線路が通っていた
信号機の向こうの駐車場が塔田停車場があった場所
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
今回は停車場でもあり、機関車庫でもあった千束から塔田までの道程である。
千束中学校のテニスコートに姿を変えた千束駅および機関車庫跡
歩道の辺りがかつての線路跡
ここから塔田に向かう曲がりくねった線路道
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
宇島径便鉄道の第3弾。
八屋中学校から千束中学校までの区間にある千束停車場跡と機関車庫跡である。
大規模ではないが、ここで車両を休ませ、整備点検していた場所である。
漁火付近の細く曲がった軌道跡
軌道跡から宇島停車場方面を望む
マルショクの駐車場の中央の電信柱付近を線路が敷かれていた
私道となった、かつての線路
私道を抜けて福岡銀行の建屋の間の隙間が軌道跡になる
宇島鉄道は明治45年3月に京築の有志により、
宇島鉄道株式会社を設立され、
大正3年(1914年)1月11日に待望の開通式を迎えた。
今から100年以上も前のことである。
豊前市八屋から上毛町有野までの17.7キロを結ぶ「宇島鉄道」であったが、
大分県中津市の「耶馬渓鉄道」の出現や経営難などから、
昭和11年(1936年)8月1日に全面廃業した。
わずか22年6カ月で廃線となった幻の宇島鉄道である。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野
今回の軌道跡は、宇島停車場から福銀までの紹介である。
当時は民家が無かった場所で、買収しやすい土地を選んだため、
蛇のように曲がりくねった細い道が線路だった。
その名残りで曲がった細い道が今も生活路として使われている。
奥の緑のテント辺りがかつて宇島駅があった場所
当時の様子が再現された停車版
当時の発車時間表
手前の道を右から左へと線路が敷かれていた
宇島軽便鉄道区間 / 宇島 ー 鮎帰 17Km
業務開始 / 大正3年1月21日 ( 1914年 )
業務廃止 / 昭和11年8月1日 ( 1936年 )
山国川を挟んで対峙する福岡県の宇島町 ( 現豊前市 ) と大分県の中津市。
ともに山国川沿いの耶馬渓地区、あるいは天領日田との経済的結びつきを深めるべく、
それぞれが競って鉄道建設を計画した。
中津から延びる耶馬渓鉄道に対し、
一歩出遅れた宇島鉄道は耶馬渓地区手前までの開業にとどまり、
この時点で両社の明暗が分かれた。
福岡県内の上毛町鮎帰の終点を強引に耶馬渓と名付け、
木材輸送などに活路を求めるが経営は好転せず、
バスへの転換をもって鉄道の歴史に幕を下ろした。
そんな宇島軽便鉄道跡を起点の宇島駅から随時紹介して行こうと思っている。
宇島 ー 千束 ー 塔田 ー 黒土 ー 広瀬橋 ー 安雲 ー 光林寺 ー 岩木大池築堤
友枝 ー 鳴水橋 ー 下唐原 ー 中唐原 ー 上唐原 ー 百留 ー 原井 ー 鮎帰 ー 有野