デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



私は本格的な小説など書いたこともないが、ある小説家のインタビュー記事から、小説の新たな試みをする上で先祖帰りする作品が二つあるという言葉には、興味を持ったことはある。その作品とは、一つは17世紀の『ドン・キホーテ』、もう一つは18世紀の『トリストラム・シャンディ』だという。
この『トリストラム・シャンディ』を書いたイギリスの小説家にロレンス・スターンという人がいて、スターンは日本人でも馴染み深く感じられるような題名をもつ『センチメンタル・ジャーニィ』(1768、原題は A Sentimental Journey through France and Italy, by Mr.Yorick)という作品を書いている。
解説によれば、この作品におけるセンチメンタルは現代の訳みたいに感傷というものではなく、18世紀に実際に用いられていた「考え、意見」という意味と、スターン自身が広めた「洗練された豊かな感情」という意味が併せて込められ使用されているらしい。
では、作品はどういった内容かというと、ヨーリック師なる人物がフランスとイタリアを巡った旅行記と一言で済ませられるようで、そうでもないのだ。
スターンの書く小説は話の筋があるのか無いのか、本当に分かりづらい脱線小説という特徴を持っている。ところがこの手法は一時忘れ去られるものの、20世紀文学に多大なる影響を及ぼした。
どんなことかというと、観光名所そのものの蘊蓄を傾けるよりも、街角で出会った人の印象やトラブルの事実に加えて、そのときの自分の感情を包み隠さずに文にするところであるといえるかも。なんだそれくらいのこと、と思われるかもしれないが、これがそうなかなかできないものだ。とくに旅行先で出会った人に対する感情を発露するとなると、それが嫌悪なのか悲哀なのか同情なのか欲情なのか義侠なのか疑念なのか…大雑把に表現するだけでもかなり難しい。まして印象を文にした時点で、自分にウソをついているかもしれないわけで、読んでいる相手に洗練された感受性を表現することは大変なことなんじゃないかと思う。
だから作品では、宿で出会ったがめつい主人についての記述が数ページにも及んでいたりするわけだ。ところが内容は退屈かといえば(最初はそうかもしれないが)、洗練された感受性ゆえに、感傷的で泣きそうになるような場面のはずでも、どこか笑いを誘うような、多感な筆者ならでは記述もたくさん散見できる。だから、ある程度読み進み慣れてくるとかえって退屈しないし、まるで人様の面白い旅行話を聞いているようなそんな感覚になってくる。
倦厭されるかもしれないが、私は旅行記などの文章を書くときはスターンのような徹底した情感の記述を盛り込んでいるつもりなのだが、いつも気持ちだけになってしまっている。まぁ実際、旅程に加えて出会った人とのことを情感たっぷりに全部書こうものなら一生が終わってしまうので、無理な注文といえばそうなのだが、でもスターンはそれをやろうとしたんだろうなぁ。何せスターンの作品には完結したものが無く、最後の文は尻切れトンボで終わってしまっているのだから…。
この作品で印象に残った言葉の一つ

人間にはやすやすと欺される心が或る程度ないと、それはかえってよくないものだ――
スターン『センチメンタル・ジャーニィ』小林亨訳(朝日出版社)p139

旅行中、ボラれやすい自分には大いになぐさめになる。

この作品は脈絡が感じられないので退屈かもしれないが、話が脱線していくような内容が苦痛でない人にはおすすめかもしれない。またスターンといえばやっぱり『トリストラム・シャンディ』だと思うのでそちらも併せておすすめ。ちなみに本は入手困難ではある…。
最後に、タイトルを見てこのブログに飛んできた方、ひょっとして1981年以降に流行った松本伊代が歌った曲か、渡辺淳一の本のことを書いた記事と思ったかもしれませんが、これをきっかけにスターンの「脱線小説」の世界を楽しんでみてくださいませ。

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