デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



カミーユ・コロー「朝、ニンフたちの踊り」(1850)

カミーユ・コロー(1796-1875)の作品については書くまで何故か時間がかかった。作品は素晴らしいのに、文章にしようとすると「書きたい!」という熱烈な思いが湧いてこないのである。
というのも芸術作品を鑑賞し感想を述べるうえで、作者の生涯ではなく作品でのみ評価したら?と考える人には良いが、私はどうせなら作者の生涯と絵の関係について、ある程度分かっている限りは恐れ多くも生涯にも触れたいと思っているからだろう。もちろん、コローの生涯は退屈なものではなく、二月革命(1848)以降に作品が認められるまでは苦労も多かったろうし、私も気分が乗ればぜひ紹介したいエピソードもあるのだが、人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人は得てして書きづらい(笑)。

コローの両親はともに実業家夫婦で、コローは唯一の息子だった。経済的には裕福なものの両親は多忙で、コロー4歳までパリ近郊の村へ里子に出された。生涯、風景を愛す三つ子の魂はここで培われたといわれている。
青年期に入り、父のすすめでラシャ卸業者に見習いに入るものの、帳簿に落書きをしたり、配達の途中で風景のスケッチに熱中してしまうコローには、商才を期待できないのであった。
20代になると、当代のプーサンとの呼び声の高い風景画家ミシャロンに弟子入りするが、ミシャロンは急逝したため、ミシャロンの師ジャン=ヴィクトル・ベルタンの下で、戸外の写生を材料にアトリエで調和の取れた自然景観を構築する伝統的な風景画の技法を学ぶことになった。
1825年から3年間、コローはイタリアへ私費留学する。現在にも残るルネサンス期の傑作を目の当たりにしたコローだったが、彼の目は戸外の自然に向いていた。イタリア留学を果たしたコローは、フランス各地を写生旅行して回り、冬場はパリのアトリエで例年のサロン出品に備えるという生活を、78歳で死去するまで続けることになる。
コローは当時の新進気鋭の自然主義の画風や印象派などの革新の動きには、怖気を振っていた。たとえばミレーの人柄は愛したが、

「私にとってこれは新しい世界だ。途方にくれてしまう。私は過去の古典と結びつきすぎているのだ。私はここに(ミレーの作品に)偉大な科学を、大気を、深さを見る。そかし、これは私を怯えさせる。私は自分の小さな音楽のほうが好きだ」

と、コローは語っている。しかし1852年という早い時点からの肖像写真を撮影したり、映像技術に関心を示すなど、決してコローが保守的で革新に無理解であったとはいえない。
1855年の万国博覧会でコローの作品は最高賞に輝き、作品がひっぱりだことなると贋作も出回りだした。しかし、コローは人助けになるなどともっともらしい理由で懇願されると、その贋作に署名までしてやり、あまつさえできの悪いものは加筆修正してやったりした。コローは生涯で二千点の油絵を描いたが、現在アメリカだけでも五千点のコロー作品があるという(笑)。画名の上昇とともに増える収入も、大部分は近親者や友人への援助、寄付に当て、画家のドーミエには家まで買い与えた。(人格として好人物(お人好し過ぎる!?)な有名人については、得てして書きづらい、という意味、なんとなくご理解いただけたかと思う(笑))。

というわけで、作品の感想を述べる。
「朝、ニンフの踊り」は、実はこの作品はコローの真骨頂といっていい「…の思い出」とかいった抒情性をもたせた風景画が登場する頃(1850年以降)に描かれたものなのだ。この作品はコローがパリに滞在中によくオペラやコンサートによく足を運び、心ひかれた俳優や観客の姿をクロッキーに写したことと、第一回のイタリア旅行のスケッチを、無理なく融合させた作品となっているそうだ。
作品を見ているときにはそんなことは知らず、抒情的に描かれている風景と踊っているニンフ(精霊)の意味を勝手に自分の中で作り上げるのが精一杯だったが、舞台の俳優の動きをニンフたちの動きに例え何番煎じであろうか平気で用いるところは、彼の自分の音楽を愛すこだわりの顕れかもしれない。

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