デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



「ローマ人の物語」全15巻を読み終えた。旅行なり読書なり済ませたはいいが、それを弊ブログ上でつづる作業については、とんでもなくスローペースで間に合ってない私の特徴が今回も現れた(笑)。まぁ、書きたいことがまとまってるわけでないし、理解できてないことも多いので、今、巻ごとの感想を述べようがないし…。
ちなみに6月下旬の第8巻の感想を書いた時点で、第12巻を読んでいた。トライアヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝を扱った第9巻(『賢帝の世紀』)が非常におもしろかったことで、一気に加速したのだが、第11巻以降(第10巻はローマ人のインフラ整備を論じた特別巻)の蛮族の襲撃から帝国の腐臭すらただようジレンマに満ちた滅亡への途は、私自身の興味も重なったゆえ、毎日少しずつ読めたようである。
塩野氏は、帝国滅亡の原因を挙げるのではなく、どのように滅亡していったかを描くようにしたと、著書の中でいっているのだが、このことは栄枯盛衰の具体例として読者の心を打つのではないだろうか。私はこれまで、起こったことの結果論を小難しく得意げに書き連ねたものを読むことが多かったが、国の興隆から衰亡への営みを通史として丹念に(塩野氏なりの毒々しいものいいを散りばめて(笑))描いた、長大な作品を読んだのは初めてだった。言葉そのものよりも、そのときの人間(国)は、いかなる行動したか、その行動を追ってこそ、人間や国の営み、さまざまな意味での真実がわかるというのは、何にもまして説得力があった。何でこうなったの?ではなく、こうなるものなのだ、と。いや、せめて、何でこうなったの?ではなく、こうなったのだ、と。

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