デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



カスパー・ダヴィット・フリードリヒ『エルベ川の夕暮れ』(1832)

ドレスデンのノイエ・マイスターには、あと数枚のフリードリヒ(1774-1840)の傑作があったように記憶しているが、この一枚も忘れられない。
フリードリヒは、「肉体の目」に対して自然を内面化する「精神の目」を芸術活動の根本にしていたが、それは作品を見る側に形而上的な瞑想に導くことすらあるように思う。しかし捉えようによっては、それは陰気くさく暗いものとして映るかもしれないし、また以前書いたような宗教的な次元に高められるような神秘的なものを帯びているものとして映るかもしれない。後者は特に、靄や霧、薄明を描いたフリードリヒの作品を見れば、感じることができるように思う。(豊富な図版が載っている本としては、ノルベルト・ヴォルフ『フリードリヒ』(タッシェン)を挙げたい)
ノルウェーの自然主義者の画家ダールと合同で展覧会を行っていたりしたフリードリヒだったが、1820年代中頃から後半に重病を患い、健康状態は改善したものの1830年ごろから次第に世間から隔絶し、自虐的な自我の中に引きこもっていった。
フリードリヒにとっては晩年の失意の時期に描かれたこの作品は、ザクセン美術愛好家教会に買い上げられたが、フリードリヒの後期を飾る美しい作品であることは間違いないと思う。
風景画は、広角レンズでとらえられたような構成になっており、「双曲線図式」と呼ばれるフリードリヒ独特の構図法である。
この絵は創造された風景であることは証明されているが、作品の個々の部分を見る限りではまことに詳細で迫真的である。しかし、写実という観点から見ると、およそありえない自然の図式となっている。決してこのような絵の風景は、現実では見ることができない。
しかし見ることができないからといって、それが美しくないものであるとは限らない。フリードリヒの精神が描く風景画は、有限者に無限者の仮象を与える。ともすれば魂が吸い込まれそうな、危険に満ちているような気もしてしまうのだが、絵の魅力はそういうところにもあるのだと改めて思う。
なお、『エルベ川の夕暮れ』は本によっては「広大な囲い地」と紹介されていることもある。

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