デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



学生の頃、私を政治団体に勧誘しようとしてきた人々、先輩や同期の人間はせめて『静かなドン』のようなこういった本を読んでから政治運動に身を投じるべきだったんじゃないかな、と後の祭り様なことを考えてみたが、恐らくそういった先輩やその先輩を勧誘した人たちも、『静かなドン』を最後まで読みとおせた人はいなかったのでは、というのが読了直後の感想だった。
さて、読書が趣味でない人がつまむ程度でも、ロシア文学・ソ連文学について急遽話しのネタをこしらえたいのであれば、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』、レフ・トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、チェーホフ『戯曲・短編集』そしてショーロホフ『静かなドン』のあらすじ本を熟読すれば大体「通」とみなされるかもしれない(笑)。逆に言えば『静かなドン』は欠かせない。
すぐれた小説には、畢竟「人間とはなにか」といった視点で書かれ、また読者にもそのテーマを深く考えさせるところがあるように思うが、『静かなドン』もそういったすぐれた小説である。
物語が後半に入ってくると、これはもう革命と反革命の各々の側についたドン地方の地元民同士の暴力の応酬・因果応報の話しになってくるが、どうしてそうなったのかといえば、戦争のせいなのであり、またコサックの歴史や政府の政策を背景にして、新思想に感化されて新体制で成り上がり官僚的になってしまい人よりもシステム(保身)が大事になってしまう者らが引き起こす略奪行為、それからわが身を守ろうとする者らの応報からの殺し合いが延々とつづくせいなのである。そうした中での、本編に登場するグリシャカ爺さんが白軍についたグリゴーリイと赤軍で成り上がったミシカ・コシェウォイに、自省を促すため聖書を読み聞かせたところで、何の功も奏さない場面は極めて印象的だ。
赤軍にしろ白軍にしろ、食糧徴発部隊やそれに反抗する徒党にしろ、「正義のため」と称し、やっていることは私怨を晴らしたり女性を強姦したり弱者を痛めつけて食糧を奪い去り飲んでしまうといった行為である。その事実を容赦なく描いてあるところは読んでいて辛いが、よくぞ描いたと思う。このあたりの描写については、セリーヌの『夜の果ての旅』を社会主義運動の錦の御旗にするには人間憎悪が激しすぎると評するくらいの迫力がある。実際、『静かなドン』は当時のソ連政府が好むご都合主義な視点から「革命」を描いているわけではないし、「革命」を賛美するにも到底無理な内容であることは明白である。
しかし、悩ましいところだが、戦争によって略奪される民衆・弱者も、かつては戦争を支持し戦局が順調な時には熱狂した人々なのだ。その人々は、戦地で負傷し、勲章を得たり部下を束ねる立場へと出世したりして凱旋すると、望んでもいないのに身内の家族が勲章を見せびらかしに町中を練り歩いたり、自分の息子が戦功を挙げた戦士だと英雄扱いされるときには自慢し有頂天でいることができるのである。小説の終盤で「なまり」のある農婦が、鞭を手にするフォミーンに対して「正論」を言い放つ場面は心を打つが、その「なまり」のある農婦も「かつての熱狂」を味わっていたであろうことについては、私の頭からずっと離れずにいた。
家をきりもりすることを日々たんたんとこなす者、畑を耕し河で魚を獲ることに生きがいを得ている者、勤勉で真面目な労働者や学生、そういった普通の人々が、どうしてこうなった、また、どうしてこうなるのか。戦争で家の男手(働き盛りの夫や将来を託せる青年)が死亡し、家族の悲しみだけにとどまらず地域が疲弊し、そういった所で生き残って、苦労しながら年をとって初めて「どうしてこうなった、また、どうしてこうなるのか」に気づくのだ。
『静かなドン』はなんとなくタイトルから私は国破れて山河ありというイメージが得ていたのだが、最後のページを読み終えてこのイメージを抱き続けていてよかったと思っている。革命期に翻弄された様々な登場人物たちによる目を背けたくなるような描写を通し「人間とはなにか」といった問いにショーロホフは答えてくれている。


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