デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



日々のエクササイズについて、私は自惚れていたねぇ…。

幻の滝に人様を案内して行った日だったが、山に登る前に私にとってはいい刺激および反省すべきことがあることに気づかされる体験をした。
山登りの前、懸垂ができる器具のある公園に立ち寄った。いつもの懸垂をする時間ではなく、家から外出して間もないから体力的には余裕がある状態だった。
器具のある場所に年配の男性(以下、爺様と記す)がその孫と思わしき小学校低学年の児童の遊び相手をしていた。私は運動がしたかったので器具を使わせていただけるようお願いし、爺様が丁寧かつ親しみを感じさせる口調で「どうぞお使いください」とおっしゃった。すると孫が器具にぶら下がろうとしたので、それをきっかけにぶら下がって腰を伸ばすことやその他健康についての話になった。
すると爺様は「わし、腰を痛めてからなかなか機敏に動くことができないのですわ」と言いながらゆっくり器具にぶら下がり、懸垂を始めたのである。私は正直おどろいた。孫がいるご年齢でなんという力強さだろう!と。
爺様が私にいろいろとお尋ねになったので、「とにかく1セット10回を安定してできるようになりたい、今は10回できるときがある」ことを伝え、私は人様が見ている前だから頑張ろうと意気込み、ぎりぎり懸垂を10回することができた。
爺様が黙って数えてくれていて「10回にいったね。毎日努力する人はわしもすごいと思うよ」とおっしゃったので、私は心中有頂天になり、正直とても気分が良くなったのだ。私も「お孫さんがいらっしゃるご年齢で力強い懸垂をされて、驚いております」と返した。
すると爺様が「私これをやってるんですわ」と右手の拳を私に見せた。私は目を剥いてさらに驚いた。明らかにやわな私の拳とは違い、長年空手をやっている拳なのだった! すると孫が「おじいちゃん、パンチする」と言い出した。爺様が「よし、打ってこい!」と腹をぐっと出して子供の拳を平気な顔して受け始めたのである。これがこの二人の「遊び」なのだ。私があんぐりと口をあけたまま驚いていると、爺様が「道場でも生徒のを受けてますわ」と言うのである。
拳のことは分かったといえ、拳を見た後に爺様の腹の形に気づかなかったのはやっぱり私の目は節穴だった。よく見たら爺様の腹が年齢を重ねて何も鍛えないまま体型が崩れたポッコリお腹じゃないのが、孫とじゃれ合っている様子で分かった。長年のトレーニングに加え稽古で生徒に打たせて鍛えられた、格闘家の腹なのだ。(以下、爺様を先生と記す)
先生は「大人の拳も稽古で受けてるよ」と軽くにこやかに言った後、私に向かっても「どうぞ打ってみてください」と構えるのである。私が本当にいいのかどうか分からず、とりあえず半分の力で恐縮して打ったが、先生は「もっと強く」と言うので、私なりに力をこめてさらに打ったが先生は「もっともっと強く!」と堪える様子は微塵も無い。それどころか私の拳のほうが先生のカチンコチンの腹からの反作用でヒビ入りそうに思えるくらいの衝撃をもらった(笑)。
私があまりのことに、とにかく驚きました、としか言えなくなった時に、先生は、もし空手に興味が湧いたらぜひ連絡をとサッと名刺を出し、運動後の食べ物の話になるとまたすかさず「わしの娘がパン屋をやってますねん」とパン屋の名刺まで渡してくれるのだ。二重の驚きの後に畳み掛けるような営業トークが私に炸裂し、私はパン店を訪ねたくならないのがおかしい気持ちになってきたのである。すごい人は周囲に派手に見えたりすることはせず、接していくある段階のポイントで相手に悟らせ引き込むものをもっているのだ。この場合、私は能ある鷹に爪を効果的に出されたといえるだろう。

孫が「おじいちゃん、他の公園行きたい。行こー」と言い出したので、先生は孫とともに公園を出る準備をはじめた。私が頭を下げつつ、とてもいい刺激になりましたとお礼を言ったら、先生は「わしも今日みたいなことがあったらあなたのこと忘れませんわ。よかったら道場見に来てください。ではまた」と言い残し、颯爽と孫と去って行った。
私は思った。人前で10回懸垂できて、やったー!証人もできた!と思ったところに、私よりも数十段も格上の人と出会う、それも孫をつれてるご年齢の人と。私なんかよりすごい人は五万といるどころか五千万以上いるということを自覚させられ、結果的に若造の私が健康云々について釈迦に説法していたことになる、、、一瞬の有頂天の直後、もっとすごい人と出会う、世の中うまくできてるわ(笑)。

この出会いがあったあと、山登りを始めたきっかけやそれと併せて上半身を鍛え始めたきっかけについて、思い起こしてみた。すると、ちょっと私は自惚れていたのではないか、という反省の念が頭をもたげてきた。というのは、最初は自分のためであったことが、いつしか山でよく出会う方々に懸垂が何回もできるようになったことを褒めてもらいたくて続けるようになっていたと思うのである。運動を周囲に目立つようにやっていればそりゃ「がんばってるね!」と声をかけてもらえる。しかしそれを鼻にかけるようになってしまったら、よく出会う方々であろうがなかろうが私が何回できるようになったかどうかは、どうでもいいことだし知ったことじゃないことかもしれないことに気づかないのだ。先生との出会いは、自分の運動がそもそも周囲の反応のためにやっていたことじゃない、そのことに気づかされるきっかけにもなった。

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